佐原義連

佐原義連(画:菊池容斎)/wikipediaより引用

蘆名家

東国武家にとって因縁深い会津|佐原義連に始まる蘆名一族と共に振り返る

2024/11/19

会津の統治者と聞いて思い浮かべる一族は?

一般的には会津松平家――つまり保科正之や松平容保たちと答える方が多数派でしょう。

特に幕末における知名度は抜群で、

『新選組』や『白虎隊』の諸作品

『獅子の時代』

『新選組!』

『八重の桜』

など数多の映像コンテンツによって、日本人に与えたインパクトは非常に大きいものでした。

しかし、松平家以前にもこのエリアには数多の長がおり、その中でも際立って同地方に影響を与えてきたのは他でもありません。

蘆名一族です。

 

こんなに居た!会津に縁の深い戦国大名家

会津統治者の代表候補は蘆名――そう申し上げても皆さんの反応が薄いのはわかります。

『政宗に滅ぼされたところでしょ? 今更どうしたの?』

なんて受け止められ方かもしれません。

実際、このエリアは、戦国期において伊達政宗だけでなく、他にも多くのスター武将が関わってきました。

蘆名の名前が霞んで消えてしまうほど、存在感の大きな一族が現れ、そして歴史に名を残してきました。

あらためて、以下にリストアップしてみますと……。

・伊達家

◆伊達政宗

→知名度は圧倒的。蘆名派にとってはあまりプッシュしたくない因縁と諸事情がある。

伊達政宗/wikipediaより引用

・蒲生家

◆蒲生氏郷
◆蒲生秀行
◆蒲生忠郷

→会津若松を発展させた人気武将のが氏郷であり、高潔な人柄もアピール性抜群。

キリシタン大名でもあり、今後はブレイクが期待される。

蒲生氏郷/wikipediaより引用

【関連サイト】
会津若松観光ナビ(→link
本田屋継承米(→link

・上杉家

◆上杉景勝

→東北の関ヶ原である【慶長出羽合戦】で主役の一人。アピール性はある。

上杉景勝/wikipediaより引用

・加藤家

◆加藤嘉明・加藤明成

→こちらは例外かもしれません。

せがわまさき氏の漫画『Y十M』(原作:山田風太郎氏『柳生忍法帖』)はじめ、「会津騒動」では悪役に。

ヒールとして認識され、お家取り潰しの憂き目に遭っています。

加藤嘉明/wikipediaより引用

・蘆名家

そして蘆名家です。

上記の彼らよりもずっと古く、しかも最長期間で会津を統治してきた。

数百年という長きに渡って同地方を統治し、会津の基礎を築き上げたのは蘆名一族であり、その偉大さは決して過小評価してはいけません。

ただ……とにかく知名度が低い!

信憑性のある史料も少なめで検証が大変であり、最大の痛手が、東北のスーパースター・伊達政宗に大敗を喫したことでしょう。

【摺上原の戦い(1589年)】において、政宗に生涯最大の勝利を献上してしまい、その反作用として蘆名にはどうしても残念なイメージがつきまとってしまう。

歴史の表層だけなぞると、それはそれは不遇の統治者であります。

もちろん蘆名家は決して凡庸な一族ではありません。

中興の祖である蘆名盛氏については、以下の記事でまとめさせていただきましたが、

蘆名盛氏の肖像画
蘆名盛氏の生涯|伊達と組み武田や北条とも繋がる 会津名将の巧みな手腕

続きを見る

今回は、その興りについて注目。

蘆名一族は如何にして始まったのか?振り返ってみましょう。

 


会津は「出会いの地」

奥羽の歴史――。

それは蝦夷(えみし)が大和朝廷に征伐されたところから始まります。

古来より会津は、蝦夷討伐の玄関口として機能しており「出会い」の場所でもありました。

例えば蝦夷討伐の将軍たちが顔を合わせるエリアだったのです。

第10代崇神天皇(すじん)の時代――。

奥羽へと派遣された四道将軍のうち、北陸道を進んだ大毘古命(おおびこのみこと)および東海道を進んだ建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)は、この会津で出会いました。

福島県大沼郡会津美里町にある伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、彼らが出会い祈ったことがルーツとされています。

伊佐須美神社/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用

紀元前とされる神話の時代から、東北の入口としての歴史があったのですね。

 

頼朝から領有を認められた佐原義連

そして時代が進み、中世に入る頃になると、奥羽の有力者たちは

【鎌倉時代以来の血脈】

を誇りとするようになります。

むろん蘆名家も同様です。

彼等は、三浦義明の子・佐原十郎左衛門尉義連(佐原義連・さわらよしつら)が祖とされておりました。

「蘆名」という名の由来は、三浦氏の本拠地である三浦半島・蘆名からきたものだったのです。

例えば武田信玄の甲斐武田家も、そもそもは【常陸国那珂郡武田郷】の【武田】から来ているとされているように、地名が名字になるケースは少なくありません(姓は別で三浦氏の場合は「平氏」となります)。

佐原義連/wikipediaより引用

この義連が、文治5年(1189年)7月からの【奥州合戦】で活躍したため、会津の領有を源頼朝から認められたとされています。

 

『葦名系譜』

奥州合戦とは、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を征服した戦いですね。

キッカケは源義経の身柄要請。

奥州藤原氏が先手を打って義経を殺し、鎌倉へ首を届けると、頼朝はこれで良しとせず藤原泰衡の追討を実行します。

源義経/wikipediaより引用

全国から武士を動員し、頼朝自ら出陣して多賀国府(宮城県)~平泉(岩手県)へと進むと、郡贄柵(にえのさく・秋田県大館市)に逃げた泰衡は家臣の河田次郎に殺され、ここに頼朝の奥羽制覇は完了します。

一連の合戦における佐原義連の働きについて、詳細は不明です。

後に会津を領有することは事実。

しかし実際に会津に足を踏み入れ、統治するまでは間が空きます。

『葦名系譜』といった史料から、その歩みをざっと見ていきましょう。

建武2年(1335年)蘆名盛員が息子の蘆名高盛と共に足利尊氏の軍に参加・片瀬川(藤沢市)にて戦死

康暦元年(1379年)蘆名直盛が会津に下向

至徳元年(1384年)黒川(のち若松と改称)を根拠と定める

応永7年(1400年)満盛は伊達政宗(9代目・独眼竜ではないほうの政宗)と結び、篠川御所に敵対する

応永23年(1416年)蘆名盛政が「上杉禅秀の乱」において、関東公方・足利持氏に対抗する。このころには「会津守護」として会津地方を統治する

天文7年(1538年)後奈良天皇宸筆『般若心経』が国別に下される。会津は蘆名盛舜宛

かように会津を統治してきた蘆名一族。

その全盛期は、蘆名盛舜の子・蘆名盛氏のときに迎え、彼が政宗と同時代に生きていれば容易く侵攻されることもなかったでしょう、とお伝えさせていただきました。

よろしければ以下の記事をご覧ください。

蘆名盛氏の肖像画
蘆名盛氏の生涯|伊達と組み武田や北条とも繋がる 会津名将の巧みな手腕

続きを見る

蘆名の興亡について。

後日引き続き、考察していきたいと思います。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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