1841年11月9日は、イギリス国王エドワード7世の誕生日です。
彼は、ヴィクトリア女王という一等星のもとに生まれ、そして厳しく育てられた王でした。
「バーティ」という愛称でも知られますが、偉大な母や品行方正な父と比べられると、どうしても素行の悪い面が目立つ存在。
しかし、その生涯には興味深いエピソードもあり、捨て置けない人物だったりします。
一体どんな方だったのか?振り返ってみましょう。

エドワード7世の肖像画/wikipediaより引用
小さい頃からスパルタ教育で褒めてもらえず
エドワード7世は、ヴィクトリア女王と王配アルバートの第二子として生まれました。
上にいたのは姉一人だけでしたので、両親は「父のような聡明な男性に育ちますように」という願いを込めて、「アルバート・エドワード」と命名。
その割に後々の王名が「エドワード」な理由については、記事の後半でお話しします。

幼い頃のエドワード7世/wikipediaより引用
1840年代は、両親が王室外交に力を入れていた時期でしたので、エドワード7世も幼い頃からさまざまな王侯に会っています。
一例をあげると、1844年にロシア皇帝ニコライ1世が訪英した際、当時2歳のエドワード7世にロシアで一番エライ勲章を与えられていたりします。
おそらく本人は覚えていなかったでしょうけれども、母ヴィクトリアは叔父のレオポルド1世への手紙で「坊やは誇らしげにしていた」と記しているため、子供らしく喜んでいたことがわかります。かわいい。
幼いうちは王室で厳格な教育を受け、英語はもちろん、ドイツ語やフランス語をマスターしました。
この時代のイギリス王室はハノーヴァー朝=ドイツ系であり、父アルバートの出身もドイツでしたので、両親の間ではドイツ語で話すこともあったとか。
それを聞いていたエドワード7世も、勉強として教わる他にドイツ語を耳にする機会が増えて、自然と覚えていったのでしょうね。
成長した後の彼は自ら各国に赴くようになるのですが、早いうちにマルチリンガルになっていたからこそ、ハードルが低かったのかもしれません。
しかし、将来を期待されすぎたのか、エドワード7世はかなり厳しくしつけられたといわれています。
イギリス王室は基本的に長子相続でしたので、ヴィクトリアとアルバートの間に男子が生まれなければ、優秀な長女ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)が次代の王になることもありえました。
ですがそれだと女系相続となり、二代続けて王朝が代わることになってしまいます。

ヴィクトリア女王とアルバート一家/wikipediaより引用
また、外交上の理由もあって、エドワード7世が生まれた時点で「王太子」は彼の称号になっていました。
そんなわけで、謹厳実直な両親はエドワード7世を世界に恥じない王にするべく、厳格な教育をしたのです。
ですがエドワード7世には堅苦しすぎたらしく、この後さまざまな形で反発します。
「あなたの息子に生まれたかった」
1855年8月、エドワードは両親とともにフランスを訪問しました。
当時のフランスは一時的に帝政が復活しており、ナポレオン3世が皇帝を務めていた時期です。
彼にはまだ子供がいなかったこともあってか、エドワード7世を可愛がり、自ら御者を務めて馬車に乗せてくれました。
優しくしてくれた皇帝に深く感謝し「あなたの息子に生まれたかった」とぼやいた程だったようで。

ナポレオン3世/wikipediaより引用
ナポレオン3世がどんなリアクションしたのか、気になりますね。「思春期の少年がよその家の子になりたがる」というのは現代でもままある話ですけれども、なんとも切ないですね……。
エドワード7世の場合は将来の重責がのしかかっているわけですが、「皇帝の息子になりたい」と言ったからには、君主になること自体は嫌ではなかったのかもしれませんし。
この発言の真意が
両親が嫌い>>>>君主の重責
だったとすると、さらに切ないですよね。
大学デビューで両親を困らせる
エドワード7世の願いは叶えられることなく帰国し、厳格な教育は続きます。
1859年10月にオックスフォード大学に入れられ、学寮クライスト・チャーチに入って両親の手元を離れました。
しかし学問にはあまり身が入らず、女性との交際や酒、悪い遊びに没頭してしまうようになります。
両親は頭を悩ませましたが、学生時代から周囲の人には人気があったようです。
「素行はアレだが人間的には魅力がある」というのは、エドワード7世にとって大伯父にあたるジョージ4世とも共通しますね。

