月岡芳年/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

最後の浮世絵師・月岡芳年|血みどろで凄惨な錦絵の果てに辿り着いた“月”の境地

大河ドラマ『べらぼう』で描かれた江戸の出版事情。

黄表紙や狂歌が大きくクローズアップされる中、最も注目されたのが浮世絵でしたが、最終盤に来て残念なことがありました。

歌川豊国や西村屋の出番が皆無だったことです。

実際のところ、蔦屋重三郎がプロデュースした東洲斎写楽がコケて消えていったのに対し、江戸っ子に厚く支持されたのは歌川豊国であり、その後、歌川派全盛の時代を迎えることになります。

ドラマの描き方ではそうした流れがプツリと切れてしまい、せっかくの浮世絵が江戸後期から幕末を経て明治以降どう繋がっていったか?そんな日本文化の潮流が全く示唆されずに終わってしまいました。

そこで今回注目したいのが月岡芳年です。

月岡芳年の画像

月岡芳年/wikipediaより引用

歌川玄冶店派(国芳)の継承者であり、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」とも呼ばれる人物で、今再び注目を浴びるようになっています。

一例を挙げると朝ドラ『ばけばけ』の劇中で、

月岡芳年『大日本名将鑑』

月岡芳年『大日本名将鑑』/wikipediaより引用

芳年の描いた神武天皇の一枚が飾られていました。

さほどに当時の生活に溶け込んでいた月岡芳年の作品。

いったい当人はどんな人物で、どのようなかたちで明治時代まで浮世絵を描き続けたのか?

生涯を振り返ってみましょう。

🏢 明治・大正・昭和|近代日本の政治・文化・戦争・人物を俯瞰する総合ガイド

 

天保生まれの絵師

天保10年(1839年)、高杉晋作や相良総三が生まれた同じ年に、江戸新橋南大坂町の商家吉岡家に米次郎こと後の月岡芳年が生まれました。

生まれは武家で、養子に入ったともされています。

この年には明治の落語家・三遊亭円朝も生まれております。

天保年間は幕末から明治にかけて駆け回った者たちが多く生まれた時代。

しかし彼の幼少期は不明点も多く、母と幼くして別れ、父の再婚相手とそりが合わず、伯父の家で少年期を過ごしたともされています。

嘉永3年(1850年)頃、同年代の少年たちが奉公にあがる12歳で歌川国芳に入門すると、その3年後にはデビューを飾り、しばらく名は見えなくなります。

『枕辺深閏梅』下巻口絵における国芳の自画像

『枕辺深閏梅』下巻口絵における歌川国芳の自画像/wikipedia

ぼちぼちと再び名前が出始めるのが安政6年(1859年)頃でした。

当時手がけた作品は、役者絵のような定番ものから、国芳一門の得意とする武者絵の比率も徐々に増えているところでしたが、この安政という年号には、不吉な影もつきまといました。

安政2年(1855年)に【安政江戸地震】が起き、兄弟子の落合芳幾(よしいく)は妊娠中の妻を失っています。

地震だけでなく“コロリ”ことコレラも大流行。

国芳一門と親しい山東京山も亡くなってしまいました。

 


歌川国芳の死

嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、いわゆる“幕末”期を迎えていた日本。

それから【安政の大獄】を経て、7年後には【桜田門外の変】という前代未聞のテロ事件が勃発、さらにその翌年の文久元年(1861年)には、江戸っ子たちの涙を誘うような出来事も起きました。

