てえへんだ、てえへんだ!
火事と喧嘩があると聞けば、見物のためにダーッと走っていく。
なんだ、江戸っ子か。落語や講談に出てきそうな気のいいオヤジですが、しかし彼はちょっと違う。後に続いてくるイキのいい連中に、こう声をかけているのです。
「いいかお前ェら、しっかり見とけよ。見て、絵に生かすんだ!」
「へえ!」
ときは江戸時代後期――文化が熟しきったこの時代、文人のたしなみであった絵画もすっかり庶民のものとなっていました。
そんな庶民派代表の浮世絵師こそ、火消しと猫を愛した歌川国芳です。
今にも通じるサブカルチャーの大先輩であり、奇想が爆発する江戸っ子絵師。
文久元年(1861年)3月5日はその命日です。

『枕辺深閏梅』下巻口絵における歌川国芳の自画像/wikipedia
猫ブームで再評価が止まらない、歌川国芳の生涯を振り返ってみましょう。
初代・歌川豊国に見出される
田沼意次の時代が終わり、松平定信による【寛政の改革】が行われていたころ――寛政9年(1798年)。
江戸日本橋本銀(もとしろがね)町一丁にある京紺屋(染物屋)、柳屋吉右衛門と柏谷氏の間に一人の男児が生まれました。
幼名は井草芳三郎。
後に孫三郎と変えられるこの男児は、幼い頃から絵に興味を持つ少年でした。
7~8歳になると、北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を模写。
12歳になると『鍾馗提剣図』を描くのですが、これが彼の人生を変える題材となりました。
コロナ禍の日本において、疫病封じの妖怪アマビエがブームになったことを覚えていらっしゃいますか?
以下のように厚生労働省の公式サイトにも掲載されるほどでしたが、

厚生労働省公式サイトより引用
当時の江戸っ子にしてみりゃ不思議なブームと言えます。
「疫病封じだったらよォ、鐘馗(しょうき)様の方がデザイン的にもイケてると思うぜ!」
江戸時代に描かれたアマビエは素朴でインテリアにはさほど向いておりません。当時、壁に貼って映える定番の疫病封じ神様の定番は、むしろ鐘馗様でした。
鐘馗とは中国の道教神に分類され、こんな由来があります。
唐太宗が瘧(おこり・マラリア)に苦しんでいたとき、夢を見た。
病魔である小さな鬼を、剣を手にした大きな鬼が倒していく。
その鬼に何者か?と尋ねたところ、科挙に合格できず自害した鐘馗だと名乗り、目覚めた唐太宗は、すっかり病から回復していた。
以来、鐘馗は病よけの神として、中国で定着します。ただし本場ではちょっといかつい程度です。
日本にも平安時代に伝えられると、江戸時代になって浮世絵師たちがモリモリとマッチョ化を進め、カッコよさと病よけ効果を兼ね備えたアイテムに進化してゆきます。

後年になって描かれた歌川国芳の『鍾馗図』/wikipediaより引用
進歩した印刷技術。
中国由来の教養を読み解ける江戸っ子たち。
マーケティングが確立して売れ筋商品を求める版元と、創意工夫溢れる浮世絵師たち――江戸文化がまさに花開いた時代に、12歳ながらにして『鍾馗提剣図』を描いた歌川国芳は、初代・歌川豊国の目に留まりました。
そしてその才が見込まれ、文化8年(1811年)に15歳で入門することになったのです。
売れねえ……長い下積み時代
江戸の名門一派として隆盛を誇った歌川一門。
師匠の豊国は、華麗な役者絵を描く、売れっ子絵師でした。

