明治26年(1893年)12月5日は、実質的な最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の命日です。
26歳の若さで京都守護職を担い、孝明天皇から絶大の信頼を得ながら、その死後に新政府軍との激しい戦となる――。
幕末作品には欠かせない悲劇の人物は一体どんな生涯だったのか。振り返ってみましょう。

松平容保/wikipediaより引用
高須藩邸で生まれた松平容保
松平容保は、江戸・四谷にあった高須藩邸で生まれました。
会津若松のイメージが強い容保が江戸っ子(?)というのは意外な気もしますけれども、当時、大名の妻子は基本的に江戸にいるので当たり前ですね。
10歳のとき叔父の会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、16歳のとき家督を継承。
上記の通り水戸藩主の血を継いでいるからなのか。【桜田門外の変】の際には水戸藩討伐に反対し、調停に動いています。

桜田門外の変襲撃の図(月岡芳年)/wikipediaより引用
このとき容保は24歳なので、若い頃から随分苦労していたことになりますね。
京都守護職に就いたのは26歳のときのことです。
徳川の血を引いている上に、元々美男子で有名だった容保ですから、そんな人が都を守ってくれると言われれば、男女問わず宮中の人々は心強かったことでしょう。
臆病風に吹かれた総大将・慶喜
松平容保は十四代・徳川家茂の警護や、新選組、京都見廻組を組織して都の治安維持に努めました。
孝明天皇からは直筆の手紙や御製の歌をいただいたりして、絶大な信頼だったことは間違いありません。

孝明天皇/wikipediaより引用
その後は十五代将軍・徳川慶喜に付き従い、大坂から船で江戸へ戻りました。
というより【鳥羽・伏見の戦い】後に怖気づいてしまった慶喜により、松平容保も強引に連れ戻されてしまったんですね。
この時点でどこの大名家でも調停に恭順するか、徹底抗戦するか、意見が分かれて揉めに揉めていた頃です。
元々は徳川慶喜が大坂で配下の幕府軍に「戦おう!」と煽っておいて、自身が急に江戸へ逃げ帰ったものですから、容保にしてみれば振り上げた拳の行所も失い、困惑の極みだったでしょう。
江戸に戻った慶喜は、閑職に干されていた勝海舟にわざわざ頼み込み、江戸城無血開城(つまり自身の身の保証)をお願いするほどです。
総大将がこんな調子では戦争もへったくれもありません。
しかし、国許の会津ではそう簡単に「はい、そうですか」と認められるワケもありません。
容保と会津藩の支えとも足かせともなったのが、藩祖・保科正之の遺した教訓【家訓十五カ条】でした。
容保の首を執拗に要求され
家訓十五カ条・その第一にいわく。
「将軍家に忠義を尽くすこと。もし将軍家に逆らう藩主が現れたら、例え私と血が繋がっていたとしても、我が子孫ではないから従わなくてもよい」(意訳)
上記のような状態で、これを遵守すべしとする人々の声が高まれば、いかに藩主といえども押さえつけることはできません。
この動きを察した新政府軍も、容保以下会津藩が素直に恭順するとは思っていませんでした。
キナ臭い空気の中、他の東北諸藩は伊達家を中心にして奥羽列藩同盟を組み「ちょっとちょっと両方とも落ち着いて」と仲介に動きましたが、とき既に遅し。
容保は徹底抗戦の覚悟を決め【会津戦争】が始まりました。
そもそもが孝明天皇の意思を尊重し、幕府からも頼まれて行動していた会津藩です。
とても引き下がれるわけがない状況でした。
領民の憎しみが容保に向けられるも
大坂で戦いを煽っておきながら、すぐさま戦場から退避した総大将の徳川慶喜。
これでは勝てる戦も士気は上がるはずなく、会津藩もどんどん追い込まれてゆきます。
松平容保が再び考えを変えたのは、奥羽列藩同盟のほとんどが新政府軍に降伏してからのこと。
なおも交戦を主張する家臣たちの説得もしていますが、そのときには既に白虎隊の悲劇が起きた後、つまり、多くの会津藩士が戦死した後でした。

新政府軍の攻撃を受け損壊した会津若松城/wikipediaより引用
この流れでは、戦が終わった後、容保一人に領民の憎しみが向けられるのも仕方のないことですよね……。
新政府軍が、会津藩を含めた幕府側の人々に苛烈な仕打ちをしたことも原因ですが、後日、容保が新政府軍によって東京へ護送されていくとき、見送ろうとする領民はほとんどいなかったといわれています。
しかし、その感情がずっと続いたわけではありませんでした。
被災者たちは旧怨を忘れ容保の登場を喜んだ
会津戦争から20年後の明治二十年(1888年)、磐梯山の噴火により、旧会津藩領は甚大な被害を受けました。
噴火活動自体は2~3時間で終わったのですが、五色沼など磐梯山周辺にある数々の沼や湖は、このときに川がせき止められてできたものです。
そう考えると、規模の大きさが何となくわかりますよね。
公式記録での犠牲者は死亡者477名、負傷者28名といわれています。
容保は明治時代に入ってからは蟄居を申し付けられた後、明治十三年(1880年)に日光東照宮の宮司を務めていましたが、磐梯山噴火の知らせを聞き、直ちに旧領へ向かいました。
容保の顔を見た被災者は、旧怨を忘れて喜んだといわれています。
会津戦争時代の住民の中には、この間に亡くなったり他所へ移ったりした人もいたでしょうし、ずっと容保を許せなかった人もいたでしょう。
しかし、20年の月日が少しは恨みを和らげたのではないでしょうか。
まぁ、会津の地を追い出された旧会津藩士たちは、以下の記事のように北海道や斗南藩への移転を余儀なくされ、その後、凄まじい苦労を強いられておりますが……。
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朝廷のほうでも、何かと容保や会津のことは気にかけていたようです。
明治天皇の義母・英照皇太后は、容保の晩年に見舞いとして牛乳を送ったことがあるとか。
宮中の侍医頭だった橋本綱常という人物が容保の主治医も務めていたので、彼を通じて届けたのだそうです。
容保は牛乳の匂いが苦手だったので、綱常は皇太后から預かった牛乳にコーヒーで味をつけて渡したと言います。
英照皇太后と綱常の気配りに涙し、起き上がってコーヒー牛乳を飲んだといわれています。
そして、容保が明治二十六年(1893年)に57歳で亡くなってからも、その気遣いは続きました。
昭和三年(1928年)、大正天皇の第二皇子・秩父宮雍仁親王に、容保の孫・勢津子が嫁いだのです。
この時代には佐幕派だった人物の孫が続けて皇室に嫁いでおり、「後々まで維新の遺恨を残さぬように」という配慮がうかがえます。
個人の感情が突然・完全に消えることはないと思いますが、こうして少しずつ遺恨を和らげていくことが、未来に進むということなのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典(学習研究社)』(→amazon)
松平容保/Wikipedia









