前野良沢

前野良沢/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

「蘭学の化け物」と称された前野良沢『解体新書』翻訳者の知られざる生涯とは?

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医師たちは西に目を向けた

行き詰まりを打破するにはどうすべきか。

他に何か取り組むべきではないのか。

そう考え始めた医師たちは西洋に目を向け始めます。

長い海禁政策のもと、西洋との行き来は“悪”とされてきた江戸時代の人々ですが、それでもオランダという国とだけは行き来ができている。

医師同士のネットワークでは『どうやら西洋には東洋にはない治療法がある……』という噂だけは広まっていました。

好奇心旺盛な医師にとっては、このモヤモヤを解消したい。

むろん、頭の中で悩んだところで同じ志の仲間がいなければ心もとないし、長崎までは足を運ぶだけでも大変です。

ところが、です。前野良沢には好条件が揃っていました。

寛保2年(1743年)頃、同じ藩の知人を通して、オランダ書物の切れ端を見せられたのです。

途端にオランダ語への興味が湧いてくる良沢。

晩年の青木昆陽に師事する機会にも恵まれました。

青木昆陽/wikipediaより引用

さらに中津藩医として、主君の参勤交代にともない中津へ下向すると、ここで100日ほどの長崎留学の機会を得たのです。

良沢は、熱心にオランダ語を学びました。

そして、この留学時に西洋医学の解剖書である『ターヘル・アナトミア』を入手したのです。

 

『ターヘル・アナトミア』翻訳に挑む

同じ頃、前野良沢の後輩である杉田玄白も『ターヘル・アナトミア』を手に入れていました。

なんということだ……我々の学んでいた臓器とは異なるではないか!

医者の間には、そんな驚愕があったことでしょう。

東洋医学は内臓を五行説と結びつけて考えてます。精細な解剖図はなく、理論先行となってしまうため、実態に沿わないという欠点がありました。

嗚呼、どちらが真実なのか。

こうなったら腑分け(人体解剖)をして実物を確かめたい!

そう熱望していた杉田玄白に機会が訪れます。

明和8年(1771年)、小塚原刑場にて、腑分けをできることになったのです。

心の広い玄白は「独り占めはよろしくない」として、各方面の医者たちに知らせると、その中に前野良沢もいました。

といっても良沢は玄白にとって一回り以上の先輩であり、そこまで親しくもない間柄です。

玄白は、待ち合わせ場所の茶店にいました。そこへ良沢がやってきて、懐から蘭書を出します。

「去年、長崎で手に入れた蘭書なのだが……」

「あっ、それは!」

本を見てびっくり! 同じ本、同じ版ではありませんか!

手を叩いて感激した二人。

こうして腑分けに立ち会うと『ターヘル・アナトミア』の実に正確な描写に舌を巻きました。

感激した医者たちは決意を固めます。

この蘭書を翻訳するぞ!

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