宝暦元年12月19日(1752年2月3日)は大岡越前守忠相(ただすけ)の命日です。
”名奉行・大岡越前”として知られていますが、実は若い頃は結構な苦労人。
また、この時代における武士としては異例の出世を果たした人でもあります。

大岡越前守忠相/wikipediaより引用
その生涯はいかなるものだったか? 生い立ちから振り返ってみましょう。
生い立ち
大岡忠相は延宝五年(1677年)、父・大岡忠高の第四子として生まれました。
貞享三年(1686年)同姓の忠真の娘婿として養子になり、翌貞享四年(1687年)9月に時の将軍・徳川綱吉にお目見えして公的デビューを果たしています。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
こういった場面で公の場に出てこないと、武士であっても血縁関係や活動時期などがわからないことがあるため、重要なポイントです。
大岡家は本家・分家の間で養子のやり取りをたびたびしており、結束が強かったようです。
しかし、忠相の時代にはそれによる不都合が起きていきます。
まず元禄六年(1693年)に忠相の実兄・忠品が八丈島に流罪となっています。
将軍・綱吉の勘気を蒙ったらしいのですが、詳細はわかっていません。
さらに元禄九年(1696年)、いとこの書院番・忠英が番頭を殺害して自害という事件を起こしたため、忠相も父や他の一族とともに閉門処分となってしまいました。
父・忠高はこのころ奈良奉行という高職についていたのですが、罷免された上に小普請という最下級の旗本にされてしまっています。
出仕を差し控えるなどの態度が殊勝とみなされたのか、元禄十年(1670年)12月に先鉄砲頭として復帰していますが、当時の大岡家の人々は肝が冷えたことでしょう。
書院番へ昇格し 出世街道を驀進する
元禄十三年(1700年)4月に忠相の養父・忠高が亡くなり、大岡忠相は養父の領地1920石と家督を継承しました。
ここから本格的に出世していきます。
最初は寄合(よりあい)という身分で、元禄十五年(1702年)には”書院番”へ昇格。
書院番とは、江戸城内や紋の守衛や将軍の警護、市中の巡回、交代制で駿府城の警備などを担当する役職です。
江戸時代初期に、政務の中枢部・白書院紅葉の間に詰めていたので書院番という名前になりました。
旗本にとって書院番になるのは出世コースの始まりでもありますので、忠相もモチベーションが上がったことでしょう。

江戸城/wikipediaより引用
そのやる気を発揮する機会が翌年やってきます。
元禄十六年(1703年)11月22日、江戸で”元禄大地震”と呼ばれる地震が発生し、書院番たちが復旧工事の奉行を兼任することになったのです。もちろん、忠相もその中に含まれていました。
その手際を認められたものか、忠相はときの将軍・綱吉から直々に宝永元年(1704年)御徒頭(おかちがしら)への就任を命じられます。
将軍の警護を務める”徒士(かち)”のリーダーであり、上司は若年寄です。
若年寄は主に規模の小さい譜代大名が務める役職で、若年寄から老中になる人もいました。
その下についたということは、働き次第で将軍の覚えもめでたくなるということであり、忠相からすると、書院番の頃よりさらに将軍へ近づいたことになりますね。
御徒頭を務めていた時期には、儀礼の場で”布衣(ほい)”を許されたり、将軍に献じられる茶壺を宇治まで取りに行く役目を命じられたり。
この時点で、かなり特別な立ち位置になっていたこともわかります。
そしてその精励ぶりが認められ、宝永四年(1707年)には御使番(おつかいばん)になりました。
これも若年寄管轄の職で、大名の監察や各地の城の受け渡しなどに立ち会う役職です。
出世はまだまだ止まりません。
宝永五年(1708年)には、これまた若年寄管轄の”御目付”に就任。
その名の通り、旗本や御家人の勤怠などを監察する役職であり、4年後の正徳二年(1712年)には山田奉行・従五位下能登守に任じられました。
山田奉行とは、伊勢神宮の警備や遷宮に伴う諸々の手配、伊勢・志摩の統治などをする役職です。

