八代将軍・徳川吉宗が行った【享保の改革】。
幕府の体制はおおむね良い方向へ変わりましたが、その息子である九代将軍・徳川家重、孫の十代将軍・徳川家治あたりから、再び状況は悪化していきます。
将軍本人の能力やヤル気の問題というより、この時期新たな挑戦で四苦八苦していたからでした。
その一例が田沼意次の老中抜擢です。

田沼意次/wikipediaより引用
意次自身は政治能力に優れた人でしたが、当時は儒教的な価値観が非常に強い時代。
ヒラ藩士の出身である意次の大出世は、それだけで大きな反感を買ってしまいます。
また、彼の行なった重商主義政策は、儒教的価値観からすれば拝金主義にしか見えません。
物価高に追いつけなくなった庶民や、農村部から仕事を求めて都市部に流入した人々による治安の悪化なども問題でした。
それでもしばらくは、将軍・徳川家治の信頼によって意次の独壇場が続いたのですが……。
度重なる天災と、後ろ盾だった家治の死、そして天明の打ちこわしにうまく対処できなかったことにより、意次は一気に没落。
幕府内では「やはり血筋の良い人物に”正しい”政治をしてもらおう!」という考えが強くなります。
そこで天明七年(1787年)6月19日に老中となり【寛政の改革】を進めたのが松平定信でした。
祖父は八代将軍・吉宗
家治が亡くなった上、彼の息子は先に世を去っていたため、将軍の座は御三卿の一橋家出身・徳川家斉が継承しました。
一橋家当主・徳川治済の息子です。

徳川治済(一橋治済)/wikipediaより引用
「御三卿と御三家との違いがわからん!」という方は以下の関連記事をご覧ください。
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御三家と御三卿って何がどう違う? 吉宗の創設した田安と一橋が将軍家を救う
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実は松平定信も御三卿の一角・田安家の出身で、吉宗の孫にあたります(将軍・家斉は吉宗のひ孫)。
田沼意次を気に入らなかったメンツからすれば
『徳川の手に政治が戻った』
とも思えたでしょうね。
さっそく、定信は”正しい”政治を行うために改革に乗り出します。

松平定信/wikipediaより引用
冒頭で触れた、教科書でもおなじみ【寛政の改革】です。
定信が数年で失脚しているため「大ポカした改革」というイメージが強い方も多いかと思われますが、少なくとも目的や理念はしっかりしていました。
寛政の改革の代表的な施策としては、
・農村部復興のための諸政策
・人足寄場設置
・寛政異学の禁
・棄捐令
などがあります。
ほぼ同時に取り組まれていたので時系列がややこしいのですが、カテゴリごとに一つずつ見ていくとしましょう。
農村部復興のための諸政策
天明の大飢饉からまもない時期なので、農村の改革がまず意識されました。
人手を確保するため江戸に来ていた元・農民を帰すにはどうすればよいか?
・帰農する者には旅費と農具代を与える
これはありがたい話ですよね。

農村には農村の苦労があり、都市部には都市部の苦労があり、方言や習慣の違いに苦しんでいた者の中には「故郷へ帰りたい」と考える人も多かったでしょう。
統治者側からしても治安向上が期待でき、両得の政策でした。
さらに次なる飢饉に備え、各農村での穀物貯蔵も奨励。
天明七年(1787年)がうって変わって豊作となり、先々の悲劇を繰り返さないようにするための処置です。
しかし、他の役人たちは「今年は豊作なのだから、民衆への支援策もそこそこでいいだろう」と油断していたようで、その気の抜けように定信は憤慨しています。
定信は「米を蓄えずに金を貯めていたからこんな大飢饉になってしまったのだ!」と考え、あくまで米での備蓄にこだわりました。

儒教の書物『礼記』に
・国には九年の蓄えがなければならない
・でなければ尭や舜でも国を治めることはできない
と書かれているのをそのまま実行しようとしたフシがあります。
尭と舜は中国の神話上の皇帝で、どちらも理想的な君主とされた人です。
どちらがよいのか?というと、一長一短なんですかね。
米を備蓄しておけばいざというときにすぐ配ることができますが、飢饉が長期化すればジリ貧になります。
一方で金を貯めておいた場合はよそから食料を買うことができますが、届くまでの間に被害が出てしまう。
結局、カネも備蓄も用意した上で、冷害に強い作物を多く作る、という策しかなくなってしまうというか、だからその方法が難しいのでは?という話になってしまいますね。
そこで定信はどうしたか?
稗(ひえ)を備蓄せよ、と言われても
天明八年(1788年)、稗(ひえ)の作付けを奨励し、米以外に稗も蓄えておくよう、各地の農村へ命じました。
稗を貯蓄するための蔵(くら)の建材は幕府から下賜されるというから本気です。

