徳川家重

徳川家重/wikipediaより引用

江戸時代

小便公方と呼ばれた九代将軍「徳川家重」実は意次を重用した慧眼の主君だった

NHKドラマ10『大奥』に徳川家重が登場したとき、ある“粗相”が大きな話題になりました。

父の徳川吉宗や重臣たちが揃う前で失禁してしまったのです。

あれはマンガの原作だからそうなったのか?

というと、実は史実においても何かと言われようの厳しい家重。

父の吉宗が中興の祖ですから、比較されてしまうのは仕方のないこととはいえ、当人に「小便公方」という屈辱的なアダ名が付けられてしまっていたのです。

さらには生まれつき言語が不明瞭なことで、周囲から悪評を立てられることもあり、今なお将軍に相応しくないというレッテルを貼られがちだったりします。

しかし、本当にそのようなあだ名を付けられる人物だったのか?

実際の政治手腕などはどう評価されるべきなのか?

正徳元年12月21日(1712年1月28日)に生まれた徳川家重の生涯を振り返ってみましょう。

徳川家重/wikipediaより引用

 


幼少の頃から偏見の目で見られ

徳川家重が生まれた正徳元年(1712年)は、父の徳川吉宗がまだ紀州藩主時代、江戸藩邸でのことでした。

母は紀州藩士大久保忠直の娘・お須磨の方。

彼女は正徳三年(1713年)、難産によって母子ともに亡くなってしまいます。

もしも平産であれば、家重に同母弟か同母妹がいたのでしょう。

父の吉宗が享保元年(1716年)に八代将軍に決まり、幼い家重も江戸城へ入ったのですが……この頃から既に偏見の目で見られていたらしき形容をされています。

生まれつき脳性麻痺か何かの病気で言語が不明瞭になっていたため、「これでは跡継ぎにふさわしくない」などと言われていたのです。

しかし、側近の大岡忠光(ただみつ)という人が唯一家重の言葉を理解したため、彼を通して周囲と意思の疎通を図ることはできました。

大岡忠光像(龍門寺蔵)/wikipediaより引用

幸運なことに忠光は野心や物欲のある人物ではなく、家重も政治に対して我が強いほうではありませんでした。

もしも「無能なのに我の強い主君+有能で忠義に厚い家臣」というパターンだと、主君側があらぬ方向の嫉妬や勘違いを爆発させて大騒動になることもあります(例:永享の乱)。

それを考えれば、家重と忠光の相性が良かったことは幸いでした。

余談ながら、名奉行として知られる大岡忠相(ただすけ)と大岡忠光は遠い親戚にあたります。

忠相のほうが30歳以上も年齢が上で、既に実績を上げていたこともあり、忠光はたびたび相談に行っていたそうで。

有能なことで知られる忠相は、こんなことを言っていたとか。

「私は不才だから、何か特別なことを知っているわけではない。

あなたはまだお若いが、将軍の思し召しに適っていて申し分ない知恵もお持ちだ。

そんな優れた方に私から教えるようなことは何もないが、あなたより年を取っているのに何も言わないのもどうかと思う。

だから一言だけお伝えする。

人に対しても世間に対しても、全て相手に合わせ、誠意を持って取り組むと良い」

忠相の詳細については以下の記事をご覧いただければ、非常に含蓄が詰まった言葉と納得できると思います。

有能すぎて死の直前まで働かされた大岡越前守忠相~旗本から大名へ超出世

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側近に忠光 教育係に室鳩巣

大岡忠光は先達の言葉をよく実践したようで、庶民からの評判も良かったそうです。

となると、その忠光を重用し続けた徳川家重も、決して悪い主人ではなかったはず。

しかし、城内の「家重を廃嫡すべき」という空気の中で育ったためか、家重は成長してから酒食に溺れ、さらに健康を害してしまったようです。

学問や武芸を好まず猿楽にふけっていたとも……。

それでも吉宗は、早いうちから家重を嫡子と考えていたフシがあります。

質素倹約の一環として、家重の肌着は木綿に限られていたという話もありますし、享保十年(1725年)には元服させているのです。

最初からその気がないのなら、病気等を理由として出家させていてもおかしくありません。

そうしなかったのは、吉宗が最初から家重に継がせることは決めていて、

「優秀で信頼できる側近をつけてやれば、家重が将軍を継いでも問題はない」

と考えていたからではないでしょうか。

また、吉宗は享保十年(1725年)に室鳩巣(むろ きゅうそう)という儒学者を家重の教育係につけています。

室鳩巣/wikipediaより引用

鳩巣は質素倹約と誠実を旨とし、江戸城で講義をしたり、朝鮮通信使の応接をしたこともある優秀な人物。

倹約を重視しすぎるあまり、新井白石からは

「エラい人と庶民とで生活に格差があるのは当然なんだから、鳩巣の考えは極端すぎる」

と言われてしまっていますが、当時の情勢としては倹約が重んじられるのも宜なるかなという感があります。

また、家重元服の翌年、享保十一年(1726年)には、吉宗が江戸城の吹上お庭にオランダ人のケイヅルを呼び、家重とともに西洋の馬術を見物したという話もあります。

吉宗は蘭学の禁制を緩めるなど、新たな知識の習得を奨励した人。

家重にも西洋文化への興味を開こうとしたのではないでしょうか。

こうした吉宗の気遣いを勘案すると、家重を将軍にふさわしい人物に育て、良い側近をつけて万全を期そうとしていたと見る方が自然な気がします。

 


正室は増子女王

享保十六年(1731年)、徳川家重の正室として増子女王(ますこじょおう)が迎えられました。

これも将来を見据えて格上げさせたと見なせるかもしれません。

増子女王は南北朝時代から続く伏見宮家の出身、かつ年齢も1歳上でちょうどよく、将来の御台所にふさわしい条件を備えていました。

家重とは比較的仲が良かったようで、結婚翌年の享保十七年(1732年)には、夫婦で船に乗り、隅田川を遊覧したといわれています。

将軍夫妻や世子夫妻の仲が良かったケースというのは他にあまり見られないので、二人はお互いに歩み寄ろうとしたか、元から気性が合ったのかもしれません。

享保十八年(1733年)にはめでたく子供を授かりながら、残念なことに早産で亡くなってしまいました。

増子女王自身もその後の経過が良くなく、一月ほどで亡くなってしまっています。

家重にとっては忠光に勝るとも劣らない理解者になりえたでしょうに、なんとも残酷な話です。

京の香りを恋しがったのか。その後、家重は、増子の側仕えだった梅渓幸子を寵愛し、側室にしました。

幸子との間には元文二年(1737年)5月22日、後に10代将軍となる長男の徳川家治が誕生。

徳川家治/wikipediaより引用

”吉宗は家治の聡明さに期待し、直系で将軍を継承していくため家重を中継ぎにした”という説もありますので、これは幕府の将来を決める出来事でもありました。

ちなみに家重にはもう一人、女中出身の側室がいて、その女性との間にも延享二年(1745年)3月に徳川重好という息子を授かっています。

”将軍家の異母兄弟”というといかにもバチバチに対立しそうな気がしますが、家治と重好の仲は良好だったそうです。

吉宗が自分の息子たちの確執を次世代に持ち越さないために、帝王学と共に「兄弟は仲良くしなければならんぞ」といった指導もしていたのかもしれませんね。

側室同士の間には確執があったようですが、家治たちが父の家重に反抗したという記録は見当たらないので、父子仲も良かったのではないでしょうか。

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