「政宗の父である伊達輝宗をご存知でしょうか?」
こんな質問を投げかけると、多くの戦国ファンの頭に浮かんでくる印象的な場面があります。
捕らえられた父の輝宗を、敵もろとも鉄砲で一斉射殺させる政宗
あまりに衝撃的な展開のせいか、伊達輝宗に関しては
「敵もろとも撃たれる人ね」
という認識で終わってしまっているようで、実にもったいない……。
息子の政宗があまりにキャラ立ちしているせいか。
父の輝宗が注目されるケースは少ないですが、実際のところ、彼の功績無しに政宗の成功はあり得ませんでした。
では、伊達輝宗とは一体どんな武将だったのか?
天正13年(1585年)10月8日はその命日。
輝宗の生涯を振り返ってみましょう。
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伊達家は奥州のちっぽけな家……ではない
伊達輝宗が大きく注目されたと言えば、やはり1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』でしょう。
渡辺謙さんが主役の政宗を演じ、北大路欣也さんが父の輝宗役。
いかにも豪華なキャスティングであり、大河の代表的な名作とされますが、問題がないわけでもありません。
劇中では、誤解を招く描写も少なくなく、例えば
政宗が羽ばたくまで、伊達家は奥州のちっぽけな家に過ぎない――
といった大きな誤誘導がありました。
実際の伊達家は、ちっぽけな家などではありません。
鎌倉時代から奥羽に睨みを利かせる存在であり、同エリアでは格上の大きな家でした。
そんな歴史の長い伊達家には、「婚姻政策に強い」という特徴があります。
なぜか多産に恵まれ、子供が多数生まれたため、各地の大名に輿入れさせたり、養子を送り込むなどして、影響力を拡大させることができたのです。
ヨーロッパで言えばハプスブルク家のような状態ですね。
しかし、それは奥羽特有の事象でもあり、豊臣政権のもとで全国の大名が東北にやって来ると、彼らは一様に不思議がりました。
「奥羽はなぜみんな親戚同士ばかりなんだ?」
例えばこんな話もあります。
伊達政宗が自分の隣に座ろうとしたとき、蒲生氏郷が、最上義光を優先させながら、政宗にこう言いました。
「おい、何を考えているんだ。伯父より上に座るとはけしからんだろ!」
たしかに義光は政宗の伯父ですし、その関係を利用した氏郷の言いがかりかもしれませんが、政宗としては舌打ちの一つでもしたかったでしょう。
前述のとおり伊達家は東北中に親戚が散らばっています。
それだけに、ときには合戦も辞さない間柄になり、伯父だからといって問答無用に敬服しなければいけない関係でもない。
本稿では、こうした伊達家の特徴を踏まえながら、伊達輝宗の生涯を見て参りたいと思います。
長男は養子に出され二男の輝宗が家督を
天文13年(1544年)9月、伊達郡西山城にて、第15代当主・伊達晴宗の二男が生まれました。
母は久保姫。
幼名は彦太郎で、後に総次郎となりました。
父・晴宗と母・久保姫が結ばれる経緯については、こんな伝説があります。
「岩城重隆に妙齢の姫がいるってよ。笑窪がとてもめんこいらしい……これは攫(さら)ってでも妻にするべ!」
“攫う”とは物騒にもほどがありますが、晴宗が婚礼の行列に乱入し、姫君を奪ったとされます。
事実か否か。真偽の程はさておき、いずれにせよ夫婦は仲が良く、6男5女に恵まれました。
しかも岩城重隆の娘という血統は女系として非常によろしく、夫妻の子には大きな価値がありました。
二人の婚礼に際しては、こんな条件が定められていたのです。
夫妻の間に生まれた最初の男子は「岩城重隆の養嗣子」とする――。
次に男児が生まれてくるかもわからない段階で長男を渡す。
しかも、その長男は岩城家の養嗣子として迎えられるのであり、女系の血統も十分に尊重された証と言えるでしょう。
晴宗が姫君を攫ったという略奪劇も、あくまで狂言か伝承と考えられます。
中世日本は、男系のみならず女系も尊重する【双系制】でした。
特に奥羽は、寒冷な気候の影響もあってか、有力者たちの交代も日本の他の地域より緩慢で、女系重視の傾向はさらに強まります。
そんな前提のもとに生まれた二男は、伊達家世子として育てられてゆきます。
儒教思想が根付いた後世であれば、兄を差し置いて水戸藩主となった水戸光圀のようにコンプレックスの原因となったかもしれません。
しかし当時の日本にそんな考え方はありません。
儒教道徳がまだ根付いていないことも、伊達家を考える上では重要です。
先程の蒲生氏郷による「伯父を敬え」という発想も儒教由来ですが、伊達家ではそうした思考が薄いせいか、父子による二頭体制を取る慣習もあるほどでした。
結果、当然の帰結として親子闘争がしばしば勃発してしまう。
周囲の諸勢力からは
「奥羽を巻き込んでしょっちゅう親子喧嘩している伊達家ね」
なんて噂になっていたそうで、そもそも輝宗が生まれたときも、伊達家の激しい親子喧嘩【天文の乱】の真っ最中でした。
父・晴宗を牽制し、磐石の体制を
【天文の乱】とは、伊達輝宗から見て父と祖父が争う父子喧嘩です。
奥羽を睥睨し、かつ親戚が多い伊達家だけに、この争いがこじれにこじれ、天文11年(1542年)から実に6年間も続き、天文17年(1548年)にようやく和睦が締結。
輝宗は家族ともども置賜郡米沢城へ移りました。
そして天文24年(1555年)3月19日、晴宗の叙爵に伴い、11歳で元服。
室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を賜り、このときから輝宗と名乗っています。
永禄8年(1565年)には晴宗が隠居して、家督を相続した輝宗が第16代当主となりますが、前述のとおり伊達家は父と子で二頭体制を維持することにご注意ください。
家督相続時の年齢は、輝宗が21歳であるのに対し、隠居出家した晴宗はまだ46歳です。
輝宗といえば、政宗と違って温厚なイメージがあるかもしれません。
ゆえに争いは……結局起きてしまいます。
輝宗もまた伊達氏の宿痾から逃れられず、父の晴宗と対立するのですが、その先の機敏な行動は電光石火の切れ味がありました。
父の晴宗が米沢城の郊外に隠居後の住居を定めようとすると、輝宗はこれを妨害し、晴宗の妻・久保姫と共に信夫郡杉目城へ移らせたのです。
そして、会津の雄たる蘆名盛氏と和睦を結び、妹の彦姫を盛氏の嫡男・蘆名盛興に嫁がせ、何かあれば自分に味方するよう約束を取り付けました。
凡将にはたどり着けない、鮮やかな手口と言えるでしょう。
なお、蘆名との関係は、輝宗の外交活動を考える上できわめて重要な要素であり、詳しくは後述させていただきます。
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