明治26年(1893年)12月5日は、実質的な最後の会津藩主・松平容保(かたもり)の命日です。
26歳の若さで京都守護職を担い、孝明天皇から絶大の信頼を得ながら、その死後に新政府軍との激しい戦となる――。
幕末作品には欠かせない悲劇の人物は一体どんな生涯だったのか。振り返ってみましょう。
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高須藩邸で生まれた松平容保
松平容保は、江戸・四谷にあった高須藩邸で生まれました。
会津若松のイメージが強い容保が江戸っ子(?)というのは意外な気もしますけれども、当時、大名の妻子は基本的に江戸にいるので当たり前ですね。
10歳のとき叔父の会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となり、16歳のとき家督を継承。
上記の通り水戸藩主の血を継いでいるからなのか。【桜田門外の変】の際には水戸藩討伐に反対し、調停に動いています。
このとき容保は24歳なので、若い頃から随分苦労していたことになりますね。
京都守護職に就いたのは26歳のときのことです。
徳川の血を引いている上に、元々美男子で有名だった容保ですから、そんな人が都を守ってくれると言われれば、男女問わず宮中の人々は心強かったことでしょう。
臆病風に吹かれた総大将・慶喜
松平容保は十四代・徳川家茂の警護や、新選組、京都見廻組を組織して都の治安維持に努めました。
孝明天皇からは直筆の手紙や御製の歌をいただいたりして、絶大な信頼だったことは間違いありません。
その後は十五代将軍・徳川慶喜に付き従い、大坂から船で江戸へ戻りました。
というより【鳥羽・伏見の戦い】後に怖気づいてしまった慶喜により、松平容保も強引に連れ戻されてしまったんですね。
この時点でどこの大名家でも調停に恭順するか、徹底抗戦するか、意見が分かれて揉めに揉めていた頃です。
元々は徳川慶喜が大坂で配下の幕府軍に「戦おう!」と煽っておいて、自身が急に江戸へ逃げ帰ったものですから、容保にしてみれば振り上げた拳の行所も失い、困惑の極みだったでしょう。
江戸に戻った慶喜は、閑職に干されていた勝海舟にわざわざ頼み込み、江戸城無血開城(つまり自身の身の保証)をお願いするほどです。
総大将がこんな調子では戦争もへったくれもありません。
しかし、国許の会津ではそう簡単に「はい、そうですか」と認められるワケもありません。
容保と会津藩の支えとも足かせともなったのが、藩祖・保科正之の遺した教訓【家訓十五カ条】でした。
容保の首を執拗に要求され
家訓十五カ条・その第一にいわく。
「将軍家に忠義を尽くすこと。もし将軍家に逆らう藩主が現れたら、例え私と血が繋がっていたとしても、我が子孫ではないから従わなくてもよい」(意訳)
上記のような状態で、これを遵守すべしとする人々の声が高まれば、いかに藩主といえども押さえつけることはできません。
この動きを察した新政府軍も、容保以下会津藩が素直に恭順するとは思っていませんでした。
キナ臭い空気の中、他の東北諸藩は伊達家を中心にして奥羽列藩同盟を組み「ちょっとちょっと両方とも落ち着いて」と仲介に動きましたが、とき既に遅し。
容保は徹底抗戦の覚悟を決め【会津戦争】が始まりました。
そもそもが孝明天皇の意思を尊重し、幕府からも頼まれて行動していた会津藩です。
とても引き下がれるわけがない状況でした。
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