大河ドラマ『べらぼう』に登場した平賀源内。
吉原遊郭のガイドブック『吉原細見』の原稿を書く役がクローズアップされたせいか、彼の男色好みについても触れられ、その人物像には意外な印象を持たれた方も多いかもしれません。
劇中では“山師”とも言われていたこの平賀源内。
たしかに山っ気があるのは間違いありませんが、史実ではれっきとした本草学者である一方、様々な企画を手掛けるイベント屋的な雰囲気もあり、さらに最期は獄死で迎えるという、なんともハードな経歴を持っています。

平賀源内/wikipediaより引用
本記事で、そんな平賀源内の生涯を振り返ってみましょう。
天狗小僧が志度に生まれる
江戸時代も折り返し地点を過ぎた享保13年(1728年) 、讃岐国寒川郡志度浦の白石家に三男が生まれました。
後の平賀源内です。
平賀家の伝承によれば先祖は平賀国綱とのこと。
奥州伊達家に仕え、その伊達家の秀宗(政宗の庶長子)が宇和島で藩主となるに付き従い、この地まで来たのです。
父までが白石姓で、源内が平賀に復姓しています。
没落して武士の身分を失っていた平賀家は、源内祖父の代で高松藩・志度浦の蔵番に採用されました。
蔵番とは、それだけでは到底食べていけないほど微禄です。いわば名誉職であり、生活のため農家も兼ねていたのでした。
実は、身分制度がそこまで強固でもない江戸時代でも、平賀家では、カタチばかりの足軽士分を誇りとしていたのでしょう。
そういった家に生まれ、しかも二男以下ともなれば、普通は歴史に名を残すことはありません。
しかし源内には、天賦とも言える才知がありました。
盟友であった杉田玄白が「非常之人」と墓碑銘に書いたほどであり、それは幼い頃から発揮されます。

杉田玄白/wikipediaより引用
一体どれだけの才知だったのか?
源内伝説は生前から本人が誇張しており、かつ他人の業績を自分のものとしていることもあるため注意が必要です。
それを念頭に置きながら、話を進めて参りましょう。
御神酒天神のからくりで周囲を驚かせる
人を驚かせた平賀源内の発明といえば「御神酒天神」のからくりがあります。
源内12歳の頃、天神様の掛け軸に御神酒を供えるよう、周囲に告げました。
言われるままにお供えをすると、なんと天神様の顔が酔ったように赤く染まるではありませんか――。
と、これは簡単なトリックで、天神像の裏に糸が仕掛けてありました。
御神酒を捧げた瞬間、天神像の横にいる源内が糸を引っ張ると、裏側に仕掛けられた赤い紙が顔の部分まで持ち上がり、赤く染まって見えるという寸法です。
周囲の大人もこの程度のトリックには気づいていたかもしれません。
しかし、今でもこの話が顕彰と共に残されていることが重要でしょう。
天狗のように賢い少年が、自作の仕掛けで周囲をあっと驚かせる。
そんな話が伝え残されたところに、源内の才だけでなく、周囲の温かなまなざしも感じます。
学び、長崎で開眼する
そんな平賀源内の父・白石茂左衛門は教育熱心でした。
父や周囲の期待を受けた源内は、まず当時の必須教養であった儒学から学び始め、高松藩の儒学者・菊池黄山に師事。
特に心を惹かれたのが本草学で、4才上の三好喜右衛門から学びます。
源内は多才でした。
軍記物を読みあさり、俳諧を学び、多方面で才能を発揮。
寛延2年(1749年)に父を亡くして家を継ぐと、宝暦2年(1752年)には初の長崎遊学を果たし、一ヶ月ほどその地にとどまります。
この遊学で、大いに好奇心と情熱をかきたてられたのでしょう。
武士の身分にこだわるより、自分自身の可能性を試したいと考えたか、もっと学ぶべきものがあると悟ったか。
妹に婿養子を取らせて相続を放棄すると、藩を辞して学問の道へと歩み出します。
大坂および京都で学び、宝暦6年(1756年)には江戸へ。
そこで源内は、基礎的な学力である漢文読解に力を入れ、林家塾に入り、聖堂こと昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所・徳川幕府の最高学府)に寄宿するようになりました。