歌川豊国像(歌川国貞作)/wikipediaより引用
今でいうところのブロマイド、江戸っ子推し活のお供であり、兄弟子の歌川国貞も人気の絵師です。
二人のもとで腕を磨いた歌川国芳も……と言いたいところですが、そこまで売れないし、家も裕福じゃない。
売れねぇなあ……と嘆く日々。
師匠の豊国とも性格的に合わなかったのか、兄弟子・国直の家に居候していた時期もあります。
べらんめぇ口調の国芳にとって、同門の師弟はどうにも気取っているように思えたのかもしれません。
若い頃のエピソードとして、こんな話も伝えられています。
地元問屋(版元のこと)で思うように画料も得られず、暗い気持ちで柳橋を歩いていると、「先生」と呼ぶ声がする。
声の主は顔見知りの芸妓。
その隣には兄弟子の国貞がいるではないか。
悔しさのあまり国芳は黙ったまま家に帰り、「俺だって国貞くれぇ売れっ子になりゃ画料もついてくらぁ、精進するしかねえ!」と気合を入れ直す――。
そんな国芳に拾う神もいました。
梅屋鶴寿(うめやかくじゅ)です。
株を売買し、尾張家御用を務めた人物であり、文政5年ころ、当時20歳ぐらいだった鶴寿が、25歳程の国芳と意気投合。
鶴寿は国芳の才能を信じ、衣服を与えました。
更には、どうすれば売れるか考え、画題を提案して書画会を開催、作品に賛(推薦文)をつける――いわばプロデューサーです。
そこそこの絵師であった国芳は、鶴寿の提案を受けるうちに、なんでもこなせるマルチ絵師として人気が出てきました。
そして文政8年(1825年)、国芳29歳のとき、師である初代豊国が没したこの頃、世間では滝沢馬琴の『傾城水滸伝』がブームを巻き起こりつつありました。
『水滸伝』ブームにうまく乗る
『傾城水滸伝』という作品はなかなか刺激的でした。
「あの英雄たちが美少女に!? キミが選ぶ美少女は誰だ!」
現代人がこんなキャッチコピーを目にしたら、スマホ広告で表示されるような「美少女化アプリ」だと思うことでしょう。
『傾城水滸伝』がまさにそれで、原典に登場する「百八星の英雄好漢」を美女にして、日本を舞台にして活躍させるというもの。
いわば江戸時代版のライトノベルと言え、曲亭馬琴の人気作品『南総里見八犬伝』も『水滸伝』の翻案となります。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
こうしたエンタメは時代考証などあってないようなものですので、時代背景は無視され、江戸っ子が萌えるキャラデザの挿絵が入れられました。
日本人は『水滸伝』を魔改造が大好物で、英雄豪傑の女体化もお得意ですが、それは江戸時代から始まっていたのです。
そして二次作品は、元ネタを知ればより深く楽しめますよね。
そんなわけで本家本元『水滸伝』も爆発的にヒット。背景にあったのは、日本では息の長い中国ブームです。
かつては貴族や禅僧、大名など、エリート層のみが触れられた中国文化や教養が、徳川吉宗の積極的政策などもあり庶民にまで拡大。
江戸後期ともなれば、庶民の間で教養が底上げされ、中国風サブカルも盛り上がりますが、海禁時代の江戸っ子が現地へ行けるわけもなく、エンタメ分野では妄想を含んだ世界観が展開されます。
中国や朝鮮では科挙合格のため。日本でも武士は藩校でカリキュラムとして。
そう学ぶのが教養ですが、江戸後期は、エンタメやファッションに取り入れられる、サブカルとしての中国教養が広まったのです。
具体例を見てみますと……。
・書道の「唐様」
最先端の明清風を「唐様」と呼び、当時一番イケてる書体でした。
中でも文徴明の人気は別格。
「売り家と唐様で書く三代目」という川柳はおなじみですね。
・大明頭巾
宝暦(1751-1764)年間、上方の名女形・中村富十郎が、江戸で防寒のために作らせました。
これが明太祖・朱元璋の頭巾に似ていることから、「大明頭巾」という名前に。
当初は男女兼用で、後に女性のものになりました
・漢詩
長崎出島には、自作漢詩の添削を求める文人が出入りしていました。
日本で広く普及したものは荻生徂徠と門人が広めた『唐詩選』が代表格。
その結果、本場中国からすると、謎の現象が起こります。
「なぜ日本人の漢詩は総じて唐詩っぽいのか?」
ただ漢詩を詠むだけでなく、川柳や狂歌のようなパロディも作られたとか。
・尺牘(せきとく)
本来は「木簡に記した手紙」のことでしたが、江戸時代には漢文で書いた手紙を指します。
やっべ! 俺ら漢文で手紙のやりとりできるぞ!
というようにテンション上がるモノだったそうです。
・落語
古典落語は中国の笑い話である『笑府』といった作品をもとにしています。
・『水滸伝』
こうした中国由来の文物の中で、トップクラスで流行ったのが『水滸伝』でした。
江戸のメディアミックス戦術がバチっと当てはまった最高峰の例と言えるでしょう。
「異能の持ち主が梁山泊に集い、義兄弟として暴れるなんてエンタメとしてともかくアツい!」として江戸っ子の心を熱くしたのです。
そこで必要とされた挿絵の絵師に指名されたのが歌川国芳でした。

