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【伊達輝宗】
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息子・政宗という破壊魔
伊達輝宗の外交政策において、重要だったのが蘆名氏との関係。
晴宗を牽制するため婚姻関係を結んだ以降、共同して動いていました。
その一例が天正6年(1578年)に勃発した【御館の乱】です。
上杉謙信の死に伴い、上杉景勝と上杉景虎で後継者争いの内紛に発展した争い。伊達家は北条と同盟関係にあったため、蘆名と共に上杉景虎に味方しています。

上杉景勝/wikipediaより引用
しかし、その蘆名に翳りが見えてきました。
天正12年(1584年)、蘆名盛隆が殺害されてしまうと、まだ生まれたばかりの亀王丸が当主となったのです。
輝宗はこの亀王丸の後見を務めると同時に、家督を政宗に譲りました。
この動きにはご注意を。
前述の通り伊達家では父と子による二頭体制がしばしばあり、他ならぬ輝宗自身も父・晴宗と揉めていました。
フィクションでは「政宗が優秀だから」とされますが、そもそも伊達家の構造からそうなりやすいだけの話。
そしてこの家督相続により、伊達家では大きな混乱に陥ってゆくことになるのです。
息子の政宗は、輝宗の方針を180度変えて、蘆名の武力攻略を目指すようになりました。
なぜ、政宗はそんなことをしたのか?
一般的には、政宗に酷い態度をとった大内定綱を庇ったから、と説明されたりします。
政宗はかなり短気で、くだけた言い方をすればキレやすい。
義姫は、母親としても目が離せなかったのか、胃が弱いのに無茶をすると心配していたとか。
ともかく、壮年になってからも細川忠興に「狐憑きか」といわれたほど激しい性格の政宗ですからね。
しかも、まだ若いのですから大変なことです。
結果、輝宗が敷いてきた、ソフトランディング路線は崩れてゆき、天正13年(1585年)の檜原攻めで、伊達と蘆名の関係はついに決裂しました。
ただし、こればかりは政宗だけが悪いのではありません。
蘆名は蘆名で、伊達の宿敵である佐竹へ接近しており、ならば「もう役目は終わったよな」と政宗が判断したのかもしれません。
ともあれ、輝宗と政宗の方針がまるで逆。
最上も迷惑だったことでしょう。
輝宗と良好な関係を築いていた最上義光は、政宗の強引な姿勢にかなりの不信感を浮かばせています。
義光にしてみれば
「当主が変わったくらいで方針を変えるなよ!」
と言いたいところでしょう。
私は大河ドラマ『独眼竜政宗』を見直していて気づきました。
憎々しげな面構えで最上義光が台詞を吐くのですが、その提案そのものは政宗よりはるかにまっとうで現実的な路線を提唱している。
やはり外交路線では輝宗と義光の方が格段にスマートでした。
政宗は、「北の関ヶ原」こと【慶長出羽合戦】が終わった後、義光の嫡男・最上義康の武勇を褒め称えながら、こんな皮肉を付け加えています。
「父の時代はこうも強くなかったのに、珍しいことだ」
外交重視の親父世代はダセエ!という思いでもあったのかもしれませんね。