湯島聖堂大成殿/wikipediaより引用
源内は才気煥発ではあるものの、若い頃は基礎学力不足を指摘されていました。
当時の基礎学力とは、漢文読解力をさします。
日本の学問といっても、中国由来の書籍が始点となることが多く、漢文が読めないと実力不足とみなされたのです。
本草学者に弟子入り
江戸では本草学者の田村元雄(藍水)に弟子入りをして、本格的に学びました。
本草学とは、植物や鉱物を研究する学問です。
現代では聞き慣れない言葉かもしれませんが、注目していただきたいのが中国神話「三皇五帝」の一人・神農。
以下のように、想像図では何かをムシャムシャ食べている姿が描かれます。

神農/wikipediaより引用
実はこれ、野草を食べ毒味をしているのです。
この神農が本草学および東洋医学のシンボルであり、西洋医学にとってのアスクレピオスのような位置付け。
つまり植物や鉱物を調べて分類し、生薬作りを目指す学問が本草学なんですね。
そしてその最高峰とされる書物が、明代の李時珍『本草綱目』であり、日本にも輸入され、熱心に研究されました。
朝ドラ『らんまん』の主人公モデルである牧野富太郎も『重訂本草綱目啓蒙』により植物学の魅力に目覚めたと振り返っています。
それほどまでに完成度の高い本でした。
とはいえ、江戸時代初期からこんなレベルの高い本があり、日本版にアレンジをしていると、読んでいる方も慣れ、次第に新鮮味もなくなってきます。
そこで江戸中期にもなると、徳川吉宗の【享保の改革】により、蘭学などで一部が解禁。
例えばドドエンスの『阿蘭陀本草和解』といった書籍が輸入され、熱心に読まれるようになっていきました。
蘭学の解禁は、同時に日本の科学技術も一気に底上げします。
青木昆陽が、サツマイモ栽培のためにオランダ語を学ぶ。

青木昆陽/wikipediaより引用
そのオランダ語研究の成果を受けて、杉田玄白らが『解体新書』翻訳に励む。
東洋の知性が高まったところに、蘭学という西洋の学問が加わり、新境地が開かれてゆく――それが吉宗時代以降の特徴とも言えるでしょう。
平賀源内といえば、エレキテルはじめ西洋由来の研究や発明が注目されますが、そもそもは東洋学問の土台があってこそ成立したものだったのです。
奉公構によりフリーランスの道へ
宝暦9年(1759年)――かくして平賀源内の栄名が高まると、高松藩は「再仕官させたい」と思い始めます。
源内の第一回長崎遊学は、寛大で学問を好む藩主・松平頼恭(よりたか)であればこそ叶ったものでもあり、彼は江戸諸藩中興の祖ともいえる名君です。
あのとき許した源内がかくも立派になったのだ。よし、呼び戻そう!
と、頼恭からすれば再度家臣の列に加えることを考えていたのです。
源内には「医術修行」の名目で三人扶持が与えられることになりました。
しかし、源内からすれば「学問料」――つまり“奨学金給付”程度の認識だったようです。行動の自由は制限されず、研究のために褒賞と援助がもらえる。
そんな風に都合よく解釈して学問にのめり込んでいると、事ある毎に松平頼恭に呼び出されてしまう。
藩の薬草園がある目黒下屋敷まで出向く日が続き、次第に溜まってゆくストレス。
そして宝暦11年(1761年)、源内の我慢はついに限界!
暇願いを出したところ、高松藩は許可しました。
ただし、奉公構(ほうこうかまい)の条件付き――要するに「他の藩で登用できない」という厳しい条件であり、有名なところでは、黒田長政が後藤又兵衛に出した処置となりますね。
この騒動に巻き込まれたのが、本草学者であり師匠であった戸田旭山です。
源内が藩とのやりとりで「先生のもとで修行に専念したい」なんて勝手に名前を出されたものだから迷惑千万。
高松藩にも恨まれかねないし、そもそも日頃から塩対応しておいて、都合よく名前を使うとは何事か! と激怒します。
源内は確かに優れた才の持ち主ですが、同時にかなりクセの強い性格だったようで、この一件、周囲にはこう漏らしていたとか。
「少しだけ扶持をもらって、雑用を押し付けられるなんてやってられない。そもそも仕官は向いてないんだ」
それでも、なんだかんだで自由に生きていける。それが彼の生きた時代だったのでしょう。
国内産業を高める時代
宝暦12年(1762年)、平賀源内は満を辞して「東都薬品会」を開催しました。
全国の本草学者が、各エリアの薬草やその他の文物を持ち寄る物産会であり、実はこのイベント、日本史上でも大きな転換点ともいえるビジョンもありました。
いったい何なのか?
当時、日本が抱えていた問題の一つに「金銀の流出」がありました。
日本が貿易を続けていた中国歴代王朝が欲したものが金銀だったからです。
中国では、早くも漢代から金銀鉱山で枯渇の兆しが見え始め、日本へは絹や陶器、薬剤などを輸出して、その引き換えに金銀を得ていました。
日本にしてみれば、貴重な鉱物が出ていく一方ですので、この状況にどう対処するか、六代将軍・徳川家宣に仕えた新井白石以来の課題とされるのです。
本草学者もこの対策を継承。
八代将軍・吉宗のもとで対策に乗り出し、朝鮮人参はじめとする薬草栽培を普及させ、同じく高級品であった砂糖の国産も勧めました。