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 浪裏白跳張順』歌川国芳/wikipediaより引用
新しい題材に新しい絵師――江戸っ子はハマります。
刷れば刷るだけ売れちまう!
そんな売れっ子絵師として、国芳は大ブレイクを果たしたのです。
江戸っ子にともかく売れる国芳
日本を代表する浮世絵師といえば?
海外でも評価の高い葛飾北斎。
風景画が得意な歌川広重。
繊細な鈴木春信。
美人画の喜多川歌麿。
ミステリアスな東洲斎写楽。
こうした面々が思い浮かぶところでしょう。
彼らの絵が教科書やポスターに印刷される一方、歌川国芳は一風変わった人気を博し、しかも現在まで続いています。
◆タトゥー・アパレル・フィギュア
国芳の武者絵はヤバい! ともかくイケてる!
となれば、その素晴らしいセンスをファッションにも取り入れたくなるもので、こう思い詰める江戸っ子たちが現れました。
「もういっそのこと彫り物にしてぇ!」
世界的にも美麗で細やかな技術とされる和彫。
明治時代になると、来日した英国王室の人々まで、わざわざ和彫の刺青を入れたほどであり、国芳とも深い関係があります。
現代でもタトゥーアーティストともなれば、国芳の作品集はマストだとか。
『水滸伝』の英雄好漢は、九紋竜・史進はじめ刺青がトレードマークだったりします。
そんな彼らに倣って、どうせなら国芳画の『水滸伝』名場面を刺青にしたい――そんなニーズが江戸後期以降連綿と続き、現在でも『水滸伝』の人物名や名場面で画像検索をかけると、美麗な刺青が出てきます(裸体ですので閲覧にはご注意を)。
現代人であれば、もっと別の手段で国芳ファッションが実践できるでしょう。
Tシャツ、アロハシャツ、スニーカー、バッグ、スマートフォンケース……今でも十分かっこいい国芳は、こうした商品の定番です。
猫や金魚はその可愛らしさを生かし、スマホケース、アクリルキーホルダー、そしてフィギュアにもなっています。
◆“武将グラフィック”の祖
国芳とその一門は、武者絵が大得意でした。

梶原源太景季(歌川国芳画)/wikipediaより引用
その影響は現代のインターネットにまで及び、Wikipediaはじめ、肖像画や銅像がない武将紹介記事は、歌川国芳とその一門の浮世絵が用いられることが多い。
『水滸伝』の百八星は、中国語のサイトでも国芳の絵が用いられています。
フルカラーで特徴をとらえた国芳の画風は、本場でも評価されているのです。
◆妖怪画
巨大なガイコツが襲いかかってくる妖怪「がしゃどくろ」は、国芳作『相馬の古内裏』を元にしています。
その姿は国芳を起点とし、水木しげるを経て、さまざまな漫画やゲームに登場。
一度見たら忘れられないインパクトがあるでしょう。

