伊達輝宗の肖像画

伊達輝宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達輝宗の生涯|外交名人だった勇将はなぜ息子の政宗に射殺されたのか

2024/10/07

「政宗の父である伊達輝宗をご存知でしょうか?」

こんな質問を投げかけると、多くの戦国ファンの頭に浮かんでくる印象的な場面があります。

捕らえられた父の輝宗を、敵もろとも鉄砲で一斉射殺させる政宗

あまりに衝撃的な展開のせいか、伊達輝宗に関しては「敵もろとも撃たれる人ね」という認識で終わってしまっているようで、実にもったいない……。

息子の政宗があまりにキャラ立ちしているせいか。

父の輝宗が注目されるケースは少ないですが、実際のところ、彼の功績無しに政宗の成功はあり得ませんでした。

では、伊達輝宗とは一体どんな武将だったのか?

天正13年(1585年)10月8日はその命日。

伊達輝宗の肖像画

伊達輝宗/wikipediaより引用

輝宗の生涯を振り返ってみましょう。

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伊達家は奥州のちっぽけな家……ではない

伊達輝宗が大きく注目されたと言えば、やはり1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』でしょう。

渡辺謙さんが主役の政宗を演じ、北大路欣也さんが父の輝宗役。

いかにも豪華なキャスティングであり、大河の代表的な名作とされますが、問題がないわけでもありません。

劇中では、誤解を招く描写も少なくなく、例えば

政宗が羽ばたくまで、伊達家は奥州のちっぽけな家に過ぎない――

といった大きな誤誘導がありました。

実際の伊達家は、ちっぽけな家などではありません。

鎌倉時代から奥羽に睨みを利かせる存在であり、同エリアでは格上の大きな家でした。

そんな歴史の長い伊達家には、「婚姻政策に強い」という特徴があります。

なぜか多産に恵まれ、子供が多数生まれたため、各地の大名に輿入れさせたり、養子を送り込むなどして、影響力を拡大させることができたのです。

ヨーロッパで言えばハプスブルク家のような状態ですね。

しかし、それは奥羽特有の事象でもあり、豊臣政権のもとで全国の大名が東北にやって来ると、彼らは一様に不思議がりました。

「奥羽はなぜみんな親戚同士ばかりなんだ?」

例えばこんな話もあります。

伊達政宗が自分の隣に座ろうとしたとき、蒲生氏郷が、最上義光を優先させながら、政宗にこう言いました。

「おい、何を考えているんだ。伯父より上に座るとはけしからんだろ!」

たしかに義光は政宗の伯父ですし、その関係を利用した氏郷の言いがかりかもしれませんが、政宗としては舌打ちの一つでもしたかったでしょう。

伊達政宗の肖像画

伊達政宗/wikipediaより引用

前述のとおり伊達家は東北中に親戚が散らばっています。

それだけに、ときには合戦も辞さない間柄になり、伯父だからといって問答無用に敬服しなければいけない関係でもない。

本稿では、こうした伊達家の特徴を踏まえながら、伊達輝宗の生涯を見て参りたいと思います。

 