ジョージ4世/wikipediaより引用
オックスフォード在学中の1860年7~11月にはカナダやアメリカを訪問しているので、あまり腰を落ち着けて勉強する感じではなかったかもしれません。
アメリカ独立後にイギリスの王太子が来訪したのは史上初めてのことで、両国の関係が改善するきっかけになりました。
1861年にはイギリス陸軍に入隊して短期訓練を受け、同年10月にケンブリッジ大学へ転校したが、素行は相変わらずだったようで。
軍でのストレスもあったのかもしれませんけれども、やはり限度はあるでしょう。
どちらかというとケンブリッジのほうがよろしくない友人が多かったらしく、学則違反をたびたびやらかし、大学から父のアルバートに苦情が届いたこともありました。
アルバートはケンブリッジ大学の総長も務めていたため、示しがつかないやら恥ずかしいやらで、さらに胃を痛めてしまっています。
エドワード7世が大学に入る前に長女ヴィッキーがプロイセンへ嫁いでいき、アルバートは気落ちしていたともいわれているため、二重にダメージが加わったようです。
父の死と母との軋轢
体調を崩しながらも、アルバートは公務をこなし、そしてエドワードを真っ当に戻そうと駆け回りました。
そして1861年12月の冷たい雨の中、エドワード7世を直接叱るためにケンブリッジへやってきます。さすがに体調不良をおしてやってきた父の言うことを聞きました。
しかし、そこで気力が尽きてしまったのか。ウィンザー城に戻ったアルバートは倒れ、同年12月14日に息を引き取ってしまいました。

晩年のアルバートとヴィクトリア女王/wikipediaより引用
最愛の夫をあまりにも早く亡くしてしまったヴィクトリアは、
「アルバートがこんなに早く亡くなってしまったのは、あのドラ息子のせい!そんな奴に仕事を任せるなんてとんでもない!!」
と思いこみ、この後エドワード7世を遠ざけ、公的な役割をなかなか与えませんでした。
その象徴ともいえるのが、1862年に撮られたとある写真です。
エドワード7世がアルバートの胸像の前に座ったヴィクトリアと妹アリスを撮ったものなのですが。
この写真でアリスは正面=エドワードのほうを見ている一方、女王は胸像をまっすぐ見つめ、全くカメラの方を向いていません。
左手には結婚指輪らしきものも見えており、夫への愛と同時に息子への憎悪が伝わってくるようです。
結婚と女性関係
王族同士かつ母子ですから、二人は全く関わらないというわけにもいきません。
1862年になると、首相パーマストンから女王へ「王太子殿下のお妃選びを始めてもよろしいのでは?」と打診がありました。
ヴィクトリアも「身を固めさせれば、いくらか素行が良くなるかも」と考え、首相に一任。
選ばれたのはデンマーク王女のアレクサンドラです。
当時オーストリアの皇后エリーザベト(愛称シシィ)と並び称されるほどの美女でした。
この時代になると写真があるので、現代人の我々も彼女たちを見比べられますが、本当に二人ともどちらが勝るとも劣らない美貌です。
あえてどちらかに分類するとすれば、アレクサンドラのほうが綺麗系、エリーザベトのほうが可愛い系でしょうかね。

