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【前野良沢】
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蘭学の化け物として『解体新書』を世に出す
こうして翻訳を始めるうちに、杉田玄白は前野良沢のことをしみじみ奇人であると感じました。
良沢が語った大叔父・宮田全沢がまず変人です。
「いいか、世の中には廃れるものがある。こういうことこそ習い覚えて、後世に残すのだぞ」
良沢はその教えを実践し、例えば一節切(ひとよぎり)という笛も熱心に習いました。尺八のような楽器であり、実際の音色は以下の動画よりお試しください。
人のやらないことをあえてやる――そんな志があった良沢ですので、世の中を先取りする『ターネル・アナトミア』の翻訳も、その一つだったのでしょう。
良沢はオランダ語も熱心に習得しました。
そのせいで「職務怠慢ではないか?」と、主君の奥平昌鹿に訴える者もいたほどです。
しかし、良沢は主君に恵まれました。
「治療もむろん責務であるが、後世、有益になる医学知識を残すこととて、仕事といえるのだ。それにあれは変わったところがある。好きなようにさせておきなさい」
この奥平昌鹿という中津藩主は革新的な人物で、医学書を買い、捺印したうえで良沢に与えたこともありました。
NHKドラマ『風雲児たち』では、栗原英雄さんが奥平昌鹿を演じていましたね。
名君の下であればこそ、前野良沢は大事を成し遂げることができたともいえる。
良沢は後に「蘭化(らんか)」と自称するようになりますが、これは主君の昌鹿がこう呼んだことに由来します。
「まことに前野良沢は、蘭学の化け物であるのう」
戯れにそう呼んだものでありながら、真実を突いているでしょう。
強烈な粘り強さ、修練、一日たりとも怠らぬ努力――このオランダの化け物がいたからこそ、3年5か月を費やし、安永3年(1774年)『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』は生まれたのです。
しかし、完璧主義者で『解体新書』の翻訳に十分納得ができなかったのか、出版時に前野良沢の名前は出されることはなく、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周のみが知られました。
前野良沢の業績は、玄白が『蘭学事始』に記したことで世に広まったのです。
そして享和3年10月17日(1803年11月30日)、娘の嫁ぎ先である医師・小島家で没しました。
享年81。
晩年は中風に悩まされるも、蘭学への熱意は持ち続けていたと伝わります。
後世に残った業績と顕彰
幕末の中津藩に、西洋への興味関心を強く抱く武士が出てきます。
あの福沢諭吉です。
この頃はさらに時代が進み、オランダ語だけではなく、英語も学ばねばならないと悟った福沢諭吉。
幕臣として歯がみしながら、倒幕の情けない顛末を見届けると、彼は教育者として明治を生きることとなります。
そんな福沢は、同郷の偉大なる先人である前野良沢の顕彰を進めました。
好奇心。
集中力。
根気。
様々な美点を持った先人がいたからこそ、日本の今の姿はある。
その業績は医学のみにとどまらず、日本を先に進めた。
そう讃えたのです。
確かに前野良沢は時代を先んじた人物でした。
幕府が海禁政策をとったところで、藩主の裁量次第であり、奥平昌鹿のような主君がいれば扉は開かれました。
この流れは幕末において大きく歴史を動かします。
【幕末の四賢公】も、西洋に対する目が開かれていました。
良沢が高山彦九郎と親しかったことも興味深いところです。
変人としてだけでなく、大志ある人物とされていた彼は、志士のロールモデルとなった。薩摩藩士・有馬新七は「今高山彦九郎」と呼ばれていて、それが自慢の種でもありました。
前野良沢の弟子である司馬江漢は、西洋画の技術を取り入れた絵師として名を残しました。
同じく弟子の大槻玄沢は蘭学者と翻訳者として、様々な業績を残しています。
幕末へと向かう時代の中、その魁となった人物の一人として、前野良沢はやはり特別な存在と言えるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
杉田玄白著/片桐一男訳『蘭学事始』(→amazon)
片桐一男『杉田玄白 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
他