長男は養子に出され二男の輝宗が家督を

天文13年(1544年)9月、伊達郡西山城にて、第15代当主・伊達晴宗の二男が生まれました。

母は久保姫。

幼名は彦太郎で、後に総次郎となりました。

父・晴宗と母・久保姫が結ばれる経緯については、こんな伝説があります。

伊達晴宗の肖像画

伊達晴宗/wikipediaより引用

「岩城重隆に妙齢の姫がいるってよ。笑窪がとてもめんこいらしい……これは攫(さら)ってでも妻にするべ!」

“攫う”とは物騒にもほどがありますが、晴宗が婚礼の行列に乱入し、姫君を奪ったとされます。

事実か否か。真偽の程はさておき、いずれにせよ夫婦は仲が良く、6男5女に恵まれました。

しかも岩城重隆の娘という血統は女系として非常によろしく、夫妻の子には大きな価値がありました。

二人の婚礼に際しては、こんな条件が定められていたのです。

夫妻の間に生まれた最初の男子は「岩城重隆の養嗣子」とする――。

次に男児が生まれてくるかもわからない段階で長男を渡す。

しかも、その長男は岩城家の養嗣子として迎えられるのであり、女系の血統も十分に尊重された証と言えるでしょう。

晴宗が姫君を攫ったという略奪劇も、あくまで狂言か伝承と考えられます。

中世日本は、男系のみならず女系も尊重する【双系制】でした。

特に奥羽は、寒冷な気候の影響もあってか、有力者たちの交代も日本の他の地域より緩慢で、女系重視の傾向はさらに強まります。

そんな前提のもとに生まれた二男は、伊達家世子として育てられてゆきます。

儒教思想が根付いた後世であれば、兄を差し置いて水戸藩主となった水戸光圀のようにコンプレックスの原因となったかもしれません。

しかし当時の日本にそんな考え方はありません。

儒教道徳がまだ根付いていないことも、伊達家を考える上では重要です。

先程の蒲生氏郷による「伯父を敬え」という発想も儒教由来ですが、伊達家ではそうした思考が薄いせいか、父子による二頭体制を取る慣習もあるほどでした。

結果、当然の帰結として親子闘争がしばしば勃発してしまう。

周囲の諸勢力からは

「奥羽を巻き込んでしょっちゅう親子喧嘩している伊達家ね」

なんて噂になっていたそうで、そもそも輝宗が生まれたときも、伊達家の激しい親子喧嘩【天文の乱】の真っ最中でした。

 

父・晴宗を牽制し、磐石の体制を

【天文の乱】とは、伊達輝宗から見て父と祖父が争う父子喧嘩です。

奥羽を睥睨し、かつ親戚が多い伊達家だけに、この争いがこじれにこじれ、天文11年(1542年)から実に6年間も続き、天文17年(1548年)にようやく和睦が締結。

輝宗は家族ともども置賜郡米沢城へ移りました。

そして天文24年(1555年)3月19日、晴宗の叙爵に伴い、11歳で元服。

室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を賜り、このときから輝宗と名乗っています。

足利義輝の肖像画

足利義輝/wikipediaより引用

永禄8年(1565年)には晴宗が隠居して、家督を相続した輝宗が第16代当主となりますが、前述のとおり伊達家は父と子で二頭体制を維持することにご注意ください。

家督相続時の年齢は、輝宗が21歳であるのに対し、隠居出家した晴宗はまだ46歳です。

輝宗といえば、政宗と違って温厚なイメージがあるかもしれません。

ゆえに争いは……結局起きてしまいます。

輝宗もまた伊達氏の宿痾から逃れられず、父の晴宗と対立するのですが、その先の機敏な行動は電光石火の切れ味がありました。

父の晴宗が米沢城の郊外に隠居後の住居を定めようとすると、輝宗はこれを妨害し、晴宗の妻・久保姫と共に信夫郡杉目城へ移らせたのです。

そして、会津の雄たる蘆名盛氏と和睦を結び、妹の彦姫を盛氏の嫡男・蘆名盛興に嫁がせ、何かあれば自分に味方するよう約束を取り付けました。

凡将にはたどり着けない、鮮やかな手口と言えるでしょう。

なお、蘆名との関係は、輝宗の外交活動を考える上できわめて重要な要素であり、詳しくは後述させていただきます。

 

最上家から義姫を娶る

父が去ったあと、米沢城に君臨することとなった伊達輝宗。

そんな若き当主に、出羽の最上義守から縁談が持ちかけられました。

かつて最上家は、輝宗の祖父・伊達稙宗によって、滅びる寸前にまで追い詰められていました。

伊達稙宗の肖像画

伊達稙宗/wikipediaより引用

当主が急死したため、当時幼かった義守が傀儡のように据えられ、伊達家の顔色を伺うような状態に追い込まれていたのです。

しかしその後、伊達家が【天文の乱】で派手な身内争いをしている間に最上家は力を取り戻し、独立勢力としての勢いを戻しつつありました。

だからといって盤石とも言えない実情がある。

最上家としては、伊達家と再び争うような展開は避けたく、長身の美女で才知にも長けていた義姫を輝宗に嫁がせようとしたのです。

大河ドラマ『独眼竜政宗』第1回の冒頭は、この義姫が嫁いでくるところから始まります。

義姫が「暴れ猪を弓で仕留める」という、なかなか衝撃的なシーンでした。

義姫
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そして永禄10年(1567年)8月3日、米沢城で最初の子供が生まれます。

梵天丸と名付けられた男児――後の伊達政宗。

仏教の天部にあやかる幼名が付けられたことから、輝宗の高い教養や信仰心、あるいは我が子への期待もうかがえますね。

名付けはというのは、単純なようで意外と重要です。

例えば、鎌倉時代を舞台とした『鎌倉殿の13人』では、坂東武者たちが「平六」「小四郎」と、実に単純な名前で呼び合っていました。

まだまだ武士の教養は途上であり、その後、徐々に凝った名前となってゆき、輝宗の時代には我が子に「梵天」とまでつけるほど教養が広まっていたと見ることができる。

輝宗は徳の高い僧・虎哉宗乙を招き、嫡男・梵天丸の学問の師としました。

大学などの教育機関が無い当時は、禅僧が最も高い漢籍教養を持っており、梵天丸もこの師に学び、長じてからは漢詩も堂々と詠みこなしています。

「馬上少年過ぐ」で始まる政宗の漢詩「酔余口号」(酔いに任せた思い)は、日本史上屈指の知名度と人気を誇りますが、その文才は、輝宗の教育方針あってこそ培われました。

 