アレクサンドラ・オブ・デンマーク(左)とエリーザベト/wikipediaより引用
両親の際と同様に、ベルギー王レオポルドがお見合いを取り計らってくれ、ベルギーでヴィクトリアとエドワード、そしてアレクサンドラは顔を合わせました。
当人たちにも女王にも異存はなく、お見合いから半年後の1863年3月10日にウィンザー城で結婚式が執り行われ、エドワードは一家の主となって自らの宮廷を構えることになりました。
二人の間には3男3女が生まれたものの、エドワードの女性関係については生涯変わらなかったので、アレクサンドラは深い悲しみを抱えて過ごしています。
エドワードにとっての大伯父・大叔父(ヴィクトリアの伯父・叔父)たちも女性関係がアレだったので、隔世遺伝みたいなものなんでしょうか。
アレクサンドラには非がないので、実に気の毒なことです。
「エドワードはアレクサンドラが結婚前に行っていた首の手術跡を嫌い、愛情が冷めてしまったのだ」という俗説もありますが……「その割に子供6人も作るんかい」という気もします。
子供が早世する懸念を考慮したとしても、そこまでしなくていいような。
政治に関与させてもらえない王太子
結婚を機に、エドワード7世には貴族院議員や枢密顧問官などの地位が与えられました。
しかし、女王の態度は相変わらず。
ヴィクトリアは毎年恒例だった議会の開会式への参加もしなくなり、夫との思い出の地であるワイト島のオズボーン・ハウスに引きこもってしまいました。

ヴィクトリア女王/wikipediaより引用
彼女は決してサボっていたわけではなく、そこで政務をしていたのですが、目立つ場に出てこないため
「女王はいつまで喪に服しているんだ?」
「仕事ができないなら、王太子を摂政にすればいいじゃないか?」
「仕事をしない王室なんて何の意味がある?」
と、世間からは批判の嵐。
もともとヴィクトリアには「一度嫌った人物について後々まで引きずる」という傾向がありました。
アルバートの生前は彼がその人物との仲立ちになって女王を説得し、うまくいくというケースが度々ありましたが、その夫がいなくなり、同じ役割をできる人もおらず、「日にち薬」しかないような状況に陥ってしまいます。
ヴィクトリアは優秀な長女・ヴィッキーとエドワー7世を何かと比較し、「無能」「出来損ない」と言って嫌っていた上に、前述の理由もあるので、溝が深まる一方。
1863年11月にはアレクサンドラの父がクリスチャン9世としてデンマーク王になっていたため、エドワードは「イギリス女王の長男であり、デンマーク王の婿」という立場になっていました。
それでいて政治を担えないというのは相当にストレスが溜まり、肩身が狭く感じたことでしょう。
アレクサンドラも夫の浮気に加えて政治的な立場までこれでは、相当辛かったでしょうね。
こうなると、エドワードは役職が必要ない仕事をもらって、最低限の役割を果たすしかありません。
デンマーク王の代替わりに伴って、大陸ではデンマークとプロイセンの間にあったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の継承問題を巡った争いが起きかけていました。
本来イギリスは関係なかったのですが、エドワード7世は妃の実家が関わっていることもあって、デンマーク寄りの態度を取りました。
そして「なんならイギリスとデンマークの連絡役を務めよう」と政府に相談。
これも女王に止められてしまっています。
というのも、プロイセンはヴィクトリアの長女であり、エドワード7世の姉でもあるヴィッキーの嫁ぎ先だからです。
イギリスはどちらかに偏りすぎた態度を取るわけには行きません。
エドワード7世が動くとすれば、姉と連絡を取って母やイギリス政府と連携し、あくまで中立な立場から穏便に事を収められるように計らうことだったでしょうか。
ヴィクトリアとしてはエドワード7世が政治や外交に口を出してくるのは面白くなかったでしょうけれども、彼も少しずつ成長していました。
上記の問題とほぼ同時期の1860年代に、アルバートの馬の世話係だったジョン・ブラウンがヴィクトリアに仕えるようになっていました。
侍医が乗馬や馬車での外出を勧めたため、その仕事に慣れている彼に話が回ってきたのです。
しかしジョンはスコットランド人だったことからそちらの訛りがあり、酒癖が悪く、貴族社会での評判はよくありませんでした。
アルバートの思い出話もできたからか、ヴィクトリアはジョンを使い続けました。
そこで新聞はゲスな勘ぐりをし、女王のことを「ミセス・ブラウン」とあだ名したのです。これをテーマにした映画もありますね。
エドワード7世もジョンの悪評に耐えかねて、彼を罷免するよう母に願い出たことがあったのだとか。
ほんの数年前には父に素行を叱られていた彼が、母の側近の言動に眉をひそめたのですから、これは成長と言っていいでしょう。
ヴィクトリアとしてはやましい理由でジョンを取り立てていたわけではなく、息子への嫌悪も引いていなかったので、容れられませんでしたが……。
少しずつ外交に関わる
こうして内政には携わらせてもらえなかったエドワード7世。
持ち前の社交性や語学を活かし、王室外交の場では才能を発揮していきます。
特にヴィクトリアが警戒していたロシアとの関係においては、エドワード7世やすぐ下の弟・アルフレッドが結婚を介して改善に努めました。
1866年、エドワード7世にとって義妹にあたるデンマーク王女ダウマーがロシア皇太子アレクサンドル(3世)に嫁ぐことになりました。