江戸時代の農業百科事典『成形図説』に描かれた稗(ひえ)/wikipediaより引用
しかし、現実には中々進まなかったので、寛政二年(1790年)に改めて「4~5年以内に蔵を造るように」という命令が下されました。
いくら平常時に戻りつつあっても「飢饉に遭った数年後に貯蓄を始めろ」というのは結構厳しいですよね?
現代に無理やり置き換えれば「数年失業した後に百万円貯めろ」と言われているみたいな感じでしょう。
・七分積金の法
こちらは前身となる制度から説明しておきますと……。
当時、江戸城では、年貢の一部を不作時の救済分として蓄え、いざというときは農民に貸し付ける”置米仕法(おきまいしほう)”がありました。
しかし、貸す頻度が高くなって成立しなくなり、幕府が別途貯蓄していた米も財政難により廃止されていました。
「いざとなったら金を借りて米を買えばいい」と判断されていたようです。
借金に抵抗がなさすぎる点と、米価が釣り上がった場合のことを考えていなさそうなところが危険ですね。
定信は
「米をきちんと蓄えておけば借金などしなくても済む」
「そもそも武士が町人に頭を下げて金を借りるなど言語道断」
と考えていたため、別の方法を探しました。
当初は祖父・吉宗がやっていた”上米の制”を復活させるという案もあったようです。

徳川吉宗/wikipediaより引用
上米の制は、参勤交代で江戸に滞在する期間を半年にする代わりに、領地の石高一万石あたり百石の米を幕府に納めさせるという制度でした。
最大の藩・加賀藩では上納する分がちょうど一万石になります。
しかし、11代将軍・家斉の以下のような命令で棚上げになったとされます。
「私の生活は切り詰めても良いが、大名たちに負担を強いるな」
家斉は当時、満14歳の少年でしたが、定信よりも大名たちの実情が見えていそうですね。
そこで対案として考えられたのが【七分積金の法】です。
江戸では町の役人や祭礼費用などに当てるお金を町人たちから集めていました。
”町入用(まちにゅうよう)”と言い、現代でいえば住民税+町内会費みたいな感じですね。
定信は町入用の用途を調べると、節約を徹底させ、そのうちの70%を積み立てに回し、籾の買い置きや生活難の人々の救済費用に当てさせたのです。
これが七分積金の法ですね。
また、大名には囲籾(囲米)を義務づけました。
天明の大飢饉が拡大した理由のひとつが、米どころだった各藩の大名たちが財政改善のため米をひたすら売りまくり、ほとんど備蓄していなかったことでした。
定信は「それではいかん」と考え、飢饉の再来に備えて備蓄を命じています。
さらに年貢徴収役人である代官の不正を厳しく取り締まりました。
棄捐令 寛政元年(1789年)
旗本や御家人を救済するため、天明四年(1784年)12月以前の借金を全てチャラにし、以降は幕府が決めた新しい利率でお金を貸すようにする――。
それが棄捐令(きえんれい)です。
パッと聞いた感じ、かなり乱暴な話ですよね。
鎌倉時代の徳政令あたりを思い出すかもしれません。
当然、金貸し(当時は「札差」)からすると大損ですが、それでも金を借りる武士が消えたわけではないので、廃業する者は少なかったそうです。