「がしゃどくろ」の元となった歌川国芳『相馬の古内裏』/wikipediaより引用
◆漫画やゲームの祖
日本の漫画の祖は何か?
そう問われたら『鳥獣戯画』が候補に挙がったりしますが、さすがに飛躍し過ぎではないか?と思います。
それを言うなら国芳の影響の方が大きい。
『水滸伝』の百八星や武将絵は、コミックス表紙や、トレーディングカードを連想させます。
同じサイズで特徴を出すため、派手なポーズをつけたり、一目で見てわかる武器を持たせたりして、技を見せる――コレクター魂を刺激する魅力もあります。
国芳一門が編み出した新機軸が三枚続です。それまでの三枚続は単独でも成立し、かつそれを三枚並べることでも絵になる構造でした。それを国芳は三枚揃える横長のダイナミックな構図にしたのです。
横長の画面に派手な場面を描く! この構図により英雄が戦う相手はどんどん巨大化し、前述の「がしゃどくろ」のような構図が実現します。
一騎打ち。巨大な鯨や妖怪がうごめく。宮本武蔵が鯨と戦う絵が生まれたのは、国芳の奇想のおかげです。
これは現在ならば漫画雑誌のカラー見開きページです。満足感のある迫力がだせます。
縦に二枚繋いだ縦長構図も実現しました。『八犬伝』序盤の名場面「芳流閣の決闘」など、高低差のある場面を描くことに最適です。
国芳一門に夢中になった人々がやがて画家となり、武者絵を描く。
その武者絵が挿絵に入った小説を読んでいた読者が、漫画家となって描いてゆく。
こうして辿っていけば、現在にまで辿り着くのは自然なことと言えるでしょう。
◆ブサカワイイ! 愛が溢れる猫絵
現在、世界的に猫ブームとされます。それもあってか、「国芳=猫大好き」というイメージもすっかり定着しました。2023年太田記念美術館で開催された「江戸にゃんこ 浮世絵ネコづくし」のポスターは、国芳の絵が飾りました。
国芳は自他ともに認める猫好きでした。本人の自画像は地獄絵のどてらと、周りでくつろぐ猫が定番です。弟子の芳年も師匠の追善画に「猫を愛していた」という言葉を添え、その足元に白猫を描きました。
国芳だけでなく弟子にも猫絵師がいて、
「猫をなんで描くかって? そりゃァかわいいからよ!」
という発想が彼らからは感じられますが、実はこれが新しくて、かつ現代人にもグッときます。
東洋には、中国由来である猫絵の伝統がありました。
「耄耋(もうてつ)」という伝統的な画題で、親やお年寄りへのプレゼントとして定番です。
耄(もう)と、耋(てつ)は、高齢者を指します。その中国語の発音がそれぞれ「猫」と「蝶」に通じることから、「蝶と猫」は長寿を願う吉祥絵として定番なのです。
猫を描いた浮世絵は、こうした吉祥アピールを全面に出した上品なものが定番。
それに対し国芳は、カワイイ、ふてぶてしい猫絵を大量に残しました。
「かわいければいいじゃねえか!」
そんな愛が溢れているからこそ、今も人々の心を惹きつけるのでしょう。

猫好き絵師として知られる歌川国芳の『猫飼好五十三疋』/wikipediaより引用
◆擬人化と規制すり抜けなら任せろ! 風刺画に判じ物
今ではすっかりおなじみとなった動物の擬人化も国芳は大得意です。
これは幕府の取り締まりが強化されていた時代背景もあり、規制をかいくぐらねば浮世絵の販売許可もおりません。そこで、一工夫となる。
国芳は絵師としての技量だけでなく、風刺やジャーナリストとしての能力にも長けていて、頭もキレると当時から評価されていました。
例えば『里すゞめねぐらの仮宿』といった作品は、遊女絵の禁止を回避するために生み出されました。
「人がダメなら鳥にしてやらァ!」という発想ですね。
艶本、要するにエロ本も取り締まられると、こうします。
「人がダメなら、猫にしてやらァ。濡れ場がダメってんなら、その前後よ」
その“前”を猫で表現するとこうなる。
「これ、おしゅん坊よ。おめェさん、最近塞いでんじゃねェか。ちぃとマタタビでも呑むといいぜ」
暗い顔のメス猫に、酒を勧めるオス猫というわけですね。
そして“後”はこう。
「おやおや俺の子ばかりじゃねえ! いろいろ混じりだ!」
メス猫の出産に立ち会うオス猫が、毛色のちがう仔猫を見てびっくりしている。
さすが国芳ながらの工夫であり、現代でも参考にできる技巧ではないでしょうか。
ちなみに武将絵も、戦国時代末期は実名禁止とされたため、それとわかる変名を用いることがしばしばあります。
国芳は規制強化とも奮闘した絵師だったのです。
規制突破のためのデフォルメやパロディは、結果的に客に気に入られ、新たなる定番技法となったものもあります。
奇想天外な絵の数々は、幕末に向かう時代だからこそ生まれたものでもありました。
生粋のエンターテイナーは時代を泳ぎ抜くんですね。
◆オカルトにまで?
国芳は現代になってオカルトにも登場します。
「江戸時代の絵師がスカイツリーを予見して描いているってよ!」
「マジか! 国芳パネェな……」
『東都三ツ股の図』がそう見えるとか(→link)。
念の為に行っておきますが、これはただの塔であり、スカイツリーができる以前にこんな話題はありません。
ともかく国芳は現代人にとっても非常に魅力的でしょう。
風景画にしても、極端に美化するのではなく、隅田川の上をプカプカと西瓜の皮が流れているような生々しい作風であり、美人画は生き生きとしていて元気いっぱい。
アルチンボルドのような寄せ絵。シルエットを生かした騙し絵。遊び心と生命力に溢れ、とても魅力的です。
浮世絵は大量生産されますし、安いから包装紙感覚で使われました。
丁重に扱われるものではないせいか、シリーズでも抜けが生じていたり、海外でのみ現存する作品も多かったりします。
それでも決して色褪せることはない。国芳の魅力がそこにはあります。
“梁山泊”のような国芳一門
国芳は“一勇斎”という号もあります。
その名の通り、鉄火肌で、江戸っ子の血が騒ぐ――絵だけでなく、人柄もそうでした。
売れっ子となったそ国芳は、身も落ち着いてきました。
41歳で22歳の妻えいと結婚し、住まいも向島に転居。
家族思いで、妻の母と同居して労り、娘たちもかわいがっていました。
そして国芳は、歌川一門でも際立って弟子の多い師匠でした。
国芳一門はさながら絵師の梁山泊で、絵が上手でイキのいいお兄さんたちが集まってきます。おっと、お兄さんだけでなく、芳玉というお姉さんもいました。そこも梁山泊と同じですね。
祭りともなればそれぞれが名前入りの扇子を手にして、連れ立って歩いてゆく、そんな絵も残されています。
幼い河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)が弟子入りしたのもこのころ。