アレクサンドル3世/wikipediaより引用
エドワード7世は女王の反対を押し切ってサンクトペテルブルクへ直接お祝いに行き、大歓待を受けています。
そして翌1867年にパリで万博が行われた際、エドワード7世は母に
「前年の歓待に対する答礼として、ロシア皇帝にガーター勲章を差し上げるべきです。奉呈役は自分が務めます」
と申し出て、渋々ながらに了承を得ました。
さらに、1873年7月にはエドワード7世のすぐ下の弟・アルフレッドがアレクサンドル2世の娘・マリアと結婚し、英露の関係がより深まります。
ロシア皇帝が「マリアをロシア皇女として扱い続けること」や宮廷での席次を王太子妃アレクサンドラよりも上にするようゴリ押ししたため、王室内での評判はよくありませんでしたが。
特に”的”になってしまったアレクサンドラは激怒し、マリアとずっと険悪な仲でした。
アレクサンドラの妹・ダウマーがマリアの兄・アレクサンドル3世に嫁いでいましたので、デンマーク-イギリス-ロシアそれぞれの王家の繋がりは保たれています。
腸チフスで重体に
少し時系列が前後しますが、1871年1月にエドワード7世は大きな試練と直面しました。
かつて父の命を奪った腸チフスにかかり、重体になってしまったのです。
日頃は散々な言いようをしていたヴィクトリアもさすがに心配し、エドワード7世が滞在していたノーフォークシャーのサンドリンガム・ハウスに駆けつけました。
王太子妃アレクサンドラやその他側近もともに看病しましたが、病状はなかなか良くならず、周囲も気が気でない状態が続きます。
この頃も喪に服し続けるヴィクトリアに対して、世情の声は厳しいままでした。
しかし、王太子の重病にはさすがに論調を緩め、町の教会でも王太子の回復祈願が行われていたといいます。
そしてアルバートの命日である12月14日にエドワード7世の意識が戻り、女王も新聞各社も「奇跡だ」と大喜び。
その後エドワードは急速に回復し、クリスマスも無事に家族で迎えることができました。
ヴィクトリアもこの年は王太子一家とクリスマスや年末を過ごしたといいます。
1872年2月、ときの首相グラッドストンの発案により、セント・ポール大聖堂で王太子の回復記念礼拝が行われました。
市民や名士たちはもちろん、旧知の仲であるナポレオン3世夫妻も参加してくれたそうです。
このときどんな会話をしたんでしょうね。
ヴィクトリアにとっては「市民が王室を重視している」ことを再確認する契機にもなりました。
夏はスコットランドのバルモラル城、冬はワイト島のオズボーン・ハウスで過ごし、それ以外はウィンザー城やバッキンガム宮殿で政務をするようになったのです。
本当にアルバートが妻や息子を助けに来たのかもしれませんね。

