享和3年(1803年)10月17日は前野良沢が亡くなった日です。
良沢と言えば『解体新書』――杉田玄白らと共に作り上げた『ターヘル・アナトミア』の翻訳書で知られますが、
小中学生の歴史の授業では、インパクトありすぎる骸骨の絵や杉田玄白の肖像画に目を奪われがちかもしれません。
しかし、前野良沢を“地味“という枠でくくるのはもったいない。
実は非常に個性的なキャラクターであり、『解体新書』が世に出されたのは、彼の尋常ならざるオランダ語の習得があったからこそ。
あまりに熱心すぎるため、藩主から「蘭学の化け物」とからかわれると、自身の号を「蘭化(らんか)」とした程ですし、大河ドラマ『べらぼう』の舞台と同時代に生きた人でもあります。
では、いったい前野良沢とはどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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医者の家に生まれ 中津藩医となる
前野良沢は享保8年(1723年)、福岡藩江戸詰藩士・源新介の子として誕生しました。
杉田玄白より10歳上であり、不幸にも幼くして両親を失い孤児となった彼は、母方の大叔父であり医者である宮田全沢に養われます。
生まれながらにして医学への道のりが敷かれていた良沢は、1748年(寛延元年)、中津藩の医師・前野家の養子となりました。
前野家は、宮田全沢の妻の実家にあたります。
当時はこうして家が継がれていったもので、石高は200石から300石となりました。
しかし彼のような医者は、日本全国どこにでもいたでしょう。
それがなぜ後世まで語り継がれる特別な存在となったのか?
今までの医学では足りない時代が訪れていた
日本の伝統的な医学は【漢方】です。
ルーツを辿れば、遣隋使や遣唐使のころから伝わってきた中国の医学が元になっています。
しかし時代ごとに伝播の様相も変化しており、中国における医学の発展が、日本には少し遅れてたどり着きました。
これは朝鮮半島でも同じような状況であり、中世まで日中韓の独自性はそこまでありません。
変化を遂げるのは16世紀に入ってからのことで、朝鮮では許浚(きょしゅん / ホ・ジュン)、日本では曲直瀬道三が独自の東洋医学を確立させてゆきます。
とはいえ中国からの影響は避けられず、特に薬草は重要な輸入品目でもありました。
当時の中国を支配していた明朝では、貨幣として流通していた銀が不足。
日本とアメリカ新大陸から大量に輸入されていて、明から清に王朝が交替しても、この経済の流れは変わりません。
そのため日本に薬草が入るのと引き換えに、大量の銀が流出していたのです。
とはいえ、日本の銀だって無尽蔵ではない。
そこで、外貨流出を防ぐため、改革に取り組んだのが徳川吉宗でした。
当時の日本は、万病に効能のある朝鮮人参を大量に輸入していました。
これを国内生産すれば外貨流出に歯止めがかかる――そう考えた吉宗は、朝鮮半島と中国大陸の狭い高山地域にしか自生しない朝鮮人参の栽培に取り組み、これを成功させたのです。
名医・小川笙船を抜擢し、小石川養生所を作り、育てた薬草を全国に広める。
この【享保の改革】で、日本の東洋医学はひとつの頂点に達したといえます。
しかし、頂点に達するということはそれ以上に打つ手がないということでもあり、江戸期の医学を描いたNHKドラマ10『大奥』シーズン1のラストも、まさしくここで行き止まりに直面していました。
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