巧みな外交で、奥羽の結束を固める

元亀元年(1570年)1月、そんな伊達輝宗のもとへ、舅の最上義守から助けを求める書状が届きました。

内容は、嫡男の最上義光と対立し、追い込まれているとのこと。

最上義光『長谷堂合戦図屏風』

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用

発端は、家督問題です。

義守が、義光を差し置き、中野義時という弟に継がせようとしたのが原因で揉めたとされますが、実際は義時など存在しなかったのでは?とも指摘されます。

「中野義時」とは、義守本人をさすという見方があり、要は自分が権力を握っていたかったという話ですね。

図式にすると、こうです。

【兄】最上義光
vs
【弟】中野義時 ※実際は最上義守か?

最上家の親子喧嘩に対し、輝宗はどうしたか?

実はこの頃の伊達輝宗は非常に多忙であり、4月には、晴宗派の筆頭ブレーン・中野宗時と牧野宗仲に謀反の疑いありという報告がありました。

【元亀の変】と呼ばれ、異変を察知した輝宗は、相手が動く隙もないほど素早く行動に移し、反乱の芽を摘み取っています。

もしかしたらこの事件は、輝宗が晴宗以来の重臣を排除するためのものだったのかもしれません。

なぜならこれを機に、遠藤基信と鬼庭義直が輝宗の側近として引き立てられ、普段からそばで支えることとなったのです。

ほぼ同時進行で、5月から9月にかけて輝宗は、最上義守救援のため出羽に出馬していました。

しかし、対峙する最上義光陣営の力戦や、多忙な輝宗の事情もあってか、思うような戦果があがりません。妻の義姫が、夫に撤兵を促したともされます。

結果、最上家では義光が勝利し、義守の出家隠居が確定しました。

輝宗と義光の時代到来――この頃の伊達と最上は、義姫を挟んで、安定した関係が築れてゆきます。

フィクションでは、最上義光がやたらと何か企んでいますが、あくまで誇張表現。

義光は、伊達を背後に背負い、足元の勢力を打倒するのに注力しました。伊達方面に対する警戒が解けたことから実現したこととも言えます。

ここで注目しておきたいのが政宗の片腕として有名な片倉小十郎景綱です。

片倉小十郎景綱の肖像画

片倉景綱/wikipediaより引用

彼の姉・喜多は政宗の乳母とされますが、乳を与えるのではなく教育係でした。

この片倉姉弟の親族に、飯田小十郎という最上家臣がいます。

つまり最上家と近い人物であり、片倉姉弟の重用には輝宗の意図が当然反映されているでしょうから、フィクションで誇張されるほど険悪でないとみなしたほうが妥当です。

先程触れたように、最上家9代の義定は、伊達稙宗に長谷堂城まで落とされ、滅亡寸前にまで追い込まれました。

それでも最上が伊達に対する警戒感を弱めているとすれば、輝宗と義光の間に信頼関係があったとみなしたほうが自然でしょう。

輝宗は【元亀の変】で力をつけた家臣を素早く処断し、中央集権化を図ると、優れた外交手段で近隣と和を結び、さらには奥羽を超えてまで外交手腕を発揮したのです。

この頃は近畿方面への目配りも重要となっていました。

そのため輝宗側近となった遠藤基信が、蹴鞠や連歌を話題とした書状のやりとりもしています。

戦乱期からの脱却が少しずつ進むにつれ、ますます重視されるようになった外交面で、輝宗は見事に対応していました。

伊達家当主の中では、あまり目立たない存在とされがちですが、決して凡庸でないどころか、将や大名としての資質を備えた人物像が浮かび上がってくるでしょう。

 