暴利がなくなっていくらか健全になった、というところでしょうか。
「そもそも、なぜ武士が借金をしなければならないのか?」
本当は、そこへ切り込まないと同じことの繰り返しなのですが、当時その発想はありませんでした。
なんせ武士の給料は基本的に米。
米を銭に替えなければ生活ができず、時々によってレートが変わってしまうため、結局は貨幣経済に支配されるという構造的な欠陥があったのです。
【享保の改革】のときには、金銀含有率の低下で通貨の価値を下げて、米の価値を相対的に上げる――なんてことが行われたほどです。
それを受けてなのか、江戸の豪商10名を勘定所御用達 (ごようたし) に登用して出資を命じたり、上方からの下り酒に対抗して、関東の豪農に銘酒を作る試みをさせるなど、新たな経済政策も打ち出しています。
この辺が田沼意次の政策と似通っているとする見方もあります。
加役方人足寄場の設置 寛政二年(1790年)
他の地域から流れてきた無宿者(ホームレス)や軽犯罪者を収容し、社会復帰を促すための労働をさせる場所です。
現代で言えば、刑務所とかハローワークを合わせたような感じですかね。
詳しくは、長谷川平蔵の記事で触れていますのでご参照ください。
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『べらぼう』中村隼人演じる長谷川宣以(平蔵)鬼平犯科帳モデルの生涯とは?
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寛政異学の禁 寛政二年(1790年)
寛政異学の禁とは「武士の気風を統一するため、朱子学以外の儒教を禁じる」というものです。
幕府関連の教育機関で朱子学を徹底させよう――というもので全国的な命令ではありません。
また「異」の字が入っているため勘違いしがちですが「異国の学問=蘭学」を禁じたものでもありません。
この時代に日本に入ってきていた蘭学=西洋の学問は、自然科学や医学に関することが主体で、幕府が危惧するような政治的・宗教的思想が薄かったためです。
禁令が出る一年前、1789年にはフランス革命が起きていますので、もしそういった思想が入りそうだったら、定信も全ての西洋学問を排除したかもしれませんね。
幕府も長崎のオランダ商館からある程度の西洋事情を把握していましたので対応はできています。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用
ともかく思想統一のために学問を制限する、というのは言論統制に繋がりやすい一面もあります。
それを危惧した儒教の他の学派に属する学者たちはこの禁令に大反対しましたが、幕府は強行。
結果、朱子学以外の学派は廃れ始め、私塾を畳む学者も出てしまいます。
各地の藩についてはそこまで厳正な縛りがあったわけではないのですが、結局は、江戸に釣られるようにして、徐々に朱子学が中心になっていきました。
ただし、御三家の一つである尾張藩や、井伊直政や井伊直虎でお馴染みの彦根藩、あるいは東北の秋田藩では別の学派の儒学者を採用しています。
特に幕府のお咎めはなかったようですので、定信の狙いは「幕府に直接関わる武士の思想統一」だったのでしょう。
同時に定信は出版統制令を出しています。
大河ドラマ『べらぼう』を直撃する話で、好色本や、政治批判・風刺を含んだ本の出版を禁じています。
蔦屋重三郎や読本の作者たちにとってはとんでもなく迷惑な話でした。そこをどう対応していくか、今後の劇中でも大きく取り扱われでしょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
失敗の原因は何か?
最終的に松平定信が失脚したため「寛政の改革は定信がワンマンで進めたから、責任を取らされたんだ」と思われがちです。
しかし、定信は少なくとも形としては独裁ではありません。
他の老中や後ろ盾の一橋治済などに相談して行っていました。
大河ドラマ『べらぼう』をご覧になっていれば、背後に一橋治済がいたからダメなんだろ!と思われるかもしれません。
しかし、これほど多岐に渡る政策を実行できたのは、やはり定信の実務能力が優れていたからでしょう。
問題は”人心”が理解できていなかった点かもしれません。
上は将軍・大奥から下は庶民に至るまで、娯楽に関することをギチギチに取り締まったため、財政的には上向いたにもかかわらず、定信を恨む声のほうが強くなってしまったのです。
定信自身も多くの趣味を持つ教養人ではありました。
『べらぼう』の中でも青本を読み、思わず笑ってしまうというシーンもありましたよね。頭が良いからこそ洒落も通じるのでしょう。
それがなぜか、”娯楽が人の心に必要不可欠である”ということまでは理解できなかったようで……。
定信は「房事は子供を作るための最低限で問題ない」と言っていたくらい欲が薄かったので、人の欲が経済を生み出すことが理解できなかったのかもしれません。
また、定信の時代には【尊号一件】というトラブルも起きていました。
朝廷と幕府のちょっとしたトラブルであり、ときの帝・光格天皇が、父の閑院宮典仁親王(かんいんのみや・すけひとしんのう)に太上天皇の尊号を贈ろうとして、幕府(主に定信)が異を唱え、朝幕関係が冷え込みかけた……というものです。

光格天皇/wikipediaより引用
閑院宮家は、六代将軍・徳川家宣の時代に創設された比較的新しい宮家。
血筋や歴史の長さを何より重んじる皇室や朝廷では、格下にみられがちな立ち位置です。
しかし、他に皇位を継げる男子がいなかったため、光格天皇が選ばれました。そういった引け目もあって、光格天皇は父宮に尊号を贈ろうとしたのでしょう。
この件は光格天皇も定信もなかなか譲らず長引いたのですが、結果的に、光格天皇の義母にあたる後桜町上皇が、
「称号を送るより、貴方様の御代が長く続くことのほうが親孝行になりますよ」
と光格天皇を諭したこともあり、何とか収まっています。
詳しくは以下の記事で触れていますので、気になる方は併せてご覧ください。
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光格天皇は知られざる名帝か 幕府にも引かない「尊号一件」と「御所千度参り」
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こうした一件があったからか。
徳川家斉が実父・一橋治済へ大御所の称号を与えようとしたときも、定信らの大反対で実現に至りませんでした。
「皇室に例外を認めなかったのに、将軍家でそんなことができるか!」
そりゃあもっともな話ですよね。
しかし定信は寛政五年(1793年)7月、老中及び将軍補佐役を退くことになります。
権力的には大御所同然だった一橋治済の心象を大きく損ねたこと。
改革自体が効果絶大ではなかったこと。
幕府内外の恨みを買いすぎたこと。
これらによって政治的に孤立してしまい、代表者の地位から遠ざけられたのです。
といっても、しばらくは「寛政の遺老」と呼ばれる重臣たちによって、似たような施策が続きました。
つまりは定信が政治的に孤立したため改革の途中でクビになったわけで、改革が失敗したからクビになったわけではないのです。
まぁ、上手くいってるわけではなかったので、そのうちお役御免となった可能性は高いかもしれませんが。
★
真面目は美徳かもしれない。
されど、真面目だけで世の中がうまく回るわけではない。
田沼意次のように貨幣経済も同時に取り入れ、税制改革なども進めればよかったのですが……後世の私たちが何を言っても仕方ないですね。
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【参考】
『松平定信 政治改革に挑んだ老中 (中公新書)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか








