1769年11月9日(明和6年10月12日)は『蕃藷考(ばんしょこう)』で知られる青木昆陽の命日です。
蕃藷とはサツマイモのこと。
ときの将軍は徳川吉宗です。
教科書で江戸中期のことを習うとき、「飢饉対策のため、吉宗がさつまいもの栽培を奨励した」という記述がよく出てきますが、蕃薯考はそれに一役買った本なのですね。
サツマイモの歴史や青木昆陽の人物像と合わせて見て参りましょう。
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紀元前に中南米で栽培 日本へは江戸期に
まずはサツマイモの伝来から見てみましょう。
この植物は、まだ「さつまいも」と称されるよりもずっと前から、栽培されていました。
起源は、紀元前8,000年~10,000年前頃の中米~南米あたり。
それが15世紀になって、コロンブスにより新大陸からヨーロッパに持ち帰られます。
その流れでフィリピンにも渡り、後に中国へ、さらには宮古島へ伝わり、沖縄本島や種子島でも作られるようになります。
とはいえ、当時は今のように空の便で繋がっているわけではありませんでしたから、それぞれの島には別々に中国から持ち込まれたようです。
宮古島では、さつまいもの神様が祀られている場所がいくつかあるそうで。
江戸時代に入ってからは、島津忠恒(初代薩摩藩主)が琉球に兵を出した際、薩摩に持ち帰っています。
その後、ポルトガル人も持ち込み、薩摩での栽培が始まりました。
以来、宮崎や長崎、京都などの西日本に少しずつ広まっていき、吉宗が将軍になった頃には、西日本で救荒作物として認識されていたようです。
米が育たん!? だったら芋は?
吉宗は、享保の飢饉の教訓で「米ばかりには頼れない。米が育たないときでもとれるような作物を探さなければ」と痛感していました。
そこに昆陽が『蕃薯考』を上申したのです。
「上様、西のほうではこんな芋を栽培して飢饉をしのいだそうでございます」(※イメージです)
昆陽はこの時点では半分浪人・半分学者というような感じでしたが、大岡忠相など数人の奉行たちと知り合いだったことで、幕府にツテができ、将軍に本を献上することができました。
蕃薯考を読んだ吉宗は我が意を得たり。
早速「関東でも作れるように実験せよ」と命じます。
最初は小石川御薬園(現・東大大学院理学系研究科附属植物園)や現在の千葉県幕張付近で栽培が試みられ、昆陽は一年ほどで見事に栽培を成功させました。
この功で幕臣に召し抱えられ、正式に忠相の配下となります。大出世ですね。
昆陽はその後、幕府で古文書の調査を行ったり、オランダ語を習得したりしていました。
弟子には、杉田玄白とともに『解体新書』を表した前野良沢がいます。
昆陽を現代で置き換えるとすれば、「中途入社で見事役職を勝ち取った元フリーター」みたいな感じでしょうか。
現代でもこういう就職の仕方ができればいいんですけどねぇ。ともかく……。
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