バッキンガム宮殿/wikipediaより引用
外交の要として
ヴィクトリアもエドワード7世の社交性や外交の才について、ほんの少し見直してくれるようになりました。
1875年にエドワード7世がインド訪問を願い出たとき、女王はこれを承諾。
ちょうど彼の誕生日である11月9日に現在のムンバイに到着し、母の名代としてインドの王たちに勲章を授与したり、インド軍の閲兵を行ってまわりました。
また、公務から離れたところではヒマラヤ山麓で虎や象狩りを楽しんでいます。輿の付いた象に乗っている写真もあり、エンジョイしていたようです。

インドで象に乗るエドワード/wikipediaより引用
帰国の際は動物好きな妃アレクサンドラへの土産も兼ねていたのか、東洋の動物を多く連れ帰ったそうです。
王太子が歓迎されたことによってインド統治が成功していることを確信したヴィクトリアは、「インド女帝」と名乗るための法律を議会に通し、皇帝の一員となりました。
これで国際序列上では上とされていたロシア皇帝やドイツ皇帝とも並び立てます。
エドワード7世には伝えられておらず、彼にとっては寝耳に水だったそうですけれども……。
この時点でも大事なことを相談してもらえない、というのは息子としても王太子としても辛かったでしょうね。エドワード7世としてはなんとか責務を果たそうと考えていたフシがあります。
1881年にエジプトで起きたオラービーの乱では従軍を希望したのです。
王位継承者であることや、指揮能力が疑問視されたために許可が出ませんでしたが、代わりに陸軍での指揮経験があった弟・アーサーが出征し、軍功を上げてヴィクトリアを喜ばせています。
アーサーの名前は、ナポレオン戦争の英雄であるウェリントン公アーサー・ウェルズリーから取られたものだったため、母として鼻が高かったようです。
同年3月にはロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺され、女王の名代としてエドワード7世がサンクトペテルブルクに赴き、葬儀に出席。
もしもエドワード7世がエジプトで従軍していたら、こちらの役割は果たせなかったと思われますので、本人の素質的にもよかったかもしれません。
1887年にヴィクトリアの在位50周年記念を祝うゴールデン・ジュビリーが執り行われ、エドワード7世も乾杯の音頭を取るなど祝福に加わりました。
また、このときエドワード7世の息子であるアルバート・ヴィクターとジョージはアイルランドに渡り、祖母や父に代わって記念式典を行いました。
華々しい実績ではなくても、外交や国内でのエドワード7世や息子たちの存在感は徐々に増していたといえます。
ニコライ2世とジョージは激似
翌1888年は、エドワード7世にとって多忙な年となりました。
3月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御し、ベルリンでの葬儀にアレクサンドラと参加、直後に銀婚式を迎えました。
同年6月にはヴィルヘルム1世の跡を継いだフリードリヒ3世が崩御し、再びベルリンで葬儀に参加しています。
フリードリヒ3世はエドワード7世の姉ヴィッキーの夫ですから、彼にとっては義兄でもありました。
さらにこの間4月頃から、かの有名な「切り裂きジャック」(事件名は「ホワイトチャペル殺人事件」)が起き始め、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターが疑われていた時期もありました。
これに対するエドワード7世の反応は分かりません。耳に入ったとしても聞き流していたのでしょうかね。
さらにさらに同年10月には、ヴィッキーの息子ヴィルヘルム3世にウィーンで会おうとして断られ、母とともに激怒しています。
ヴィルヘルム3世は矜持の高い人物で、オーストリア皇帝と会うことを優先したために断ったようです。
どうも彼は「理屈は正しいが立ち居振る舞いで反感を買う」というタイプの人だったらしく、この件以外でもいろいろと「おいおいおい」という言動をやらかします。
翌1889年8月にヴィルヘルム一家がオズボーン・ハウスを訪れ、和解はしています。
同じ頃、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターがインドを訪問し、次次代の王として育ちつつありました。
彼も成人していたため、1891年にはヴィクトリアのいとこの娘メアリーと婚約。しかし結婚式の直前、彼はインフルエンザから肺炎を起こして1892年1月14日に亡くなってしまいました。
挙式前に未亡人となってしまったメアリーをエドワード7世の次男ジョージが支え、1893年に結婚する運びに。
この式にはジョージとそっくりなロシア皇帝ニコライ2世も参列し、ヴィクトリアが二人を時々間違えるという愉快なハプニングもありました。
二人が並んだ写真もあるのですが、本当にそっくりで現代人でも笑ってしまうほどです。