河鍋暁斎/wikipediaより引用
後に暁斎が回想した絵には、懐に猫を入れて暁斎を指導する国芳が描かれています。隣には、掴み合いの喧嘩をする弟子たち。
国芳一門はなかなか血の気が多かったようで、教育環境としての悪さゆえか、暁斎は親によって辞めさせられ、狩野派に入門することとなる程でした。
国芳は不遇の時代が長かったうえに、持ち前の江戸っ子気質で弟子の面倒をよく見ます。
個人ではなく一門単位で売り出す、プロダクションのようなシステムがありました。
国芳の娘たち(芳鳥・芳女)も絵師であり、門人は確認できるだけでも100名いるとか、いないとか。
そんな絵師の梁山泊を率いる国芳は、祭りと火消しが大好きで、宵越しの金は持たない、チャキチャキの江戸っ子で親分肌でした。
巻き舌で、主語は「ワッチ」、相手を「メェ」と呼ぶ。画料はパーッと使うか、弟子にあげてしまう。
羽織は身につけず、ちりめんのどてらに三尺帯という姿。
堅苦しい礼儀や挨拶派嫌いで、「先生」と呼ばれると柄じゃねえと返す。
気取りとは無縁の人柄だったのです。
そして国芳は愛情深く、家族、子ども、生き物、そして猫をこよなく愛していました。
自画像の周りには数匹の猫がいるし、弟子の月岡芳年が描いた肖像画にも猫が登場しています。
こんな話があります。
弟子の芳宗が、国芳から金を渡され、こんな頼み事をされました。
「うちの黒がお陀仏になっちまってよ。すまねぇが和尚に預けて戒名をもらって、畜生塚(江戸のペット霊園)に埋めてもらってきてくれねぇか」
国芳の家には猫仏壇、猫位牌、猫過去帳までありました。
そうはいっても、猫の死骸がプカプカ川に浮かんでいたって誰も気に留めない時代です。
芳宗は途中でアホらしくなってしまい、猫の死骸を両国橋から投げ捨て、もらった金で吉原で遊ぶと、翌朝何食わぬ顔をして戻ってきました。
これがバレてしまい、国芳はカンカンになって怒ったとか。
器量よしもブサイクも、全てかわいい。
そんな国芳の猫への愛が、作品を通しても伝わってきますよね。
江戸っ子の心を読み解く絵師親分
そもそも浮世絵とは何なのか?
定義としては「江戸庶民の風俗を描いた絵画」とされ、それまでの絵画とは大きく異なるため、新たなジャンルとされました。
それ以前の一大ジャンルとしては、中国から伝えられた画があります。
代表格が雪舟ですね。

