引越し大名・松平直矩

松平直矩/wikipediaより引用

江戸時代

引越し大名・松平直矩がボロボロだ|父・直基の代から七度の転封でも頑張る

2025/04/24

1年前に引っ越したかと思ったら、そのまた1年後にも異動を命じられたりする転勤族。

サラリーマンの悲哀――ではなく江戸時代にもそんな辛い目に遭っていた大名がおりました。

元禄八年(1695年)4月25日に亡くなった松平直矩(なおのり)です。

名字からわかる通り徳川家の流れをくむ血筋の人ですが、父・直基(なおもと)の代から都合七度もの転封があり、「引越し大名」と揶揄されるほど苦労続きの家でした。

父の代から振り返ってみましょう。

松平直矩/wikipediaより引用

 


祖父は何かと不憫だったアノ方で……

直矩の父・松平直基。

直基は、何かと不憫な結城秀康の五男です。

結城秀康/wikipediaより引用

不憫とは、父の徳川家康から疎まれるような扱いをされていたというもので、詳細は以下の記事をご覧ください。

結城秀康
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義理の祖父である結城晴朝に育てられた直基は、成長後に晴朝の隠居料である5,000石を相続しました。

晴朝は、秀康の長男・忠直があっさり松平姓にしたことにショックを受けており、家康に願い出て直基を引き取ったのだそうです。

五男というと、当時の感覚では部屋住み=穀潰し扱いまっしぐらの生まれ順ですから、晴朝が孫を哀れんで遺産を残した……という面もあったかもしれません。

直基もその恩を返すためか、松平姓を許されても結城家の家紋を使い続けたり、結城家の祭祀を継いだりしているのですが、その後、実に4回もの転封を命じられます。

 


父親の代で4度の引っ越し

転封とは、言わば領地を替えること――幕府の命令ですから、素直に引っ越さねばなりません。

寛永元年 (1624年)越前勝山藩3万石

寛永十二年(1635年)越前大野藩5万石

正保元年 (1635年)山形藩15万石

慶安元年 (1648年)姫路藩15万石

地域性も何もあったもんじゃない、無茶苦茶ぶりです。

越前勝山藩や大野藩は、元々秀康の領地の一部だったので不自然ではない……と見ることもできますが、山形藩や姫路藩はこの時期に限らず、いろいろな大名がしょっちゅう出入りしている難しい土地柄でした。

石高だけ見れば加増なれど、これでは引き渡しの事務や出費ばかりがかさんで、内政どころではありません。

直基はそれでも行く先々で藩政に励んでいました。

松平直基/wikipediaより引用

しかし苦労がたたってか、姫路藩への国入りをする旅の途中で亡くなってしまいます。

 

越後騒動に巻き込まれ 流転LIFEへ

このとき、長男である松平直矩は、わずか5歳でした。

しかし「姫路は重要な場所だから」という理由で、翌年には越後村上藩への転封を命じられます。

成人してから改めて姫路藩に封じられたものの、今度は本家にあたる越後高田藩で越後騒動が起きてしまいました。

越後騒動の舞台となった高田城(三重櫓)

直矩は、越前松平家の親戚である松平近栄と共に越後騒動の仲裁に入ります。

その際、幕府から不手際を咎められ、またもや減封、さらに「閉門」という昼夜ともに外出できない刑罰を申し付けられました。

父の代から続く流転ライフは再開となり、数年おきにあっちこっちの藩へと転封させられます。

天和二年(1682年)豊後日田藩

貞享三年(1686年)出羽山形藩(3万石加増)

元禄五年(1692年)陸奥白河藩(5万石加増)

格式の上では元に戻ったものの、父・直基の代から実に7回も移転させられ、財政は見るも無残な状況に……。

世間からも「引っ越し大名」などと揶揄されて武士の面目もあったもんじゃございません。

直矩個人の失政ではないのに、ひどいものですね。

 


直矩の辛抱強さや優しさはハンパじゃない!?

直矩は、そんな悪評など気にせず、真面目に仕事に励みました。

家臣の給料を削ったせいで反発されたこともありましたが、お家騒動や事件にまでは至っておらず、深く恨まれることはなかったのでしょう。

功績と呼べるほどのものは無いながら、17歳から54歳で亡くなるまで『大和守日記』というご自身の日記を書き続けていることは、後世からするとありがたいことです。

日常の藩政や天気のことから、鷹狩・観劇などの気晴らし、お家騒動までのことが書かれているのです。

江戸時代初期の大名の生活が我々に伝えられることになりました。

少し変わったところでは、

「江戸詰の藩士の気晴らしのため、人形浄瑠璃の一座を屋敷に呼んだ」

なんてことも書かれています。

直矩自身が観劇や音楽を好んだためでしょう。

当時の観劇は庶民的な娯楽でしたし、少なくとも良かれと思ってやったのでしょうね。

江戸時代の大名家では、主君に不満を持って逆らう家臣や、藩主自身がヤケになって放蕩に耽るケースが少なくありません。

そこを考えると、直矩の辛抱強さや優しさは特筆してもいいのではないでしょうか。


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【参考】
国史大辞典
『松平直矩と村上―『松平大和守日記』を読む―』(→pdf
『御家断絶―改易大名の末路 (別冊歴史読本 15)』(→amazon
松平直矩/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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