月岡芳年や落合芳幾の師匠である歌川国芳が亡くなったのです。

享年65でした。

数多いる浮世絵師の中で最も弟子が多いとされた国芳一門からは、個性豊かな絵師たちが輩出されて最盛期を迎え、前述の通り「最後の浮世絵師」という世代を迎えます。

その代表が月岡芳年と、兄弟子にあたる落合芳幾でした。

師匠・歌川国芳の死絵(追悼の思いを込めた遺影のような絵)を手掛けたのは兄弟子の落合芳幾。

落合芳幾による歌川国芳の死絵/wikipediaより引用

落合芳幾による歌川国芳の死絵/wikipediaより引用

弔問客でごった返す歌川国芳の葬式で、ボーッと座っている弟弟子に苛立った芳幾は、芳年を蹴り飛ばしました。

「ぼさっとしてんじゃァねえよ!」

何かと血の気の多い国芳一門で、喧嘩は日常茶飯事、葬式でまで弟子同士で暴力沙汰が起きたのです。

師匠の歌川国芳は、芳幾をこう評していました。

器用だが、覇気に欠ける

『粋興奇人伝』の落合芳幾

『粋興奇人伝』の落合芳幾/国立国会図書館蔵

そして月岡芳年は、こう言われました。

覇気に富むけれども、不器用である

芳年の名は、こうした時代と重なるようにして浮かび上がっていくのです。

 

