戦国諸家

戦国大名の父から息子へ~政宗・信長・家康・謙信から学べる遺訓とは?

戦国武将が一族や家臣に残した言葉や家訓。

過酷な時代を生き抜いた先人だけにその中身には重みがあり、現代にも通用することがある。

そこで本稿では、有名な戦国大名の父(あるいは当人が父として)遺した「言葉」や「もの」を見てみましょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

政宗 涙なしには読めない父からの手紙

伊達政宗と言えば「敵にさらわれた父(伊達輝宗)を自ら始末するよう命じた」なんていう説もあるくらい微妙な父子関係と言われている。

しかし、こんな愛にあふれた書状が残っている。

政宗へ 父より

「若い時は戦略を誤り、また、暴言や失言も吐く。そのような間違いは多いものだ。

しかし、世間の評価や家臣の噂は気にする必要はない。

お前には俺がついている。命をかけてそなたを支えるから、安心して自分の信じるところを突き進め。

覚悟を決めて突き進めば、異を唱える者はなくなるだろう」(大意)

この書状は仙台市博物館に所蔵されている輝宗の自筆の手紙である。

伊達輝宗/wikipediaより引用

佐藤憲一・元仙台博物館長によると「この手紙、焼却するように」とあるとのこと。

しかし、父の思いが詰まった手紙をどうしても政宗は捨てられなかったのだ。

まさしく親の愛は無限――。

きっと片方の目からさめざめと男泣きの涙が流れたことだろう。

 


信長 父を反面教師に親衛隊結成

父の葬儀で位牌に抹香を投げつけた逸話で有名な織田信長とその父・織田信秀の関係やいかに?

信長は、父が家臣団と緩い主従関係しか結ばなかったため苦労したことを反省。

赤母衣衆(前田利家)や黒母衣衆(佐々成政)などの近衛兵を養成して、みずからのまわりを固めた。

それが「カリスマ化」路線にもつながるのだろうが、では父は「負の遺産」しか遺さなかったのだろうか?

織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

戦国・幕末の研究者で作家の桐野作人さんは

「織田信秀が信長に残した最大の遺産が信長と帰蝶(濃姫)との縁組である」

と指摘する。

濃姫とは斎藤道三の娘で、この縁組により尾濃同盟が成立。

平手政秀の尽力もあったとされ、父は自分が他界後も「厳父」を遺したといえるだろう。

織田信長/wikipediaより引用

さて次は父として「何を遺したか?」についても見ていこう。

天下人を適任者に譲るということは、もしかしたら天下をとるよりも難しいかもしれない。

源頼朝も、信長も、豊臣秀吉もみなうまくいっていない。

この難業を成し遂げたのが徳川家康である。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・中世・古代・幕末をはじめ、幅広い歴史分野をカバーしつつ、Google Discover 最適化、クラスタ構造にもとづく内部リンク戦略、画像最適化、SEO設計に精通。現在は企業のオウンドメディア運用およびコンテンツ制作コンサルティングも手がけ、歴史 × Web編集 × SEO の三領域を横断する専門家として活動している。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

-戦国諸家

目次