信長へ名鷹を贈る

伊達輝宗は非常に気配りのできる人物とも言えます。

奥羽からの贈答品で喜ばれる定番のものに「馬」と「鷹」があります。

いずれも名産地として全国的にも知られていて、天正3年(1575年)7月には、織田信長へ鷹と届けています。

織田信長の肖像画

織田信長/wikipediaより引用

伊達との関係構築は、信長にとっても上杉の牽制に使えて旨味のあるものでした。

輝宗の先見性については、天正5年(1577年)の嫡子元服でも見られます。

伊達氏中興の祖である9代にならい、その名を「政宗」としたのです。すでに力を失い今にも滅びそうな将軍・足利義昭の偏諱を避けたのですね。

さらには政宗の正室選びにおいても外交への配慮がありました。

騎兵を巧みにつかいなかなか勝つことのできない相馬氏と対立を解消するため、田村氏から愛姫(田村清顕の娘)を正室に迎えたのです。

結果、相馬氏とも和睦に漕ぎ着けるなど、堅実に外交実績を積み上げてゆきました。

かくして輝宗は、奥羽の広い範囲において信頼を得てゆきます。

すると近畿をも見据えて、もっと雄大な構想を練り始めます。

上方から敵が攻め寄せてきたら、奥羽は一致団結して迎え討つべし――。

その一方で、意外にすら思えるのが輝宗の婚姻関係です。

伊達氏といえば多くの子をもうけ、婚姻関係を結ぶ外交が得意ですが、輝宗の正式な妻とされるのは義姫一人しかいない。

しかも彼女は多産の体質ではなく、二人には子が少ない。

輝宗は、信頼と知略でカバーしよう!とでも考えていたのかもしれませんが、さすがに手駒不足であり、今までのような外交は続けられなくなってしまう。

次世代の伊達政宗にとって使える手札は「弟・小次郎」だけということになってしまいます。

 


息子・政宗という破壊魔

伊達輝宗の外交政策において、重要だったのが蘆名氏との関係。

晴宗を牽制するため婚姻関係を結んだ以降、共同して動いていました。

その一例が天正6年(1578年)に勃発した【御館の乱】です。

上杉謙信の死に伴い、上杉景勝と上杉景虎で後継者争いの内紛に発展した争い。伊達家は北条と同盟関係にあったため、蘆名と共に上杉景虎に味方しています。

上杉景勝の肖像画

上杉景勝/wikipediaより引用

しかし、その蘆名に翳りが見えてきました。

天正12年(1584年)、蘆名盛隆が殺害されてしまうと、まだ生まれたばかりの亀王丸が当主となったのです。

輝宗はこの亀王丸の後見を務めると同時に、家督を政宗に譲りました。

この動きにはご注意を。

前述の通り伊達家では父と子による二頭体制がしばしばあり、他ならぬ輝宗自身も父・晴宗と揉めていました。

フィクションでは「政宗が優秀だから」とされますが、そもそも伊達家の構造からそうなりやすいだけの話。

そしてこの家督相続により、伊達家では大きな混乱に陥ってゆくことになるのです。

息子の政宗は、輝宗の方針を180度変えて、蘆名の武力攻略を目指すようになりました。

なぜ、政宗はそんなことをしたのか?

一般的には、政宗に酷い態度をとった大内定綱を庇ったから、と説明されたりします。

政宗はかなり短気で、くだけた言い方をすればキレやすい。

義姫は、母親としても目が離せなかったのか、胃が弱いのに無茶をすると心配していたとか。

ともかく、壮年になってからも細川忠興に「狐憑きか」といわれたほど激しい性格の政宗ですからね。

しかも、まだ若いのですから大変なことです。

結果、輝宗が敷いてきた、ソフトランディング路線は崩れてゆき、天正13年(1585年)の檜原攻めで、伊達と蘆名の関係はついに決裂しました。

ただし、こればかりは政宗だけが悪いのではありません。

蘆名は蘆名で、伊達の宿敵である佐竹へ接近しており、ならば「もう役目は終わったよな」と政宗が判断したのかもしれません。

ともあれ、輝宗と政宗の方針がまるで逆。

最上も迷惑だったことでしょう。

輝宗と良好な関係を築いていた最上義光は、政宗の強引な姿勢にかなりの不信感を浮かばせています。

義光にしてみれば

「当主が変わったくらいで方針を変えるなよ!」

と言いたいところでしょう。

私は大河ドラマ『独眼竜政宗』を見直していて気づきました。

憎々しげな面構えで最上義光が台詞を吐くのですが、その提案そのものは政宗よりはるかにまっとうで現実的な路線を提唱している。

やはり外交路線では輝宗と義光の方が格段にスマートでした。

政宗は、「北の関ヶ原」こと【慶長出羽合戦】が終わった後、義光の嫡男・最上義康の武勇を褒め称えながら、こんな皮肉を付け加えています。

「父の時代はこうも強くなかったのに、珍しいことだ」

外交重視の親父世代はダセエ!という思いでもあったのかもしれませんね。

『長谷堂合戦図屏風』退却する直江兼続を追撃する最上義光/wikipediaより引用

 