雪舟作『秋冬山水図』のうち秋景/wikipediaより引用
室町時代の中国趣味は、権威としての位置づけもあり、例えば3代将軍・足利義満は【日明貿易】を実施しています。
それまでの時代は、朝廷の許可なく民間で自由に貿易は行われていましたが、明側の厳しい【海禁政策】によって不可能になると、室町幕府が正規ルートのみでの交易を確立。
希少価値は上がれば、ステータスシンボルとして利用できるようになり、幕府は中国文化を組み込んだ文化様式を作り上げます。
大名なら、中国の茶碗で客人をおもてなし、中国画を飾ってお出迎えしましょう。
というわけで、大名たちもマナー違反にならぬよう中国の茶道具や絵画を買い漁ります。
しかし、そうした秩序も乱世の影響で崩れ、南西沿岸部の大名は非合法国際貿易集団【倭寇】を通して買い漁り、それが日本に流れ込んでいく――江戸幕府成立まで続ました。
こうしてエリート層が楽しんでいた中国風の絵画に対し、庶民に寄り添うテーマや風俗で描かれたのが【浮世絵】となります。
歌川国芳とは、この浮世絵の特性を十二分に生かし切った人物とい言えるでしょう。
数多いる浮世絵師の中でも、彼ほど江戸っ子親分肌の気質で、江戸っ子代表の絵師だった人物はいない。
「先生」なんて呼ばれたらむしろ嫌がる。
「ワッチャー(私は)未だに先生なんざなりゃせん、先生なんていうなァ、そっちの隅にいる被布を着た人サ」
という具合で豊国を指差し、自分が呼ばれるのはいやがったとか。
自画像だって、後ろ姿ばかりで自分の顔を描きません。権威を利用して威張りたくねぇ!という生粋の江戸っ子でした。
そういう江戸っ子代表だからこそ、国芳の作品は庶民のハートに刺さり、コミットする作品をヒットさせ、浮世絵は庶民の武器となったのです。
しかし、脂の乗り切った国芳にとって、苦難の時が訪れます。
天保年間の13年目(1842年)、老中・水野忠邦による【天保の改革】が始まったのです。
・華美な服装を禁ず
・水茶屋は禁止
・歌舞伎、浮世絵……娯楽はけしからん!
当然のことながら、国芳の作品も大打撃。
そんな最中の天保14年(1843年)に『源頼光公館土蜘作妖怪図』が発売されました。

歌川国芳作『源頼光公館土蜘作妖怪図』/wikipediaより引用
国芳お得意の武者絵をジッと見つめるうちに、江戸っ子は大興奮し始めます。
「わかったぜ、これァよ、四天王は幕閣を示してンだよ!
右端にいる卜部季武を見てみろ。この紋はあの水野忠邦と同じ沢潟(おもだか)じゃねえか!
で、こっちで寝ている頼光ときたらよ。これは投げっぱなしの上様(家慶)を示してンのよ」
「お、言われてみればそんな気がしてきたぜ。じゃァ背後にいる妖怪は……」
祭り、凧、富くじ、寄席……江戸っ子が愛し、楽しんできた娯楽が、妖怪の姿をしている――「判じ物」という謎とき技法で読み解いていったのです。
この作品は売れに売れ、おそろしくなった版元が板木を破壊してしまったとか。国芳もお咎めナシ。
そして水野の政策に耐えかねた江戸っ子たちは、ついに妖怪に変じます。
この絵が売れた歳、水野忠邦は失脚に追い込まれ、将軍である徳川家慶は、騒ぎが起きていると知らされました。
大奥の庭にある山に登り、騒ぎの方に目をやると、水野の屋敷が江戸っ子たちに取り囲まれているではありませんか。
「ぶち殺して恨みを返してやらァ!」と怒鳴りながら、屋敷を破壊する民衆。
その姿に家慶は参ってしまい、ますます無気力になっていったのです。
しかしニーズを読み違えることもある
売れっ子漫画家の次回作が始まった。
堂々の巻頭カラーで、これはきっと面白いだろう!
そうワクワクしていたのに、何かピンとこない……。案の定、掲載順も下がってしまい、気づけば連載が終了していた。
そんな悲しいことって、世の中にはありますよね?
江戸時代の売れっ子浮世絵師もそうでした。
庶民のニーズがあってこそ成立する厳しい世界であり、彼らの気質を知り尽くしたはずの国芳ですら、売れない作品はありました。
国芳は貪欲で、江戸っ子のニーズだけでなく、画風まで学ぼうとしました。
当時の売れっ子だった葛飾北斎に入門までしようとしたのだから、発想が大胆というか、とにかく作品にまっすぐというか。
「歌川派屈指の絵師じゃァねェか。葛飾派で学ぶこたねェよ!」
と北斎に断られながらも二人は交流を持ち、絵について語り合うようになったとか。