ジョージ5世とニコライ2世/wikipediaより引用
エドワード7世の反応はハッキリ伝わっていないものの、訃報の相次いだこの数年間で、数少ない笑顔のひとときだったでしょうね。
数奇な運命で結ばれた二人でしたが、ジョージは一途にメアリーを愛し、愛人も作らず温かい家庭を築きました。
彼らの長男がのちに「王冠を賭けた恋」で有名なエドワード8世です。
良い家庭で育ったからこそ、愛を最優先にしたのでしょうかね。

エドワード8世/wikipediaより引用
その頃には当然エドワード7世はこの世を去っていますが、一途に一人の女性を愛した息子や孫のそばで頭をかいていたかもしれません。
また、ジョージとメアリーの次男がのちのジョージ6世であり、その娘がエリザベス2世です。
だんだん現代に近づいてきますね。
グラッドストンへの感謝
話をエドワード7世に戻しましょう。
政治的に何かしようとすると母に頭を押さえつけられる事が多かったエドワード7世ですが、密かに見方もいました。
ヴィクトリアとたびたび対立していたウィリアム・グラッドストンです。
彼はいつまで経っても女王から政治を学ばせてもらえないエドワード7世に同情し、女王には内緒で重要な書類を見せてくれていました。
1892年にグラッドストンがうっかり口を滑らせて女王にバレてしまったのですが、この時点でエドワード7世も50歳を超えていたため、大きな問題とはならずに済んでいます。
ヴィクトリアも随分丸くなった感がありますね。
そんなわけで、エドワード7世はグラッドストンに深く感謝しており、1898年に彼が亡くなった際は率先して国葬に参加し、息子のジョージとともに棺の付添人を務めました。
女王はグラッドストンのことも嫌っており、国葬であるにもかかわらず参加せず、グラッドストン夫人への弔電だけで済ませていました。
しかし、エドワード7世が参列したため、世間の論調は穏やかだったようです。
母との和解?
1897年にはヴィクトリアの在位60周年記念「ダイヤモンド・ジュビリー」が執り行われることになりました。
このときドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が参加したがりますが、ヴィクトリアはすっかりこの孫を嫌いになってしまっており、エドワード7世も同意見でした。
母子の意見が一致した珍しい出来事です。
女王はダイヤモンド・ジュビリーを「大英帝国の祭典」にしようと考え、自分の親族とイギリスの支配下にあったブリテン島・インド・カナダ・オーストラリア・香港の人々を一堂に集めて、今一度連帯感を強めることにします。
この方針のもとに各国の君主の参加は丁重にお断りし、代わりに後継者たちを名代としてくれるよう伝えて、ヴィルヘルムの参加を穏便に断ることができました。

