江戸時代

有能すぎて死の直前まで働かされた大岡越前守忠相~旗本から大名へ超出世

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白子屋お熊事件

町奉行は江戸の町における統治や民事裁判を行う役職。

市役所+裁判所の一部機能みたいな感じといえばわかりやすいでしょうかね。

町奉行は慣例的に60歳前後で就くことが多かったのですが、当時の忠相は41歳。かなりのスピード出世だったといえます。

この頃から”越前守”を名乗るようになり、今日我々がイメージする”大岡越前”はこれ以降の彼となりますね。

しかし、”大岡裁き”のほとんどは創作だと考えられています。

そもそも出典元が『大岡政談』と呼ばれる忠相の事績を元にした”創作物”に出てくるものであり、その中で実際に忠相が裁いたのは『白子屋お熊事件』だけなのだとか。

これが白子屋という問屋の中で起きたドロドロの愛憎劇でして、話はざっと以下の通り。

白子屋の養子・又七と結婚させられた女性・お熊が、浮気相手の忠八に本気になってしまう

「旦那を殺せばハッピーになれるわ!(超訳)」と思い込む

又七の義理の母・つねがお熊に味方し、下女のきくに命じて又七を怪我させる

全体的にヒドい話ですが、カーチャンが息子殺しに加担したという点が実に恐ろしいですね。

ただでさえ不義密通が重罪な上に殺人未遂まで絡んでいますので、主犯のお熊は市中引き回し+獄門+磔という最も厳しい罰が与えられました。

国立国会図書館蔵

その他、事件に関わった人も処罰を受け、誰も得をしない結果。

色恋沙汰に目が眩むとろくな事になりませんね。

他の事件については、そもそも忠相がいた時代と年代や場所が合わないものが多いのだとか。

子供の手を同時に引っ張って、離したほうが本物の母親だとした「実母継母の子争い」など、中国の話が伝えられたとされているものもあります。

なぜそれらが忠相の功績とされるようになったのか?

詳細は不明ですが、おそらく名もなき奉行の「良い仕事」を一人に集約させたのでしょう。

あるいは「忠相様ならば、きっと誰もが納得するお裁きをしてくださったに違いない!」という民衆の信頼や期待が作ったものや、「忠相様に似た名前のお奉行様が裁いてくださった」といった混同も含まれていそうです。

あっちこっちに”空海が見つけた温泉”があるのと似たようなものでしょうかね。

 


サツマイモ普及は忠相のおかげ?

実は大岡裁きといわれるアレコレの裁判より、忠相はもっと重要なことに携わっています。

まずはサツマイモの普及です。

忠相が町奉行になってからの部下・加藤又左衛門から儒学者・青木昆陽を紹介されたことにより、サツマイモの普及に繋がっていきました。

青木昆陽/wikipediaより引用

享保十九年(1734年)に又左衛門が忠相に昆陽の書いたサツマイモの栽培方法に関する本を見せ、忠相が又左衛門に

「そのイモを育てるために屋敷を与えるから、栽培のやり方と効能を書面にまとめて提出するように」

と命じ、この報告書が将軍・吉宗のもとまで届けられたことにより、サツマイモの栽培が奨励されていくことになります。

 


江戸の防火対策

もう一つの重要な取組が「江戸の防火対策」です。

江戸が火事の多い町だったことは現代でも知られている通り。

いつまでも同じ災害が起こるのを放置していては、いくら人命と建築資材とお金があっても足りません。

当時は大名たちによる”大名火消”、旗本・御家人による”定火消(じょうびけし)”なども設けられていましたが、吉宗は新たな防火政策の必要性を感じていました。

三代目歌川広重火消し出初式/wikipediaより引用

そこで吉宗は、火災防止のためにいくつかの新制度を進め、忠相もまたその担当者として奮闘することになります。

・町火消

町人たちに防火組織を作らせたものです。

これまた有名な”いろは四十七組”ですね。

大名火消等と同様に、いざというときは火元近辺の家屋を壊す権限を与えられ、町火消が活動しているときは定火消よりも優先されました。

火消しいろは組/wikipediaより引用

・燃えにくい建築物への建て替え推進

燃えにくい瓦葺き屋根や土蔵造りを普及させました。

これらの建て替えには費用を要したため、反対意見もあったものの、強引に推し進めています。

場合によっては蠣殻(かきがら)屋根も許可していました。

当時は江戸前で牡蠣が採れた=殻を安く調達できたことにより、瓦の代わりになる防火材として使えたことによります。

・火除地(ひよけち)の確保

火除地とは、火事が燃え広がるのを防ぐためにあらかじめ用意しておく空き地のことです。

明暦三年(1657年)に起きた明暦の大火以降にも”広小路”という空き地が作られていましたが、さらに拡充が図られました。

以前の火事で焼け落ちた寺院や町の土地をそのまま空けておいたり、新たに立ち退かせて火除地を作っています。

一時期は90か所もあったそうですが、大都会江戸で広大な土地を遊ばせておくのも不経済なため、一部の火除地は簡単に移動・撤去できる小屋や簡易店舗でのみ営業が許されました。

他にも、町奉行に就任してから、以下のような事業に取り組んでいます。

・関東の幕府直轄地の農政や小田原藩の治水工事

・不正が起こりやすかった役職を廃止

・米価や物価の急激な高騰と下落を抑えるため商人と談判

・貧しい病人のための医療機関「小石川養生所」の設置に携わる

・私娼や心中を取り締まって綱紀粛正を進める

江戸時代の役人は現代の役所ほど細分化されていません。

そのため仕事がデキればデキるほど、そして偉くなるほど何でもこなさないとならず、忠相も多忙を極めたのでした。

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