幕末の絵師は屍を模写する

幕末の錦絵は、ジャーナリズムとしての使命を急速に帯びてゆきました。

例えば、14代将軍・徳川家茂の上洛では、東海道を通り京都へ向かう錦絵が描かれています。

のどかな漁村だった横浜が、外国人が暮らす都市へと急変してゆく様を描いた【横浜絵】も人気の画題。

一方、京都では、記録として生々しい絵が描かれていました。

生き晒しにされた女。

惨殺死体……。

舞台の上で斬り合う役者や、物語の中の戦いを描けばよかった――歌川国芳の時代は終わりつつあったのです。

文久2年(1862年)、月岡芳年は『梟首図』を残します。

晒し首を写実的に描いた作品です。

弟子によると、芳年は殺された遺体を熱心に写生するなど努力を続けており、そんな姿勢は、版元からも世間からも称賛されています。

【フランス革命】の最中、ダヴィッドは『マラーの死』を描く際、死体の実物をスケッチして仕上げました。

ギロチン送りになる処刑者があふれていたこのころ、死体の入手は容易でした。

血腥い時代の画家とは、その時代に見合う努力をするのでしょう。

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殺伐とした時代に合致した『英名二十八衆句』

絵師としての「月岡芳年」の号が誕生したのは、江戸幕府最後の年号となる慶応元年(1865年)を迎えた頃でした。

このとき、月岡雪斎の画姓を継承したとされるものの、月岡家との関係も実ははっきりしません。

月岡芳年の名は、血糊とともに人々の記憶に残ることとなりました。

国芳が亡くなった後でも、一門の絵はとにかく売れる。

綺羅星の如く腕利きの門人がいるとなれば、弟子たちのライバル関係に熱視線が送られる。

そんなニーズを察知した版元は、慶応2年(1866年)末から慶応3年(1867年)6月にかけて、半年シリーズの『英名二十八衆句』を手掛けます。

歌舞伎の名場面を売れっ子絵師の二人に競い合わせるように描かせた――その一人が月岡芳年で、もう一人が兄弟子の落合芳幾でした。

『英名二十八衆句』は、歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描きます。

実は怖い浮世絵。

無惨絵。

狂気を感じる作品。

そんな決まり文句とともに真っ先に挙がるのが、この作品です。

それまでも血糊がべっとりと描かれた浮世絵はあり、師匠の国芳だって手がけています。

しかし、芳年の場合は、一線を超えたドぎつさがある。

生きたまま生皮を剥ぐ。アンコウのように吊し上げた人間を切る。迫り来る狂気が凄まじく、教科書には掲載できないほどでしょう。

月岡芳年『英名二十八衆句』

月岡芳年『英名二十八衆句』/wikipediaより引用

芳年と芳幾という絵師の個性というよりも、時代が生んだ魔の星かもしれない――さながら血を求めているかのように描かれたシリーズ作品。

その中には「笠森お仙」もあります。

江戸の伝説的な看板娘で当時のアイドルを描いた作品は美人画の定番でもあり、あいくるしい娘がお茶を運ぶ姿が売りでした。

鈴木春信「お仙茶屋」/wikipediaより引用

笠森お仙・勝川春章作/国立国会図書館蔵

それが河竹黙阿弥作、慶応元年(1865年)初演の歌舞伎『怪談月笠森(かいだんつきのかさもり)』で、お仙は殺された姉・おきつの仇討ちに挑みます。

芳年が描いた「お仙」は、これをさらにバッドエンドにしました。

乱れた髪を男に掴まれ、激しくのけぞり、虚な目を宙に向けている。生々しい血糊がびっしりとつき、裾からは跳ね上げた脚がのぞく。

そして、骨も残らぬほど殺されてしまうという、酷い展開が待ち受けています。

これを描く芳年、許す版元、買い漁る江戸っ子……いったい時代はどれだけ殺伐としていたのか。

幕末の世相を表す記事は以下に譲り、

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芳年の浮世絵を発行した版元に注目しますと、このシリーズ内で仇討ちをして返り討ちにされて殺された人物「遠城喜八郎」も二人の絵師に描かせ、

「さあどちらがグロいか、見ていきなせぇ!」

というノリで発売しています。

「俺ァやっぱし、芳幾の遠城喜八郎の方が好きだねぇ。騙し討ちにあったモンだから、石つぶてがあたってヨォ」

「いやぁ、俺は芳年だな。もはやこれまでと悟って仏像に倒れ込むのがいい。矢がいっぱい刺さってんのもグッとくらァ」

こういう雰囲気が江戸に蔓延していたのでしょう。

いかに幕末が殺伐としていたか、浮かんでくるようで、絵師の血みどろ絵を見ているだけなら、まだマシかもしれません。

なんせ京都では暗殺が頻発。

しかも殺した後、気分がスッキリした、愉快であった、痛快だ……そんな感慨も記録されています。

日本人の心は荒廃の極みに向かいつつあったのです。

月岡芳年『英名二十八衆句 炎上』

月岡芳年『英名二十八衆句 炎上』/wikipediaより引用

 


『魁題百撰相』上野で見た凄絶な勇姿を

慶応3年(1867年)、月岡芳年は血みどろの絵を世に送り出していました。

すると、明けて慶応4年(1868年)から明治元年となる歳の正月――江戸っ子たちは、わけがわからない事態に直面します。

「あの豚だの牛だの食ってやがる一橋が、京都から戻ってきちまったってよォ!」

「それァいってぇどういうことでェ!」

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幕府軍の総大将である徳川慶喜が、戦場を放り出し、さっさと江戸へ逃げ帰ってきたのです。

勝海舟は「自分にとっての将軍とは家茂であった」と語っていました。

これは多くの幕臣も同じ思いで、江戸で将軍となり、東海道を上洛していった家茂こそが、敬愛をおぼえる将軍様でした。

慶喜はわけのわからぬまま京都で将軍となり、それが江戸までトンズラしてたのだから、サッパリわけがわからない。

京都の政争を伝え聞いていただけの江戸っ子に、厳しい現実がつきつけられます。

江戸の街を騒がせる殺人、強盗、放火……。

犯罪者集団があらわれると「薩摩の者である」と去ってゆく、おそるべき【薩摩御用盗】が江戸の町に出没し始めました。

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それでも江戸城の奥に縮こまるしかない徳川慶喜。

和宮や勝海舟、山岡鉄舟たちがその首をつなぐべく、西郷隆盛と交渉し【江戸開城】は実現します。

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しかし、だからといって無血でおさまるわけもありません。

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榎本武揚は幕府海軍を率いて海から北へ向かい、新選組は甲陽鎮撫隊となり、甲府をめざして東山道を進んでゆきます。

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江戸の街を、揃いの打裂羽織に義経袴をつけた彰義隊士が闊歩してゆく。

その様子を見る江戸の女のかんざしには、将棋の駒をモチーフにした飾りがついています。

最期に歓楽を求める彰義隊士をもてなし「情夫(いろ)を持つなら彰義隊」と語る遊女。

女房子どもをなんとかして逃す者。

大八車を押して逃げる者。

上野戦争(彰義隊)