ヴィルヘルム2世/wikipediaより引用
とはいえヴィルヘルムは個人的には祖母を慕っており、この後1901年にヴィクトリアが危篤になった際は駆けつけ、自ら体の向きを変える手伝いまでしています。
不器用さについては、エドワード7世と通じるところがあるような、ないような。
頑なだった女王も少しずつ柔らかくなっていき、1900年には39年振りにアイルランドへの公式訪問を決めました。
当時行われていた南アフリカ戦争(ボーア戦争)でアイルランド兵も立派に役目を果たしていたこともあり、態度を和らげたようです。
エドワード7世も賛成し、現地でも大歓迎されましたが、81歳となった女王にはかなりの負担でもありました。
1901年に入るといよいよヴィクトリアの容態は悪化し、ほぼ寝たきりに。
もちろんエドワード7世も駆けつけています。
1月22日に彼が母の枕元ですすり泣いていると、ヴィクトリアが目を覚まし、愛称の「バーティ」と呼んだのが最後の言葉となったそうです。
「誰もが父を思い出すようにしたかった」
偉大な母の跡を継ぐエドワード7世。
いつまでも泣いてはいられず、最初の仕事として王名選びにとりかかります。
冒頭で述べた通り、彼の名前は正式には「アルバート・エドワード」であり、従来の法則であれば「アルバート1世」となるはずでした。
しかし彼は「エドワード7世」を選びました。
「イギリス王室の”アルバート”といえば、誰もが父を思い出すようにしたかった」という理由でした。泣ける。
天国でアルバートもヴィクトリアも喜んだことでしょう。

父のアルバート/Wikipediaより引用
かつてよその皇帝の息子になりたがった「出来損ない」は、きちんと父の偉大さを理解した「イギリス王」になったのです。
エドワード7世は即位後も、自らの得意とする外国語と社交性を活かそうと考えました。
そこで1903年3月、初めての外遊先としてフランスへ向かいました。
当時のフランスは第三共和政で、王室外交が通用しない相手。
しかもアフリカ進出を巡って英仏領国が衝突したファショダ事件などの記憶も新しく、当初エドワード7世は歓迎されませんでした。
しかし、彼にとってパリはナポレオン3世の息子になりたがった遠い昔からの思い出の地です。
文化や人々の気質もよく知っている。
エドワード7世が鮮やかなフランス語でスピーチすると、フランス市民たちは一気に彼を歓迎するようになったとか。
やっぱり魅力的な人なんですね。
これに対する答礼として、フランス大統領エミール・ルーベが同年7月にロンドンを訪れ、植民地に関する両国間の協議を開始することにします。
1904年に英仏協商が結ばれ、これまで歴史上対立することが多かった両国が友好的に結びつきました。
ピースメーカー(平和王)
日本とイギリスの関係が深まったのも、エドワード7世の治世初期のことです。
ヴィクトリア時代にもイギリスは日本の使節を迎えたり、王子が訪日したことがあったため、エドワード7世にもいくらかの知識はあったと思われます。
1901年の12月27日、エドワード7世はクリスマス休暇の予定を取りやめて、訪英中だった伊藤博文と会見する機会を設けました。
彼は親ロシア派とされていましたが、英語で直接話せたこともあってエドワードは警戒を解いたといいます。

伊藤博文/wikipediaより引用
伊藤の帰国後、1902年1月30日に日英同盟が結ばれました。
これは当時のヨーロッパ-アジアの同盟としては珍しく対等な内容で、
「日英どちらかが二カ国以上の相手と戦争になった場合、もう一方も参戦する」
というもの。
1904年の日露戦争で大いに効いてきます。
ときのロシア皇帝ニコライ2世は王妃アレクサンドラの甥(妹の子)のため、エドワード7世は幼い頃からニコライを可愛がっていました。
そうした縁もあって個人的にはロシア寄りだったのですが、あくまで私情よりも同盟を優先し、当初仲介役になろうとしたのです。
そこで起きたのがドッガーバンク事件――ロシアのバルチック艦隊がイギリス近辺を通った際に、誤ってイギリス漁船を砲撃した上、救助も行わなかったのです。