伊勢神宮内宮・宇治橋の鳥居
当初の役所が伊勢山田(現・三重県伊勢市)に置かれたためこの名がついたとされます。
幕府が全国の要所に置いた”遠国(おんごく)奉行”のひとつで、本格的な幕閣の入口とみなされている役職でした。
ちなみに山田奉行を務めていた間も”大岡裁き”のような逸話が伝わっていますが、後年の研究により創作だと考えられています。
江戸時代は時事問題をリアルタイムで創作に使う傾向があるので、史実との境目が曖昧になりやすいのがちょっと困りますね。そういうものが人気だったので仕方ありませんが。
その後江戸に戻った大岡越前守忠相は、享保元年(1716年)、普請奉行に就任しました。
これまでとは違い老中の下に置かれた役職であり、文字通り「普請=工事」や屋敷に関することを扱いました。大名が何らかの理由で屋敷替えとなった際の受け渡しも担当します。
忠相が担当した有名人の中には、あの新井白石もいました。

新井白石/wikipediaより引用
白石は徳川吉宗が将軍になったときクビにされており、そのため屋敷を没収されることになったのです。
忠相の担当は引き渡しでしたが、認識の相違により実行日が半月以上ズレてしまい、白石は不審感を抱いたとか。
まあ、いくら優秀な人でもまったくミスをしないとは限りませんしね。
ここから忠相は江戸の町や市民に詳しくなっていき、享保二年(1717年)2月3日にいよいよ江戸の町奉行に昇進するのです。
白子屋お熊事件
町奉行は江戸の町における統治や民事裁判を行う役職。
市役所+裁判所の一部機能みたいな感じといえばわかりやすいでしょうかね。
町奉行は慣例的に60歳前後で就くことが多かったのですが、当時の忠相は41歳。かなりのスピード出世だったといえます。
この頃から”越前守”を名乗るようになり、今日我々がイメージする”大岡越前”はこれ以降の彼となりますね。
しかし、”大岡裁き”のほとんどは創作だと考えられています。
そもそも出典元が『大岡政談』と呼ばれる忠相の事績を元にした”創作物”に出てくるものであり、その中で実際に忠相が裁いたのは『白子屋お熊事件』だけなのだとか。
白子屋という問屋の中で起きたドロドロの愛憎劇でして、話はざっと以下の通り。
白子屋の養子・又七と結婚させられた女性・お熊が、浮気相手の忠八に本気になってしまう
↓
「旦那を殺せばハッピーになれるわ!(超訳)」と思い込む
↓
又七の義理の母・つねがお熊に味方し、下女のきくに命じて又七を怪我させる
全体的にヒドい話ですが、カーチャンが息子殺しに加担したという点が実に恐ろしいですね。
ただでさえ不義密通が重罪な上に殺人未遂まで絡んでいますので、主犯のお熊は市中引き回し+獄門+磔という最も厳しい罰が与えられました。

国立国会図書館蔵
その他、事件に関わった人も処罰を受け、誰も得をしない結果。
色恋沙汰に目が眩むとろくな事になりませんね。
他の事件については、そもそも忠相がいた時代と年代や場所が合わないものが多いのだとか。
子供の手を同時に引っ張って、離したほうが本物の母親だとした「実母継母の子争い」など、中国の話が伝えられたとされているものもあります。
なぜそれらが忠相の功績とされるようになったのか?
詳細は不明ですが、おそらく名もなき奉行の「良い仕事」を一人に集約させたのでしょう。
あるいは「忠相様ならば、きっと誰もが納得するお裁きをしてくださったに違いない!」という民衆の信頼や期待が作ったものや、「忠相様に似た名前のお奉行様が裁いてくださった」といった混同も含まれていそうです。
あっちこっちに”空海が見つけた温泉”があるのと似たようなものでしょうかね。
サツマイモ普及は忠相のおかげ?
実は大岡裁きといわれるアレコレの裁判より、忠相はもっと重要なことに携わっています。
まずはサツマイモの普及です。
忠相が町奉行になってからの部下・加藤又左衛門から儒学者・青木昆陽を紹介されたことにより、サツマイモの普及に繋がっていきました。

青木昆陽/wikipediaより引用
享保十九年(1734年)に又左衛門が忠相に昆陽の書いたサツマイモの栽培方法に関する本を見せ、忠相が又左衛門に
「そのイモを育てるために屋敷を与えるから、栽培のやり方と効能を書面にまとめて提出するように」
と命じ、この報告書が将軍・吉宗のもとまで届けられたことにより、サツマイモの栽培が奨励されていくことになります。
江戸の防火対策
もう一つの重要な取組が「江戸の防火対策」です。
江戸が火事の多い町だったことは現代でも知られている通り。
いつまでも同じ災害が起こるのを放置していては、いくら人命と建築資材とお金があっても足りません。
当時は大名たちによる”大名火消”、旗本・御家人による”定火消(じょうびけし)”なども設けられていましたが、吉宗は新たな防火政策の必要性を感じていました。