徳川吉宗/wikipediaより引用
源内は、この取組にまさに一致した人物と言えるでしょう。
産業やアイデアは金になり、幕府も求める時代となったのです。
平賀源内 数々の業績ラインナップ
平賀源内は目端のきく人物でした。
その才知は多岐に渡り、現代人からするとマルチタレントすぎて、彼の真価を掴みにくくなってしまうほど。
前述の通り、本草学は植物のみならず鉱物も範囲とします。
そのため源内は鉱山採掘や精錬といった技術を学び、陶器作りに適した土や、鉱床の発見といった業績もあり、その経験を活かして物産博覧会も開催してゆきました。
そしてその名は、進取に富む幕府老中・田沼意次にまで届くようになります。

田沼意次/wikipediaより引用
源内は、出版業などの功績でも知られますが、本草学などの理系学問も同時に進めていて、実に器用というか、現代人から見ると「どっちつかず」と思われてしまうかもしれません。
しかし本来、人間の才能や学問とは、理系文系の区分など無いのかもしれません。
それは平賀源内の関係した発明品や研究を見るとわかると思います。
以下にリストアップしてみましょう。
・芒消(ぼうしょう/芒硝/硫酸ナトリウム)の製造
硫酸ナトリウムと硫酸マグネシウムを指す言葉であり、源内の場合は前者とされます。
幕命を受け、伊豆で製造。工業用途もあり、薬剤としては消化や利尿を促すものとされています。
当時の薬剤調合には、科学的な工程も含まれていました。
・鉱山開発
中津川はじめ、さまざまな鉱山の開発や、採掘に携わっています。
秋田藩からも招聘を受けるほど。
製鉄技術の改善にも挑みましたが、完成には至りませんでした。

・火浣布(かかんぷ)
「火で洗うことのできる布」という意味です。
『竹取物語』には、かぐや姫が求めた宝物として「火鼠の皮衣」が登場します。
唐土(中国)にある宝物で、火にくべても決して燃えることがなく、燃やすと汚れが落ちるというもの。
「火鼠の皮衣」とは、この火浣布のことだとされます。
源内は、中津川村で見つけた石綿(アスベスト)を織れば、火浣布になるとひらめきました。
そして香を炊く際に敷く香敷を作り上げると将軍に献上し、幕閣にも知れ渡ると、評判を聞きつけた清人から布地の注文も来ましたが……。
源内が作り上げた香敷は2センチ四方程度。
清人の注文は乗馬用の羽織であり、2メートル70センチという大きなものです。
とてもそのサイズに達することはできず、源内も徐々に諦めの境地へ向かい……最終的に実用品を作り上げたとは言えませんでした。
源内は、宣伝上手で筆も達者なため、他者の貢献まで含めて自分の功績としたところもあります。
前野良沢らも火浣布作りを続けたものの、実用化には至りませんでした。
・竹とんぼ
竹とんぼは中国で子どものおもちゃとして存在しました。
東晋『抱朴子』にも記載があり、これをふまえれば源内が竹とんぼを発明したとするのは、誤りであるとは思えます。
ただし、改良なり商品化を進めたという意味でなら否定できなくもありません。
・温度計、万歩計、方位磁石
オランダ製の各種機器を見て、これならば自分でも作ることができる!と言い切り、その通りにしました。
・源内焼
朝鮮人参の例でも挙げましたように、中国由来のものを安価な国産化にすることで、輸入縮小を考えていたのが当時の日本。
そのもう一つの典型例が、源内の故郷・志度で焼かれた「源内焼」でしょう。
当時は、明清時代の陶器を模した色鮮やかな品物が高値で取引され、豪商や大名家がこぞって家宝として求めました。
そうした色彩を模した皿を国産化し、故郷の特産品とすることに尽力。江戸で見本を作り、故郷へ送って焼かせたのです。
さらに源内らしく西洋風のアレンジも加えました。