『長谷堂合戦図屏風』直江兼続を追撃する最上義光/wikipediaより引用
畠山義継もろとも輝宗射殺
殴り合い上等の政宗が伊達家の当主になると、奥羽は混沌とした状況に陥ってゆきます。
『独眼竜政宗』はじめ、多くのフィクションではその様子を「政宗の快進撃」として描きがちですが、そもそもそのバトルフィールドは、輝宗までの時代に外交で整備されたものです。
輝宗は、天文の乱などで荒れた領内を回復させ、家中の統制も強めると、妻・義姫を間に挟んで出羽の最上とも良好な関係を築きました。
政宗の快進撃とは、そういう父の遺産を引き継ぎながら破壊していくものだったんですね。
そうして上書き保存された結果、輝宗の功績は後世において非常にわかりにくくなってしまった。
政宗の若年期は、彼の衝動性と粘着質がマイナスに作用し、その矛先は、蘆名氏のみならず、大内定綱の姻戚に当たる二本松城主・畠山義継へも向かいました。
結果、天正13年(1585年)に畠山義継は政宗に降り、同年10月8日(11月29日)、義継が挨拶のため宮森城の輝宗を訪れました。
面会のあと、出立する義継を見送ろうとする輝宗。
と、そのとき、冷たい刃が突きつけられ、輝宗は捕らえられてしまいます。
そしてそのまま連れ去られそうになったところで、伊達軍が火縄銃を一斉射撃して、畠山義継もろとも輝宗は死へ追いやられました。
享年42。
敵に連れ去られた輝宗が自ら「撃て!」と叫んだ。それが一斉射撃の合図であったが、その言葉の中に「わしごと」も入っていたのかどうか。
射撃をしたのは伊達成実なのか、留守政景なのか。
政宗はその場にいたのか。
それとも事後、駆けつけたのか。
後世の記録にせよ、諸説あってハッキリしていません。
フィクションのイメージが強く、かつ東北はあまり舞台にならないためか、大河ドラマ『独眼竜政宗』の印象が現在まで残っています。
当時の反応を見てみると、輝宗の周辺はその横死に納得できていない様子です。
遠藤基信は、輝宗の墓前で自刃。
政宗の師である虎哉宗乙は、「お前が無茶苦茶なことをするからああなったんだろうが!」と激怒したとか。
若き当主政宗は、このあと苦難の連続に追い込まれることとなります。
ここから先の伊達は、17代・政宗のパーリータイムです。

伊達政宗/wikipediaより引用
独眼竜の輝きが強すぎて曇る父
伊達政宗が初代仙台藩主となったせいか。
父である伊達輝宗の事績はかえってわかりにくくなってしまいました。
儒教倫理に照らし合わせると、政宗は極悪非道としか言いようのないことをしていて、特に父の死は言語道断としか言いようがありません。
母・義姫にせよ、何らかのトラブルで実家に戻っています。
『父母両方ともに親不孝だなんて……』
と、仙台藩の歴史家たちは眉間に皺を寄せながら、いろいろと知恵を巡らせる羽目になったのでしょう。
江戸時代にはいって儒教倫理が定着していく最中に、板挟みになったとしてもおかしくありません。
「先祖は顕彰しなければならない……藩祖政宗公は偉大! でも政宗公って、親に対してあまりに酷いことをしているよね……」
「ど、ど、どう書けばいいんだよ!」
そんな逡巡の結果、義姫は悪女とされ、伊達輝宗も過小評価されてしまったのでしょう。
今の私たちは、そうした仙台藩の工夫をひっぺがすところから考えていかなければなりません。
・家督を早く譲ったのは、政宗の才能ではなく単純に伊達家の伝統だった
・「わしを撃て!」は、政宗の黒い過去を隠すために考え抜かれた工夫の跡
そして何より、政宗が輝宗の外交政策を破綻させ、戦績で上書きしてしまった――そのせいで輝宗は輝けない!
仮に輝宗が意図していなかったとしても、彼が政宗躍進の基礎固めをしたことは確かです。
家中統制を強め、進撃への道のりを整備。
それだけでなく教養に優れ、人格者であり、外交性にも長けていました。
現在は、母である義姫や、伯父である最上義光の再評価も進んでいます。
東北戦国史の研究がさらに進展してゆけば、輝宗は政宗の父としてだけではなく、聡明な外交の名人として、もっともっと輝きを増していくことでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
遠藤ゆり子『伊達氏と戦国争乱』(→amazon)
遠藤ゆり子『戦国大名伊達氏』(→amazon)
高橋富雄『陸奥伊達一族』(→amazon)
小林清治『新装版伊達政宗の研究』(→amazon)
河内和孝『伊達政宗と南奥の戦国時代』(→amazon)
他