江戸時代

有能すぎて死の直前まで働かされた大岡越前守忠相~旗本から大名へ超出世

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大岡越前守忠相
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吉宗「寺社奉行は忠相がいれば良い」

享保七年(1722年)から延享二年(1745年)まで、大岡越前守忠相は関東地方御用掛も兼務していました。

今も昔も優秀な人に仕事が集まるのは変わらないようです。

しかし働きぶりはきちんと評価され、忠相は享保十年(1725年)に+2000石、元文元年(1736年)に+2000石の加増を受けています。

他にも臨時の褒美として衣類をもらったこともありました。

当時の武士は基本的に米で給料をもらっており、それを売って銭を手に入れ、生活に必要な物品を買っています。

食料を確保できても、米の価格によって生活が左右されやすいのが大きなデメリット。

ですので衣類を直接もらえるのは割と助かったかもしれません。

まさしく縦横無尽の働きぶりは認められており、元文元年(1736年)8月、忠相は寺社奉行に任じられました。

寺社奉行は文字通り寺院や神社、そして門前町の町人、修験者などの寺社に属さない聖職者などを取り締まる役職で、江戸幕府の中でも高官の一つ。

定員四名で1ヶ月毎に受付を交代する月番制となっていました……が、寺社奉行は自宅を役所として仕事をするため、激務なことに加えて心身ともに安らげる日は少なかったのではないかと思われます。

同じく元文元年の末には、江戸城内での席次も”雁間詰(かりのまづめ)”に格上げされました。

雁間とは、江戸幕府ができてから大名に取り立てられた者や、老中・大名の跡継ぎの控え室です。

これも何度目かの異例な待遇で、それだけに同僚からはやっかみも買っていたようです。

「子供か!」とツッコミたくなりますが、現代社会もあまり変わりませんね。

忠相は、できるだけ事を荒立てないようにしつつも、意見を求められたときは積極的に発言するよう務めました。

雁間詰はその性質上、若い者が多かったこともあって、やがて年長かつ経験豊富で思慮深い忠相は慕われるようになっていったようで、こうした立ち居振る舞いは、吉宗からさらに高く評価されました。

その一例が、吉宗の側近・加納久通を通したエピソードでしょう。

徳川吉宗/wikipediaより引用

元文二年(1737年)に寺社奉行のうちの一人が亡くなり、忠相が吉宗の側近・加納久通とこんなヤリトリをしています。

「寺社奉行の後任について、上様にお伺いしたいのですが」

「その件については以前上申したことがあるが、上様は『寺社奉行は忠相がいれば良い。後任は不要』とおっしゃっていた。もう一度確認しておこう」

忠相としては能力を認められた嬉しさ半分、実務の処理を考えると迷惑半分、というところでしょうか。

この後も久通を通して上申していますが、後任が来るまで実に一年以上かかっています。それまでの業務状況の多忙さを想像すると、他人事ながら肝が冷えますね……。

 


ついに旗本から大名へ

延享二年(1745年)7月、吉宗が隠居し、長男の徳川家重へ代替わりさせることが内々に決まりました。

徳川家重/Wikipediaより引用

すると同年9月、忠相は吉宗に呼び出され「家重の代になってから頼りになりそうな大名」や「日光や増上寺、寛永寺の僧侶の人品骨柄」などを尋ねられています。

それに答えると、吉宗から念を押されます。

「代替わりの後は奉行たちも混乱しやすいので心配している。特に寺社奉行は気をつけてもらいたい」

「上様の御代に万全の体制となりましたので、この度の代替わりは問題ないと思います。今後も上様へご相談の上で取り計らいます」

当たり障りない上司への返答とも言えますが、実際大きな混乱はなく、その3年後の寛延元年(1748年)閏10月にまると、忠相は奏者番まで兼務するようになりました。

奏者番は儀礼に関する責任者で次のような仕事がありました。

・大名から将軍への献上品や、将軍から大名への下賜品の確認と伝達

・将軍家や御三家の法事に将軍が出席できない場合の代役

・将軍の前で元服する大名や継嗣への指南役

定員20~30名のうち4名が寺社奉行の兼任となっていたため、忠相もこれに倣って務めたのでしょう。

奏者番もまた江戸幕府の出世コースの一つであり、譜代大名の中から選ばれるのが通例でした。

忠相は実務能力を買われて就任した数少ない例外であり、足高の制によって一万石に加増され、旗本から新たに大名の仲間入りを果たすほどでした。

これにより忠相は

・評定所メンバーとして出席する会合

・寺社奉行としての詰番

・奏者番としての江戸城本丸詰め

・吉宗がいる江戸城西の丸への伺候

と、さらに多忙な日々を送ることになります。

どれも毎日のことではなく、月に1・2回のものが複数という形ではあるのですが……このとき既に70代ですので、酷にも見えますね。

広い江戸城内は移動するだけでもかなり体力を使いますし。

 


隠居させてもらえない!

寛延四年(1751年)6月20日、大岡越前守忠相を高く評価していた大御所の徳川吉宗が亡くなりました。

忠相は他の寺社奉行や勘定奉行たちと共に葬儀の手配を担当。

吉宗は忠相より7歳下でしたので、先立たれたことにはかなり衝撃を受けたでしょう。

その現れなのか、忠相が諸々の手配の最中に体の痛みを訴え、帰宅した日もありましたが、養生した甲斐あって、葬儀の当日には正装で棺に付き従うことができています。

そんなこんなで、あまりに優秀なため働き続けた忠相。

おそらく生来頑丈な質の人だったのでしょうけれども、老いは誰しも平等に訪れます。

彼の日記によると、病欠した日でも自宅で仕事をしていたことが珍しくありません。

そんな長年の激務が堪えたのでしょう。

宝暦元年(1751年)11月2日には病のため、寺社奉行と奏者番からの辞任を申し出たのですが……寺社奉行からの辞任は認められたものの、奏者番は続投させられています。ひでえ。

しかも、それから1ヶ月少々経った同年12月19日、忠相は世を去ってしまいました。

せめて最期の最期くらい、ゆっくりさせてあげても良かったんじゃないですかね……。

隠居を認めて養生に専念させておけば、もう少し長生きできたかもしれませんし。

おそらくは忠相が優秀すぎて、後任となる人物を選べなかったのでしょう。

本人も周囲も、もっと早くその点に気付いておくべきでしたね。

戦国時代あたりから「優秀な人ほど早死する」傾向がありますが、その中には過労死も多く含まれていると思われます。

現代人が教訓とするならば、大岡裁きよりもそちらを重視するべきかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
大石学『人物叢書 大岡忠相』(→amazon
藤井讓治『江戸時代の官僚制(法蔵館文庫)』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典

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