源内焼『色絵仙人麒麟山水文徳利』/wikipediaより引用
サイフォンの原理を用いた自動噴水器という、源内らしい逸品もあります。
海禁政策をとった東アジアの国は、西洋史視点から全く閉じこもっていたように見られることもありますが、実際はそうではなく、閉ざしつつも、備えていたのが江戸幕府です。
変革は進んでおり、源内はまさしく時代の変革と一致した人物といえます。
・羅紗(毛織物)
羊毛を用いたウールの品物は、日本でも使われるようになっていました。
とはいえ島国の日本では、羊を放牧する習慣がありません。
そこで源内は、牧羊して毛織物を作る計画を立てましたが、本格的な実現には至りませんでした。
幕府でも清人による指導のもと牧羊を試みて、短期間のうちに頓挫しています。羊は函館に送られたまま、計画は途絶えてしまったようです。
日本で軍服をはじめとするウールの需要が高まり、牧羊が定着するには明治を待たねばなりません。
・菅原櫛
最高級品の櫛。
伽羅の木、銀細工、象牙の歯に、細やかな模様が施されていました。
源内は当時トップクラスの吉原遊女であった丁子屋の雛鶴に贈り、抜け目なく宣伝しています。
・金唐傘
薄いなめし革に模様をつけ、金漆を塗った傘。源内が作ったのは、革に模した紙製でした。
こうした櫛や傘はあくまでどん底だった収入を補うもので、本人としては不本意だったようです。
・戯作者(ペンネームは風来山人)
『放屁論』という自虐ネタまみれのエッセイ集や、奇想天外なタイトルからして凄まじいセンスです。
浄瑠璃から俳諧まで、様々なライター活動をしていました。
SFの草分け的な作品や、痛烈なユーモアや風刺を得意としています。
・「土用丑の日」には鰻を食べる
源内は当時の広告代理店のような役割も果たしています。
「引き札」というチラシの制作や、コピーライティングも手掛けていたのです。
ある日、知り合いの鰻屋が「夏場は売り上げが伸びない」と源内にボヤきました。
すると源内は「土曜丑の日」には「う」のつくものを食べると良いという、アイデアを出します。

博識らしく陰陽五行説を用い、それらしく演出し、これが大当たり。現代までも続く風習となりました。
・エレキテル
源内が一から発明したわけではありません。
故障したエレキテルを入手し、自力で修復したのですが、それしたって才知なくして不可能なことでしょう。
ただ、それでも注意は必要で、当時、エレキテルは日本に複数持ち込まれ、幕府にも献上されていました。

平賀源内のエレキテル(国立科学博物館/wikipediaより引用)
そうした中、オランダ語の知識をもとに桂川甫周もエレキテル製法を研究しています。
どうにも行き詰まっていた甫周は、源内と話すことでヒントを得たといいます。互いに知識を補い合っていたのでしょう。
こうして複数名が関わっていたものを、源内が持ち前の宣伝センスを駆使して、己一人の功績にしたと思えなくもないところはあります。
偽物や模倣騒動もあり、各人ごとの言い分がありそうです。
なお、このエレキテルは病気治療や見物客を集めるための道具として、注目を集めました。
・西洋画
平賀源内の作品といえば『西洋婦人図(→link)』が有名です。
しかし「伝平賀源内作」とされていて、何らかの模写と推察されます。
インパクトが強い作品ではありますが、着彩はのっぺりとしており、実は西洋画の技法は学んでおりません。
きっちりと技法を学んだ明治以降の西洋画とは異なるのです。
一応は西洋画ではあり、まだまだ進歩の余地がある作品なのでしょう。
・『解体新書』挿絵画家を推挙
盟友の杉田玄白らが手掛けた『解体新書』。
この挿絵画家として秋田藩の小田野直武を推薦しました。
源内が秋田藩に向かった際、小田野直武の才能を見込み、西洋画の技法を伝授していたのです。