畠山義継もろとも輝宗射殺

殴り合い上等の政宗が伊達家の当主になると、奥羽は混沌とした状況に陥ってゆきます。

『独眼竜政宗』はじめ、多くのフィクションではその様子を「政宗の快進撃」として描きがちですが、そもそもそのバトルフィールドは、輝宗までの時代に外交で整備されたものです。

輝宗は、天文の乱などで荒れた領内を回復させ、家中の統制も強めると、妻・義姫を間に挟んで出羽の最上とも良好な関係を築きました。

政宗の快進撃とは、そういう父の遺産を引き継ぎながら破壊していくものだったんですね。

そうして上書き保存された結果、輝宗の功績は後世において非常にわかりにくくなってしまった。

政宗の若年期は、彼の衝動性と粘着質がマイナスに作用し、その矛先は、蘆名氏のみならず、大内定綱の姻戚に当たる二本松城主・畠山義継へも向かいました。

結果、天正13年(1585年)に畠山義継は政宗に降り、同年10月8日(11月29日)、義継が挨拶のため宮森城の輝宗を訪れました。

面会のあと、出立する義継を見送ろうとする輝宗。

と、そのとき、冷たい刃が突きつけられ、輝宗は捕らえられてしまいます。

そしてそのまま連れ去られそうになったところで、伊達軍が火縄銃を一斉射撃して、畠山義継もろとも輝宗は死へ追いやられました。

享年42。

敵に連れ去られた輝宗が自ら「撃て!」と叫んだ。それが一斉射撃の合図であったが、その言葉の中に「わしごと」も入っていたのかどうか。

射撃をしたのは伊達成実なのか、留守政景なのか。

政宗はその場にいたのか。

それとも事後、駆けつけたのか。

後世の記録にせよ、諸説あってハッキリしていません。

フィクションのイメージが強く、かつ東北はあまり舞台にならないためか、大河ドラマ『独眼竜政宗』の印象が現在まで残っています。

当時の反応を見てみると、輝宗の周辺はその横死に納得できていない様子です。

遠藤基信は、輝宗の墓前で自刃。

政宗の師である虎哉宗乙は、「お前が無茶苦茶なことをするからああなったんだろうが!」と激怒したとか。

若き当主政宗は、このあと苦難の連続に追い込まれることとなります。

ここから先の伊達は、17代・政宗のパーリータイムです。

伊達政宗の肖像画

伊達政宗/wikipediaより引用

 


独眼竜の輝きが強すぎて曇る父

伊達政宗が初代仙台藩主となったせいか。

父である伊達輝宗の事績はかえってわかりにくくなってしまいました。

儒教倫理に照らし合わせると、政宗は極悪非道としか言いようのないことをしていて、特に父の死は言語道断としか言いようがありません。

母・義姫にせよ、何らかのトラブルで実家に戻っています。

『父母両方ともに親不孝だなんて……』

と、仙台藩の歴史家たちは眉間に皺を寄せながら、いろいろと知恵を巡らせる羽目になったのでしょう。

江戸時代にはいって儒教倫理が定着していく最中に、板挟みになったとしてもおかしくありません。

「先祖は顕彰しなければならない……藩祖政宗公は偉大! でも政宗公って、親に対してあまりに酷いことをしているよね……」

「ど、ど、どう書けばいいんだよ!」

そんな逡巡の結果、義姫は悪女とされ、伊達輝宗も過小評価されてしまったのでしょう。

今の私たちは、そうした仙台藩の工夫をひっぺがすところから考えていかなければなりません。

・家督を早く譲ったのは、政宗の才能ではなく単純に伊達家の伝統だった

・「わしを撃て!」は、政宗の黒い過去を隠すために考え抜かれた工夫の跡

そして何より、政宗が輝宗の外交政策を破綻させ、戦績で上書きしてしまった――そのせいで輝宗は輝けない!

仮に輝宗が意図していなかったとしても、彼が政宗躍進の基礎固めをしたことは確かです。

家中統制を強め、進撃への道のりを整備。

それだけでなく教養に優れ、人格者であり、外交性にも長けていました。

現在は、母である義姫や、伯父である最上義光の再評価も進んでいます。

東北戦国史の研究がさらに進展してゆけば、輝宗は政宗の父としてだけではなく、聡明な外交の名人として、もっともっと輝きを増していくことでしょう。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-伊達家

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