ドッガーバンクの位置/wikipediaより引用
こうなると世論もエドワード7世も一気に反ロシア・親日本に傾くのは当然のことでした。
イギリスは本土はもちろん、植民地でもロシア艦隊への入港や補給を拒否し、バルチック艦隊を大きく疲弊させました。
その結果、日本海海戦では日本が勝利し、日英同盟の延長が決定されます。
日本もイギリスの支援に感謝し、協議の末インドでもイギリスに協力することを約束。
これはイギリスにとっても大助かりで、日本への好感が増したと思われます。
また、エドワードはキリスト教徒以外の王侯に勲章を与えることを嫌がっていましたが、日露戦争後に
「明治天皇にガーター勲章を差し上げては?」
と提案されたときは快く許可を出しました。
これによって1906年にエドワード7世の弟アーサーが訪日し、ガーター勲章を授与しています。
また、エドワード7世は王太子時代に訪米したこともあってか、アメリカとの友好関係を築くことも重視しました。
ときの大統領セオドア・ルーズベルトと文通をし、関係改善に務めています。
経緯が経緯なだけに、イギリスとアメリカの間には複雑な感情がありましたが、トップ同士が良い関係を築いたことで、徐々に近づいていきました。
こうして血縁に頼り切らない外交をしたエドワードは、「ピースメーカー(平和王)」と称えられたのでした。
まさに「忙殺」な最期
しかし、内政に長年携わらせてもらえなかったことが仇となってか、議会の舵取りには難儀しました。
1908年4月に自由党政権が発足。
首相のオックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキスと、財務大臣デイヴィッド・ロイド=ジョージは「軍艦建造」と「労働者向け老齢年金制度の創設」という2つの柱を立てました。
いずれもかなりの経費を必要としたため、高額所得者への所得税や相続税の増額、そして新たに土地への課税で賄おうとします。
が、地主でもある貴族院議員たちから猛反発を受けました。そりゃ増税は誰だってイヤですよね。
下院ではこの予算案が可決されたものの、貴族院で否決されるという結果に。
そのためエドワードが間に入って与野党の話し合いとなり、「議会を解散して総選挙をし、与党側が勝ったら野党も協力する」という譲歩案が出されました。
総選挙の結果は与党が勝利し、野党も約束通り予算案を可決させました。
しかし、アスキス首相は釈然としないものを抱えていました。
「下院で可決した法案が貴族案で否決された」ということは、「大多数の庶民の賛成があるにもかかわらず、より数の少ない貴族たちがそれを否定した」ということ。
今後似たようなことが起きないとも限りません。
そのためアスキスは貴族院の権限を縮小しようと動き始めました、そのためには貴族院で同調者を増やさねばなりません。
今いる貴族院議員たちにその協力を求めても無理なことは目に見えているので、新たに貴族を叙爵して票を確保しようと考えます。
それは流石に無理な話で、エドワード7世もこれを容れる気はありませんでした。
そもそもエドワード7世はこの頃体調を崩しており、1910年3月からフランス南西部へ保養に出かけていたのです。
そこへ貴族院よりも庶民院を重んじることを柱とした改正法案の原案が送られてきましたが、それはあまりにも貴族院議員の反発が予測されるものでした。
「これは自分が間に立たねば収まらないだろう」と考えたエドワード7世は、予定を早めてイギリスへ戻ります。しかし……。
やはり休養が足りず、同年5月6日深夜に息を引き取ってしまいました。
父アルバートと似たような経緯になっているのが、運命の皮肉というか父子というか……。
国王の急逝により議会法案改正は一旦棚上げされ、5月20日に葬儀が執り行われます。
急に王位を継ぐことになった息子のジョージ5世は、父を見送った後この問題に取り組んでいくのでした。
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【参考】
君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王” (中公新書)』(→amazon)
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書)』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
岩波 世界人名大辞典