解体新書/wikipediaより引用
このように多彩な才能を見せた源内。
しかし、どれも中途半端で、完徹したと言い切れないところに、限界がありました。
これは源内の能力というより、時代や科学技術の制限も影響したのでしょう。
晩年と最期
源内には肖像画が残されています。
若い頃からやや太り気味であった体重は、年齢と共に増加、出仕せずとも暮らしていくことはできました。
ただし、事業や知識の吸収に金を使いすぎ、経済状況はいつも順風満帆だったとは言えません。
火浣布や羅紗は中途半端に終わり、源内焼も中途半端で、戯作もヒットせず。
そして安永5年(1776年)に手掛けたエレキテルが、彼にとってストレスの決定打となります。
偽物が出回ったり、原理を理解できぬものから「山師だ」と誹謗中傷されたり。
若い頃は「山師と呼べばいい」と泰然自若としていたものの、歳を取ってからは辛くなることもあったのでしょう。
50歳の歳には、自虐的にこう詠んでいます。
功ならず名ばかり遂て年暮ぬ
そして安永8年(1779年)、源内は生涯最期の引越しをします。
今で言う「事故物件」が転居先であり、破格の安さで広い家を手に入れたのです。
この頃の源内は、発明家や作家としても行き詰まり、それまでのように活き活きとした作品を生み出せなくなっていました。
だからでしょう。後輩に難癖をつけたり、厄介者扱いされるようなふるまいが増えてゆきます。
殺人事件未遂の真相は
この年、さる大名屋敷の改築計画がありました。
さる町人が見積を出したところ費用が嵩み、そこでその大名が源内に見積を出すと、やたらと安い。
当然ながら大名は源内に任せようとすると、先に請け負っていた町人が不服を申し立て、間に入った役人が話をまとめ、結局、町人と源内の共同工事となりました。
町人は、源内と役人が出席する和解の酒宴で尋ねます。
「どうしてあんなに安くできるんですか?」
「それはだな……」
酒に酔いながらも源内は説明。
そのうち役人は帰宅し、源内は寝てしまいました……が、目覚めると、設計書がありません。
「おい、盗んだな!」
「違います! 知りません!」
横にいた町人に尋ねると、相手は否定するばかり。源内はカッとなって町人を切りつけてしまいます。
とどめを刺すには至らず、相手はその場から逃げ出しましたが、あの怪我では助かるまい、と覚悟を決め、源内は切腹しようとします。
そしてその準備をしているうちに、箱の中から設計図が……。
『無実の者を勘違いで殺してしまった!』
もはやこれまで!と腹を切ろうとしたところで、結局、源内は逮捕され、11月21日、小伝馬町に投獄されたのでした。
そして12月18日には獄死。
死因は破傷風で、享年は52とされます。
墓碑銘は盟友の杉田玄白が手掛けました。
いくら非常の才を持つからといって、死に方まで非常でなくともよいだろうに――玄白はそう嘆いたのでした。
源内を支えたのは田沼意次だった?
平賀源内は、時代に即した人物でした。
フリーランスでマルチタレントとして生きていけたのは、それだけ社会が爛熟していたからでしょう。
新井白石から始まり、吉宗の時代に高まっていた、「輸入品ではなく国内産を高める熱気」に彼はうまく乗りました。
なんだかんだで彼の事業を最も支えたのは、開明的な幕僚・田沼意次だったのです。

田沼意次/wikipediaより引用
盟友の杉田玄白や前野良沢といった錚々たる面々も、彼の才能を磨きました。
しかし、この後が続いていないように見えます。
歴史に「もしも」を持ち込むのであれば、この田沼意次路線が続いていたことを考えてしまいます。
源内のような人物が理解されやすく、新技術の開発や文化的な取組も、より一層活発化したことでしょう。
実際はそうならず、田沼時代の開明的な空気は閉ざされ、幕末へ……なんて言うと、ひたすら暗い気持ちになりそうですが、源内のような人物が開いた扉は確かに未来へ繋がります。
誤解されがちですが、江戸幕府は閉ざされて停滞していただけではありません。
近世から近代へ向けて、そこには確かな胎動があり、幕末に黒船が来航した後、オランダが幕府に輸出できる品を揃え、貿易するように助言しています。
大名の中でも開明的なものは、名産品を作るべく努力しました。
源内はまるでそうした未来を予見していたかのように、斬新なものを開発していました。
時代を先んじ過ぎたからこそ適応できない――そんな悲劇があったものの、だからこそ魅力的であるのが平賀源内という人物ではないでしょうか。
2023年『大奥』シーズン2での活躍に続き、2025年大河ドラマ『べらぼう』でも我々を楽しませてくれそうな予感は大。楽しみに待っています。
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【参考文献】
新戸雅章『平賀源内「非常の人」の生涯』(→amazon)
城福勇『人物叢書 平賀源内』(→amazon)
土井康弘『本草学者 平賀源内』(→amazon)
他