上野戦争(画:歌川芳盛 )/wikipediaより引用

そんな中に版元と絵師もいました。

検閲をかい潜るべく知恵を総動員し、戦う幕臣、彰義隊、新選組、会津藩、庄内藩を応援する絵を描き、刷り、売り出す。

彼らならではの戦いに挑んでいたのです。

上野の山に登った彰義隊士。

そこへ雨あられとアームストロング砲を打ち出す西軍。

弟子の年景とともに、芳年はこの戦を目に焼き付け、筆を動かし続けました。

かつて師匠の歌川国芳は、火事や喧嘩があればすっとんで行き、現場の様子を掴むことの大切さを弟子たちに教え込んでいました。

その弟子である芳年は、目の前で繰り広げられる殺戮を描き続けたのです。

一方的に殺し尽くし、遺体を執拗に切り付ける西軍。

経帷子を巻き付け、木によりかかったまま息絶える彰義隊士。

首を抱えたもの。

人肉を食うもの。

はらわたがはみ出したもの。

血を吐き、血の気が失せ、死にゆくもの。

芳年の見た地獄は『魁題百撰相』に描かれました。

月岡芳年『魁題百撰相 森坊丸』

月岡芳年『魁題百撰相 森坊丸』/wikipediaより引用

このシリーズは戦国時代を題材に英雄を描いたとされるものの、おかしな箇所が大量にあり、読み解きが必要な作品です。

戦国時代には無い、大砲や赤熊(しゃぐま)の被り物をした武将が描かれている。

足利義輝とされる最後の将軍が、徳川慶喜に酷似している……要は、様々な工夫を凝らし、実際には幕末から明治へと移りゆく流れを活写したのですね。

月岡芳年『魁題百撰相 足利義輝公』と徳川慶喜の画像

月岡芳年『魁題百撰相 足利義輝公』と徳川慶喜/wikipediaより引用

この『魁題百撰相』は、師匠の国芳のリベンジを果たした作品ともいえます。

西洋画の技法を積極的に取り入れていた国芳は、リアルタッチの赤穂義士たちを描いた『誠忠義士肖像』を手がけました。

しかしこれが理解されなかったのか、全く売れず、打ち切りになってしまったのです。

国芳は大いにくやしがり、赤穂義士パロディを描いて憂さ晴らしをしましたが、あの西洋画から学んだリアルタッチの描き方が『魁題百撰相』では活かされています。

生々しい表情がそこにはあり、62作目で打ち切りとなるものの、国芳の時代と比べて受け入れられました。

芳年は、これ以外にも幕末の大事件を描いた絵が多く、Wikipediaはじめ、様々なシーンで利用されています。

仮に月岡芳年の名を知らずとも、彼の絵を一度は見かけている方は少なくないでしょう。

 

大蘇芳年 スランプから復活

作品が売れないことで精神状態が悪化する――これは絵師には避けがたい苦況であり、そうした悪いところも月岡芳年は師匠から受け継いでしまいました。

しかも、より重症となり、明治3年(1870年)、芳年は神経衰弱に陥ってしまいます。

それまで百点以上発表された作品が、この年はわずか一点のみ。

弟子からの月謝のみを収入源とする中、芳年は貧困に落ち込み、ついには床板を剥がして燃料とするほどです。

お琴という恋人が、かんざしや着物を売り彼を支え、明治4年から明治5年(1872年から1873年)にかけて、復帰を賭けた『一魁随筆』を描きます。

が、これも売れず、芳年はこう呟きました。

「盲目千人、盲目千人……」

明治6年末(1873年)、芳年は「大蘇芳年」と筆名を変え、気合を入れ直します。

ええい、これが売れなきゃ都落ちでえ、筆を折る!

そう気合をいれて、挑んだ大作――それが明治7年(1874年)に送り出された6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』でした。

月岡芳年『桜田門外於井伊大老襲撃』

月岡芳年『桜田門外於井伊大老襲撃』/wikipediaより引用

思えば血なまぐさいテロルの時代は、桜田門外から始まっています。

愛するお琴も日蓮に祈り、売れるように願いました。

すると、起死回生を賭けたこの大作は売れに売れ、見事復活を遂げたのです。

そして芳年を支えていたお琴は、老母の面倒を見ると言い残し、別れを告げて去ってしまいます。

数年後、芳年の夢に女の幽霊が現れました。

着物の柄はお琴と同じではありませんか!