三代目歌川広重火消し出初式/wikipediaより引用
そこで吉宗は、火災防止のためにいくつかの新制度を進め、忠相もまたその担当者として奮闘することになります。
・町火消
町人たちに防火組織を作らせたものです。
これまた有名な”いろは四十七組”ですね。
大名火消等と同様に、いざというときは火元近辺の家屋を壊す権限を与えられ、町火消が活動しているときは定火消よりも優先されました。

火消しいろは組/wikipediaより引用
・燃えにくい建築物への建て替え推進
燃えにくい瓦葺き屋根や土蔵造りを普及させました。
これらの建て替えには費用を要したため、反対意見もあったものの、強引に推し進めています。
場合によっては蠣殻(かきがら)屋根も許可していました。
当時は江戸前で牡蠣が採れた=殻を安く調達できたことにより、瓦の代わりになる防火材として使えたことによります。
・火除地(ひよけち)の確保
火除地とは、火事が燃え広がるのを防ぐためにあらかじめ用意しておく空き地のことです。
明暦三年(1657年)に起きた明暦の大火以降にも”広小路”という空き地が作られていましたが、さらにその拡充が図られました。
以前の火事で焼け落ちた寺院や町の土地をそのまま空けておいたり、新たに立ち退かせて火除地を作っています。
一時期は90か所もあったそうですが、大都会江戸で広大な土地を遊ばせておくのも不経済なため、一部の火除地は簡単に移動・撤去できる小屋や簡易店舗でのみ営業が許されました。
他にも、町奉行に就任してから、以下のような事業に取り組んでいます。
・関東の幕府直轄地の農政や小田原藩の治水工事
・不正が起こりやすかった役職を廃止
・米価や物価の急激な高騰と下落を抑えるため商人と談判
・貧しい病人のための医療機関「小石川養生所」の設置に携わる
・私娼や心中を取り締まって綱紀粛正を進める
江戸時代の役人は現代の役所ほど細分化されていません。
そのため仕事がデキればデキるほど、そして偉くなるほど何でもこなさないとならず、忠相も多忙を極めたのでした。
吉宗「寺社奉行は忠相がいれば良い」
享保七年(1722年)から延享二年(1745年)まで、大岡越前守忠相は関東地方御用掛も兼務していました。
今も昔も優秀な人に仕事が集まるのは変わらないようです。
しかし働きぶりはきちんと評価され、忠相は享保十年(1725年)に+2000石、元文元年(1736年)に+2000石の加増を受けています。
他にも臨時の褒美として衣類をもらったこともありました。
当時の武士は基本的に米で給料をもらっており、それを売って銭を手に入れ、生活に必要な物品を買っています。
食料を確保できても、米の価格によって生活が左右されやすいのが大きなデメリット。
ですので衣類を直接もらえるのは割と助かったかもしれません。
そして縦横無尽の働きぶりはきちんと認められ、元文元年(1736年)8月、忠相は寺社奉行に任じられました。
寺社奉行は文字通り寺院や神社、そして門前町の町人、修験者などの寺社に属さない聖職者などを取り締まる役職で、江戸幕府の中でも高官の一つ。
定員四名で1ヶ月毎に受付を交代する月番制となっていました……が、寺社奉行は自宅を役所として仕事をするため、激務なことに加えて心身ともに安らげる日は少なかったのではないかと思われます。
同じく元文元年の末には、江戸城内での席次も”雁間詰(かりのまづめ)”に格上げされました。
雁間とは、江戸幕府ができてから大名に取り立てられた者や、老中・大名の跡継ぎの控え室です。
これも何度目かの異例な待遇で、それだけに同僚からはやっかみも買っていたようです。
「子供か!」とツッコミたくなりますが、現代社会もあまり変わりませんね。
忠相は、できるだけ事を荒立てないようにしつつも、意見を求められたときは積極的に発言するよう務めました。
雁間詰はその性質上、若い者が多かったこともあって、やがて年長かつ経験豊富で思慮深い忠相は慕われるようになっていったようで、こうした立ち居振る舞いは、吉宗からさらに高く評価されました。
その一例が、吉宗の側近・加納久通を通したエピソードでしょう。