葛飾北斎82才の頃の自画像/wikipediaより引用
国芳が葛飾派に心惹かれた理由として、紅毛画(おらんだが・西洋画)の技法を取り入れていたことがあります。
西洋画をこなした渡辺崋山とも交流があったとされます。
これからは西洋画の時代だ。そう感嘆しながら作品の未来を考えていた国芳。
その一例が『近江の国の勇婦於兼』に結実しています(文化遺産オンライン→link)。
伝統的な美人画のようで、馬の姿はあまりにリアル、西洋画のタッチです。
そして満を持して嘉永5年(1852年)――国芳56歳、西洋画の手法で人気題材『忠臣蔵』の羲士をリアルタッチで描く『誠忠義士肖像』(和泉市久保惣記念美術館→link)シリーズを発表しました。
しかし、まさかの12作目で打ち切り……。
国芳は、ニーズを読み違えました。江戸っ子は写実的な絵ではなく、派手な舞台にいる役者が見たかった。
「なんかよ、こう、いつものタッチじゃねェよな」
「国芳にこういうのは求めちゃいねェなァ……」
これにはさすがの国芳もショックを受け、八つ当たりのように義士を茶化したパロディを発表しています。
国芳の失敗は、国芳一門にも受け継がれています。
後に弟子の一人である月岡芳年は、自作が売れないことで精神的に追い詰められましたが、チャレンジ精神も受け継ぎ、明治維新という大変動に直面すると、リアルタッチ浮世絵という新境地へ挑んでいったのです。
国芳一門が時代の荒波を超えられたのは、師匠譲りの進取の気質があったからでしょう。

月岡芳年/wikipediaより引用
江戸幕府の黄昏に没す
嘉永6年(1853年)、ペリー率いる【黒船来航】により、日本中が騒然としました。

ペリー来航/wikipediaより引用
国芳一門も世の流れに直面。
二年後の安政2年(1855年)秋、国芳は中風に倒れました。
以降の作品は、彼らしい遊び心とセンスがあるとはいえ、それまでの勢いが失われた線ではあります。
万延元年(1860年)に江戸では幕府を揺るがす【桜田門外の変】が勃発。
その翌文久元年(1861年)、国芳は自宅で息を引き取っています。
享年65。
死絵は落合芳幾が筆を執りました。
師匠の葬儀で、芳幾は弟弟子の芳年を蹴り飛ばしています。
理由は些細なことで、弔問客でごった返しているのに、空気を読まない芳年がぼーっと座っていたのが邪魔だったそうで。
「邪魔だァ、どきやがれ!」
こんな調子で蹴り飛ばしたのでしょう。芳年はこのことをしつこく恨んでいたそうです。
この兄弟弟子は共作もするけれど、芳年は相手を罵倒する、そんな愛憎混じりの関係でした。
国芳の死後、国芳一門は世の変動を描くことにました。
将軍・家茂の上洛。豚食い野郎一橋慶喜がトンズラこいたみっともねえ顛末……そんな時代の流れを超えて、彼らは師匠の教えと共に生きていくのでした。
国芳一門系統の絵師は、昭和までおりました。
そうした系譜だけでは国芳の影響は語れません。
今もファンが多く、アーティストやイラストレーターにも彼を好きだと語る人は多い。日本のみならず海外でも、国芳をあしらった様々なものが生み出されています。
古いようで新しく、今見ても十分にカッコいい。
そんな歌川国芳は、これからも愛されてゆくことでしょう。
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【参考文献】
悳俊彦『もっと知りたい歌川国芳: 生涯と作品』(→amazon)
三菱一号館美術館図録『芳幾・芳年 ― 国芳門下の2大ライバル』(→link)
太田記念美術館図録『江戸にゃんこ浮世絵猫づくし』(→link)
小林忠『別冊太陽浮世絵師列伝』(→amazon)
小島毅『子どもたちに語る日中二千年史』(→amazon)
他



