「紀伊・水戸・尾張の御三家はわかる」
けど……。
「田安・一橋・清水の“御三卿”って一体なんなの?」
「読みは【ごさんきょう】でいいの?」
「田安と言ってるのに、なんで将軍様になれるの??」
江戸時代のドラマを見ていて、こんな疑問を抱いたことはありませんか。
享保十五年(1730年)11月10日は、八代将軍・徳川吉宗が御三卿のはしりとなる田安家を創設した日。
今回は【御三家と御三卿】の違いを確認して参りましょう。
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吉宗と家重の子供たちから始まった
御三卿というのは要するに徳川本家(宗家)から見た分家のようなもの。
家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で御三家を作ったように、吉宗も「御三家だけじゃ心もとない。ワシの子らにも分家させておこう」ということで作られたのでした。
他の養子先と違って徳川の姓を名乗り続けられるため、実際には「将軍の親戚」というような位置づけだったんですね。
田安家・一橋家が吉宗。
清水家は九代・徳川家重から分かれて計三つの家が作られたため、既に存在していた御三家になぞらえて「御三卿(ごさんきょう)」と呼ばれるようになりました。
跡取りなくとも改易喰らわず
この田安とか一橋というのは名字ではなく、屋敷のあった場所から取った便宜的な呼び名です。
正式には「田安・一橋・清水に住んでる徳川家の人」ということになります。
それだと一々長いので、本やドラマだと「田安家のナントカ様がうんぬん」という台詞にしているのでしょう。
時代考証的には合ってますが、視聴者にはあんまり優しくないかもですね。
場所は、現在でいえば、田安家は日本武道館北あたり。
一橋家は竹橋駅前、清水家は田安家の少し東側に屋敷を持っていました。
将軍の住む江戸城本丸は今の皇居東御苑ですから、ホントにすぐ近くの親戚って感じです。
御三卿の当主を決める・養子を迎えるもしくは出すのも将軍が決めていましたし、もちろん特権もありました。
通常の大名家は跡取りがいないと改易をくらいますが、御三卿は当主がいなくなっても「身内だからそのうち適当な人がいれば家名復活させるよん」ということでそのまま名前だけが残っている……なんてのが一つ。
これを【明屋敷(あけやしき)】といいます。
「空き屋敷の間違いじゃないのか」
「当主いなくちゃお先真っ暗じゃねーか」
そうツッコみたくなりますが、将軍が家を保障してくれてるんですから先行き明るいですよね。
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