飛び起きた芳年はその幽霊の女を何枚も描いていたとか。

作品としては完成しなかったものの、その要素は他の作品に受け継がれてゆきます。

残酷絵ばかりが注目されがちな芳年ですが、マルチな才能の持ち主で、美人画も得意であり、明治らしくドレス姿のレディも描いております。

そんな美人画には、彼が愛し、愛された女性の面影も反映されているのでしょう。

愛していたのは女性だけでもありません。

師匠の歌川国芳は猫が大好きなことで有名です。

『枕辺深閏梅』下巻口絵における国芳の自画像

『枕辺深閏梅』下巻口絵における歌川国芳の自画像/wikipedia

芳年が描いた師匠の追善絵には、猫を大いに好んだことを記されており、足元にチョコンと顔をのぞかせる白猫を描かれています。

師匠の猫への愛という点も、芳年は共通しておりまして、弟子が芳年を描いた絵には猫の姿もあります。

芳年の猫絵はたいへん愛くるしい。決して残酷絵だけの絵師ではない。

彼は愛にあふれていて、それを筆から作品へと注ぎ続けたのです。

 


人力車で新聞社へ向かう明治の絵師

月岡芳年が戦争を目撃しながら精神を病み、苦況に陥っていたその頃。

兄弟子でありライバルとされた落合芳幾は、持ち前の器用さと人脈で、新時代をうまく泳いでおりました。

芳幾は明治5年(1872年)、ぬかりなく『東京日日新聞』発起人に名を連ねています。

彼が手がけた錦絵新聞とは、明治初期にあらわれた流れ星のようなメディアでした。

ゴシップネタを毒々しい錦絵にして売るという代物で、速報性よりも錦絵目当ての土産物として買い漁る需要が多かったのです。

錦絵版『東京日日新聞』

落合芳幾の手掛けた錦絵版『東京日日新聞』/wikipediaより引用

何かと負けず嫌いの芳年も、このビッグウェーブに乗ります。

復活を遂げた明治7年(1874年)に『名誉新聞』、1875年(明治8年)には『郵便報知新聞錦絵』を開始。

人力車で新聞社に出勤する絵師となったのでした。

そんな新聞錦絵としての力作は、明治10年(1877年)の【西南戦争】でしょう。

当時の人々が抱いていた西郷隆盛のイメージに、肉薄しているのではないかと思えるのが芳年の錦絵です。戦地には赴かず、想像で描いたものの、だからこそ人々の思いがそこには込められています。

『西郷隆盛霊幽冥奉書』――髭を生やし、軍服を身につけた西郷隆盛が建白書を握りしめた一枚は、一度見たら忘れられないほどのおそろしさがあります。

◆【きょうのテーマ】幽霊・妖怪画 奥深い世界 福岡市博物館で特別展(西日本新聞公式サイト

この絵と上野公園の西郷隆盛像を比べると、全く異なる姿が見えてきます。

浴衣の銅像――軍服の錦絵。

愛犬連れの銅像――建白書を握りしめている錦絵。

穏やかな顔の銅像――刮目し何かを訴えるかのような錦絵。

上野の銅像は、糸子夫人がみた瞬間「夫とはまるで違う」と困惑したと言います。ありのままの西郷像をおそれ、上書きしたのではないかと言われるほど穏やかで、実像から遠いとされているのです。

銅像が封じたかった西郷とは、この絵の中にあるのでは?

そう思わされる禍々しいほどの迫力ではありませんか。

西南戦争
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明治随一の絵師として

何かと不器用であった月岡芳年も、幕末から明治へと移り変わり年月が経ち、次第に世間の需要と供給を一致させられるようになってきました。

画料も跳ね上がり、絵師番付でもグイグイと順位があがり、好調の波に乗ったのです。

芳年は、浮世絵師を超えた存在となるべく研鑽を重ね、展覧会にも浮世絵“以外”の部門であえて出品するようなことがしばしばありました。

明治12年(1879年)、坂巻たいという女性と出会いました。

そうはいってもすぐに結婚とはならず、明治16年(1883年)には名物遊女・幻太夫にいれあげ、通い続けます。

ところがあるとき、芳年の行為に対して彼女は百円という破格の金額を提示。

払えないわけではなかったものの、芳年はこれに懲りて別れ、明治17年(1884年)、坂巻たいと結婚します。

彼女の連れ子であるきんを可愛がった芳年。後年、きんの回想によれば、芳年はにぎやかな江戸っ子だったようです。

芝居、話、祭りが大好きで、気が乗ればよくしゃべる。

酒も好きで、気のあう客があれば仕事そっちのけで酔い潰れていたとか。

弟子たちの面倒をよくみて、人情話を聞けばオイオイと泣きだす。

弟子を縛り付けてスケッチをしていた時、来客がありました。あわてて離してあげてくれと相手が頼むと芳年はこう返したとか。

「こいつァ悪いことをしたんで縛ってまさァ」

なかなか毒のあるユーモアセンスです。

ギョロリとした目、筆を舐める姿が印象的で、怖い人ではない。そんな様子が残されています。

狂気と結びつけられ、サイコパス芸術家のような誇張すら見かけますが、あくまで話半分に聞いておきましょう。

気のいい江戸っ子であるところも、師匠の国芳に似たのでしょう。

ただし、執念深さはあり、国芳の葬儀で芳年を蹴り飛ばし、ライバルとされてきた落合芳幾に対しては異なる思いを抱いていたようで……。

兄弟子である芳幾は自身の絵が振るわなくなったこともあり、自らのこだわりは捨て、露骨に芳年のタッチを真似るようになりました。

この時代は、今よりもずっと誰かの絵を模写することに対して緩かった。当然という風潮でしたが、あまりに似ていたのでしょう。

芳年はこのことを知ると「昔の恥辱が晴れるようで、感慨があるねェ」と語っていたそうです。

蹴り飛ばし事件から20年以上も経過していたのに、これは相当しつこい……まぁ、他にも色々な思いがあったのかもしれません。

明治10年代になると、月岡芳年は絵師番付でも一位に躍り上がり、人気技量ともども最高位の絵師とされます。

『藤原保昌月下弄笛図』『奥州安達がはらひとつ家の図』といった作品は、世間の話題をさらいました。

月岡芳年作『藤原保昌月下弄笛図』/wikipediaより引用

月岡芳年『奥州安達がはらひとつ家の図』

月岡芳年『奥州安達がはらひとつ家の図』/wikipediaより引用

二つの作品は芳年の代表作であり、かつ、彼のスタイルが確立しています。

彼の師匠である国芳のころ、武者絵といえばスペースを埋め尽くすほど、人物やら何やら、ここぞとばかりに描きました。

それが『藤原保昌月下弄笛図』は、たった二人の人物が立つのみ。静かな空間が広がっていて、緊迫感が漂っています。

『奥州安達がはらひとつ家の図』は、妊婦殺し寸前というショッキングな題材が目を惹きます。

芳年は次第に流血をおさえ、緊迫感によってこれから起こる事件の想像をかきたてる個性を確立しました。その極みというべき作品です。

なお、いくら芳年でも実際に妊婦を吊るして描くわけもなく、実物はこうはならなそうです。

芳年は面倒見もよく、門人も師匠の国芳を超える80名以上を擁しました。

国芳一門の中で、師匠に肩を並べる唯一の絵師ではないかと評されるほどの人気と実力を得たのです。

その弟子たちも西洋画はじめ、さまざまな分野に送り出し、浮世絵を超えたさらなる絵画の境地を見据えていたのが芳年でした。

彼は新時代へ向かう中、未来を見据えていたのです。

錦絵と写真が入り混じる時代を生きた彼は、挑む姿勢を持ち続けていました。

明治23年(1890年)、何かと因縁のあった兄弟子の落合芳幾が事業で失敗。

煉瓦建て3階の家に妻子と暮らしていたものの、一家離散の憂き目に遭ってしまいます。

この翌明治24年(1891年)、『新形三十六怪撰』を手がけていた芳年にも、試練が訪れます。

酒量、眼精疲労、神経衰弱、脚気、現金盗難……と、様々な不幸に肉体が悲鳴をあげたのです。

明治25年(1892年)、病床でも筆を取り続けた芳年。

病院から自宅に戻り、5月21日に息を引き取りました。

享年54。

辞世はこう残しています。

夜をこめて照まさりしか夏の月

死の前年に完成していた『月百姿』はこの6月に刊行され、『新形三十六怪撰』は弟子の力により完結。

最晩年の『月百姿』からは、芳年の達した一境地がうかがえます。

「史家村月夜 九紋竜」には、『水滸伝』の史進が描かれています。

歌川国芳は、縦横無尽に暴れ回る『水滸伝』の絵でブレイクしました。

暴れ回る姿で描かれてきたこの好漢が、この作品では団扇を手に夕涼みをして、頭上に穏やかな月が輝いています。

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個・九紋竜史進』

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個・九紋竜史進』/wikipediaより引用

一方、師匠譲りの武者絵から始まり、死体を写生し、【上野戦争】を目撃した芳年。

前半生は江戸時代、後半生は明治時代を生きた絵師の彼が、最後にたどりついた境地は、英雄が静かに月の下に座る姿でした。

それは激動の果てを生き抜いた、彼自身の姿なのかもしれません。

絵師として、激動の世を生きる勇姿を描いた芳年。

夜空に浮かぶ月と化して人びとの姿を見守るような、そんな作品を残したのでした。

月岡芳年『月百姿 史家村月夜 九紋竜

月岡芳年『月百姿 史家村月夜 九紋竜』/wikipediaより引用

 


「最後の浮世絵師」は今もまた

月岡芳年は「最後の浮世絵師」とも呼ばれます。

幕末~明治に支持されたセンスは現代人にも支持され、その絵をあしらったTシャツやバッグ、スマートフォンケースも販売されているほど。

海外での評価も高い浮世絵師の一人です。

写真と錦絵が入り混じる時代を生きた芳年は、西洋画や写真の技法をも取り入れようとしました。

戦場で飛び交う弾丸を見ていた彼は、斬新な描き方も身につけました。

炸裂する爆風。燃え盛る業火。ビームのように軌道を描く銃弾と砲弾。風にたなびく袖。あおざめた顔。瞳孔の中に光る星。

月岡芳年『皇国二十四功 鳥居強右衛門勝商』/wikipediaより引用

その生々しさは、後世にまで引き継がれ、芳年の絵には既視感すら覚えることがあります。

というのも現代の漫画にも通じる表現技法があり、例えば『鬼滅の刃』――あの大人気漫画のアニメ作画は葛飾北斎はじめ浮世絵を参照にしているともされ、月岡芳年の作品に似ている要素もある。

『鬼滅の刃』原作コミックスの表紙には、黒い背景の前にキャラクターが佇むものがあります。

一方、月岡芳年の武者絵は『魁題百撰相』はじめ、暗い背景に人物が立っているものが多い。

これは彼の個性であるといえます。

師匠の国芳や、同門の弟子は、ともかくスペースがある限りみっちりと多くの人物を描きこむことが多い。

これに対し、芳年は闇と余白を生かし、存在感を際立たせてきました。そんな芳年を彷彿とさせるセンスが、『鬼滅の刃』からは感じられるのです。

◆芳年の魅力「血みどろ絵」だけじゃない「鬼滅」人気で若者が注目 うらわ美術館で展覧会:東京新聞

永井家風、芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、横尾忠則……そして現代の『鬼滅の刃』ファンまで惹きつけてきた月岡芳年。

そんな芳年を愛した一人に、江戸川乱歩がいます。

彼が熱烈に賛美する文や、じっと芳年の絵を見つめる写真が残されています。

そして、その江戸川乱歩の弟子が山田風太郎です。

彼も芳年の絵を見つめる師匠を目にしたことがあってもおかしくはないでしょう。

山田風太郎が原作である漫画『警視庁草紙』が、2023年『芳幾・芳年 国芳門下の2大ライバル展』とコラボし、漫画化されました。

コミックス8巻に「異聞・浮世絵草子」として収録されています。

警視庁草紙
幕末好きに激推しの漫画『警視庁草紙』はクドカン脚本でも見てみたい

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芳年が描いたことで、幕末の動乱に散った武士の姿が蘇り続けます。

筆で時を超え、姿を残した。

彼の絵は、これからも愛されてゆくことでしょう。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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