徳川吉宗/wikipediaより引用
元文二年(1737年)に寺社奉行のうちの一人が亡くなり、忠相が吉宗の側近・加納久通とこんなやりとりをしています。
「寺社奉行の後任について、上様にお伺いしたいのですが」
「その件については以前上申したことがあり、上様は『寺社奉行は忠相がいれば良い。後任は不要』とおっしゃっていた。もう一度確認しておこう」
忠相としては能力を認められた嬉しさ半分、実務の処理を考えると迷惑半分、というところでしょうか。
この後も久通を通して上申していますが、後任が来るまで実に一年以上かかっています。それまでの業務状況の多忙さを想像すると、他人事ながら肝が冷えますね……。
ついに旗本から大名へ
延享二年(1745年)7月、吉宗が隠居し、長男の徳川家重へ代替わりさせることが内々に決まりました。

徳川家重/Wikipediaより引用
すると同年9月、忠相は吉宗に呼び出され「家重の代になってから頼りになりそうな大名」や「日光や増上寺、寛永寺の僧侶の人品骨柄」などを尋ねられています。
それに答えると、吉宗から念を押されます。
「代替わりの後は奉行たちも混乱しやすいので心配している。特に寺社奉行は気をつけてもらいたい」
「上様の御代に万全の体制となりましたので、この度の代替わりは問題ないと思います。今後も上様へご相談の上で取り計らいます」
当たり障りない上司への返答とも言えますが、実際大きな混乱はなく、その3年後の寛延元年(1748年)閏10月になると、忠相は奏者番まで兼務するようになりました。
奏者番は儀礼に関する責任者で次のような仕事がありました。
・大名から将軍への献上品や、将軍から大名への下賜品の確認と伝達
・将軍家や御三家の法事に将軍が出席できない場合の代役
・将軍の前で元服する大名や継嗣への指南役
定員20~30名のうち4名が寺社奉行の兼任となっていたため、忠相もこれに倣って務めたのでしょう。
奏者番もまた江戸幕府の出世コースの一つであり、譜代大名の中から選ばれるのが通例でした。
忠相は実務能力を買われて就任した数少ない例外であり、足高の制によって一万石に加増され、旗本から新たに大名の仲間入りを果たすほどでした。
これにより忠相は
・評定所メンバーとして出席する会合
・寺社奉行としての詰番
・奏者番としての江戸城本丸詰め
・吉宗がいる江戸城西の丸への伺候
と、さらに多忙な日々を送ることになります。
どれも毎日のことではなく、月に1~2回のものが複数という形ではあるのですが……このとき既に70代ですので、酷にも見えますね。
広い江戸城内は移動するだけでもかなり体力を使いますし。
隠居させてもらえない!
寛延四年(1751年)6月20日、大岡越前守忠相を高く評価していた大御所の徳川吉宗が亡くなりました。
忠相は他の寺社奉行や勘定奉行たちと共に葬儀の手配を担当。
吉宗は忠相より7歳下でしたので、先立たれたことにはかなり衝撃を受けたでしょう。
その現れなのか、忠相が諸々の手配の最中に体の痛みを訴え、帰宅した日もありましたが、養生した甲斐あって、葬儀の当日には正装で棺に付き従うことができています。
そんなこんなで、あまりに優秀なため働き続けた忠相。
おそらく生来頑丈な質の人だったのでしょうけれども、老いは誰しも平等に訪れます。
彼の日記によると、病欠した日でも自宅で仕事をしていたことが珍しくありません。
そんな長年の激務が堪えたのでしょう。
宝暦元年(1751年)11月2日には病のため、寺社奉行と奏者番からの辞任を申し出たのですが……寺社奉行からの辞任は認められたものの、奏者番は続投させられています。ひでえ。
しかも、それから1ヶ月少々経った同年12月19日、忠相は世を去ってしまいました。
せめて最期の最期くらい、ゆっくりさせてあげても良かったんじゃないですかね……。
隠居を認めて養生に専念させておけば、もう少し長生きできたかもしれませんし。
おそらくは忠相が優秀すぎて、後任となる人物を選べなかったのでしょう。
本人も周囲も、もっと早くその点に気付いておくべきでしたね。
戦国時代あたりから「優秀な人ほど早死する」傾向を感じますが、その中には過労死も多く含まれていると思われます。
現代人が教訓とするならば、大岡裁きよりもそちらを重視するべきかもしれません。
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【参考】
大石学『人物叢書 大岡忠相』(→amazon)
藤井讓治『江戸時代の官僚制(法蔵館文庫)』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典





