江戸幕府最後の将軍は、ご存知、第15代の徳川慶喜――。
存在感がある。
ゆえに多くの幕末フィクションにも登場する。
ならば実際の慶喜も魅力的だったのかどうか?
というと、昨年話題になったNHKドラマ10『大奥』では、とんでもなく嫌味ったらしい人物に描かれており、そのキャラに驚かれた方も少なくないでしょう。
フィクションだからって、いくらなんでも誇張しすぎではないか?
そう疑問を感じた方もいたはずです。
が、しかし……。
恐ろしいことにドラマ10『大奥』の慶喜像は、かなり的確に人物像を捉えているかもしれません。
要所要所の描写が、関係者や幕臣たちから嫌われ指摘されていたことと重なるのです。
特に劇中でも描かれた徳川家茂や孝明天皇、島津久光らが絡んでのシーンは、慇懃無礼な慶喜の真骨頂!
というわけで、本記事では「史実の慶喜がどんな政治活動をしてきたか?」に注目し、将軍になる前後の時期を中心に政治家としての慶喜を振り返ってみました。
慶応2年(1867年)12月5日は徳川慶喜が15代将軍に就任した日。
『ドラマでもあった、泥酔して島津久光を面と向かってバカにしたシーンは、さすがにウソだよね……』
そんな疑問などにも触れながら、進めて参りましょう。
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最初と最後は例外的な徳川将軍
渋沢栄一を主人公とした大河ドラマ『青天を衝け』は、冒頭に北大路欣也さん扮する徳川家康が出てきました。
黒子を前にして歴史解説を述べるユーモラスな姿が、わかりやすいという評価もありましたが、幕末史を考える上では大きな問題となりそうです。
徳川家康と慶喜は、最初と最後ということもあり、例外的な徳川将軍とも言える。
この二人を徳川将軍の典型とすると、事実誤認が発生しかねません。
江戸時代の特徴的な制度とされる【海禁政策(いわゆる鎖国)】、大奥といったものは、家康が定めたわけではありません。
慶喜にしても、将軍時代は江戸城に入ったことがありません。
幕末政治におけるイデオロギー争いにおいて、たしかに慶喜は存在感を示しています。
一方で【横須賀造船所】などの幕政最後の重要決定は、慶喜の手から離れたところで決められている。
そういう例外的存在の家康が、同じく例外的存在である慶喜をナビゲートする『青天を衝け』の描写は適切とは思い難い。
ドラマとしては面白くとも、歴史を振り返るという点では頭から消し去った方がよさそうです。
将軍継嗣問題 その後始末
【黒船来航】直後に12代将軍の徳川家慶が急死。
後継者である13代・徳川家定に男子がいなかったため勃発した、14代将軍をめぐる【将軍継嗣問題】は、幕府に深い禍根を残しました。
この問題はそもそも、血統でいえば慶福(14代・徳川家茂)で決まっていたはず。
にもかかわらず、一橋派が年長賢明という要素を持ち出し、強引に割り込んできた。
将軍継嗣問題とは、本来問題にすらならないようなことを、徳川斉昭とその周辺が担ぎ出して、わざわざ幕府にトラブルを持ち込んだのです。
一橋派と南紀派という図式も正確ではありません。実情は、一橋派の無茶苦茶な言動に反対していた勢力が南紀派と言える。
一橋派の神輿である一橋慶喜自身には、政治的野心はなかったように思えます。
むしろ熱心だったのは父親である徳川斉昭。
斉昭と一致団結していた松平春嶽は、後に「斉昭の親馬鹿に振り回された」と振り返っています。
慶喜は聡明であるが、その人間性までは考慮しきれていなかった――それが明治になってからの、松平春嶽の偽らざる本音でしょう。
いずれにせよ【将軍継嗣問題】は、幕政に深い禍根を残してしまいました。
その一例が、家定の意を受けた井伊直弼による【安政の大獄】です。
吉田松陰の処刑が真っ先に挙げられますが、あれは偶然のタイミングと言える。
別の捜査で松陰を取り調べていたところ、勝手に老中暗殺計画を自白したため処刑されたのです。
当時の吉田松陰はそこまで大物ではありません。松下村塾生の多くが後に明治政府中枢に座ったため誇張され、現在にまで名が轟くようになりました。
橋本左内の処刑も大きく扱われますが、西郷隆盛のメンタリティに影響を与えたため、フィクションで大きく扱われるのでしょう。
結果、幕府に大きな傷跡を残してしまった一連の騒動。
岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志といった有能な幕臣も処罰を受け、幕政にとっては最大の悪影響となりました。
さらには一橋派の諸大名(水戸斉昭・松平春嶽ら)も処罰を受けたため、その復讐として水戸藩士が主導した【桜田門外の変】が勃発してしまいます。
「暴力により政治が変えられる」という悪しき前例は、この後の幕末から近代にかけても深い傷を残しました。
そして肝心の斉昭が、この後、心臓病で急死すると、慶喜は、芝居がかったほどの謹慎生活を送ります。
風呂に入らない。
月代を剃らない。
麻袴着用。
昼間でも雨戸を締め切って読書すらできない。
縁側にも出ない。
といっても、政治の表舞台から遠ざけられたことを本人がどれほど気に病んだか? 真実のところは判然としません。
慶喜には、他人には理解し難い不可解なところがあります。真意が見えないことが、政治の舞台に立った慶喜に付き纏うのでした。
慶喜と一橋派の復活
斉昭の急死は、徳川慶喜こそ将軍に相応しいと考えていた者にとって、歓迎すべきことだったかもしれません。
当時の慶喜はこんな風に評価されていました。
「聡明だし、見どころもあるかもしれない。しかしあの人はオンブオバケだからな ※背中に妖怪、つまり父・斉昭がついているということ」
それが斉昭の急死により、厄介な父というオプションが外れ、慶喜は期待の人材となった――そう思えたのかもしれません。
万延元年(1860年)になると【安政の大獄】による処分が解かれ、待望の貴公子が復活できる状況が揃いました。
このころから政局の舞台は江戸から京都へ。
何か意見があれば、上洛すること。それが藩主から志士まで、共通理解となるのです。
立ち上がったのが薩摩藩の島津久光。
その兄・島津斉彬は、安政5年(1858年)に亡くなる直前、成し遂げようとしたことがありました。一橋派の弾圧に抗議するため、上洛することです。
国父(12代藩主・忠義の父)として政治を取り仕切っていた久光は、【安政の大獄】により処罰を受けた西郷隆盛に代わり、大久保利通を懐刀として上洛に突き進みます。
そしていざ上洛すると、久光は玉突き状態で政局を動かしました。
朝廷にかけあい、勅使・大原重徳を江戸に派遣。
そこで一橋派の復活を推し進めた結果、松平春嶽が政事総裁職となり、慶喜は一橋家相続が再度認められ、さらには将軍後見職とされたのです。
ここに、ひとつのビジョンが実現したことになります。
一橋派の面々、こと島津斉彬のような大名は、慶喜の力量に惚れ込んで支持したわけではない。
慶喜を担いだ政治体制の方が大名家の意見が通りやすい。そう見越してのことであり、久光は目論見を達成したことになります。
しかし久光にも、見落としていたことがありました。
「慶喜は聡明であるが、だからこそ、将軍として担ぐにはかえって弱点となる」
斉彬がそう懸念していたように、実際、久光は身をもって知ることとなるのです。
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