坂下門外の変

坂下門/wikipediaより引用

幕末・維新

有能な幕閣だった安藤信正「坂下門外の変」で襲われ失脚に追い込まれる

2024/10/07

日本の歴史上に何度も登場する「ナントカの変」。

一番有名なのは、大老・井伊直弼が【安政の大獄】などの反発を喰らって殺された【桜田門外の変】ですかね。

幕末の中でも極めて物騒な事件として知られます。

しかし、この時代には他にも恐ろしい事件があり、超有能だった政治家が表舞台から追いやられてしまってます。

文久二年(1862年)に起きた【坂下門外の変】です(桜田門外の変から2年後)。

老中の安藤信正が襲撃され、そのとき負った傷がもとで罷免へと追い込まれました。

ただし信正が亡くなったのは事件直後ではありません。

明治4年(1871年)10月8日のことです。

それまで一体何が起きていたのか。

襲撃された事件を中心に信正の生涯を振り返ってみましょう。

安藤信正

安藤信正/Wikipediaより引用

 


老中・安藤信正が襲われた坂下門外の変

安藤信正の功績は、まず【桜田門外の変】の後始末をやってのけたこと。

当時は十四代・徳川家茂が将軍職に就いたばかりで、しかも12歳という幼さでした。

徳川家茂(徳川慶福)/wikipediaより引用

そんなときに幕閣トップの大老が暗殺されたと世間に知れたら、一大事どころではありません。

直弼暗殺の理由の中には、開国させられたことへの不満も含まれていたからです。

事件の以前に直弼や信正は、水戸藩に下されていた【戊午の密勅】を朝廷へ戻すよう強行に迫り、なんなら「潰しますよ」と威嚇もしていました。

これを許せぬ攘夷思想バリバリの水戸藩出身の者たちが、桜田門外の変という前代未聞のテロ行為へ走ったのです(一部の薩摩藩士も参加)。

こうしたバカでかい不祥事が立て続けに起きたことが、もし朝廷の耳に入れば「だから開国なんかすんなって言ったのに!もう幕府なんていらんわ!!」となるのは目に見えていました。

 


被害者が悲惨すぎる「襲われたほうも悪い」という理屈

そこで安藤信正を始めとした幕閣は、直弼暗殺の事実を隠しに隠します。

うっかり直弼がコロされたことを正直に公表すると

「よっしゃ、彦根藩も取り潰しね! 譜代だけど襲われたんだから仕方ないよね!」

という誰も得しない事態になってしまうおそれがありました。

もしかすると、元禄赤穂事件の教訓から「喧嘩両成敗」が不文律になっていたのかもしれません。

この件については世間でいろいろ狂歌が詠まれていますので、江戸っ子にはバレバレだったようですが。

井伊直弼/Wikipediaより引用

なにはともあれ、後に残された信正たちはもう一度幕府を安定させるべく奔走します。

公武合体の方針も、信正が「朝廷と穏便にやっていきましょう。私に考えがありますから」と考え出したものです。

大雑把にいえば、信正は家茂と和宮の仲人ということになりますかね。

その他にも世情を安定させるための経済政策を打ち出すなど、家茂の治世を支えました。

なんせこの間、アメリカ公使館の通訳・ヒュースケン(本人はオランダ人)が薩摩藩士にブッコロされる、国際問題モノの事件が起きています。

これを穏便に処理したのも信正でした。

幕府ひいては日本が賠償金を負わせられたり、なにかと不利な交渉材料にされたり、粗暴な攘夷派の連中は本当にムチャクチャです。

もし信正以外の人間が担当していたらどうなっていたやら……。

 

桜田門外に続き、また水戸藩から

しかし、こうした信正の苦労が通じない不届き者も世間には存在していました。

あっちこっちの反幕府派です。

そして年明け間もない文久二年(1862年)1月15日、登城中の信正に水戸浪士の一団が襲い掛かります。

実行犯の中には、渋沢栄一の従兄弟で攘夷仲間でもある尾高長七郎と親しい河野顕三もいました。

他に水戸藩の天狗党に繋がる過激集団のメンバーも含まれていましたが、そもそもが杜撰な計画。

桂小五郎からは事前に止められていたほどです。

幕府サイドも、直弼が暗殺されて以降、警護を厳重に行っていました。

このときの信正には数十人のお供をつけており、たった数名だったテロ実行者たちをあっという間に返り討ちにしています。

しかし完全に防ぎきることはできず、信正の乗った駕篭に銃撃や刀が突き刺さり、信正は背中に軽傷を負いました。

これが彼の運命を決めてしまうことになります。

 


軽傷も背中に傷が政治的に大ダメージ

武士にとって背中の傷は恥でした。

「敵に背中を向けていた」=「逃げようとした」ことになるからです。

これと上記の「喧嘩両成敗」が結びつき、信正は「敵前逃亡とは武士にあるまじき行動!そんなやつに老中は任せられん!」という滅茶苦茶な理由で罷免されてしまいました。

一時の恥にこじつけ、それまでの実績を一切無視してクビとかあんまりですよね。

こうして縁の下の力持ちだった信正は、罷免された上に半年後には隠居+蟄居(無期限の外出禁止)をくらうという理不尽な目に遭ってしまうのです。

もし家茂がこの頃もう少し年長で、自分の意思で幕政を取り仕切ることができていたら、止めることもできたかもしれません。

しかし、残念なことに将軍後見職という名のお目付け役に頭を抑えられていたため、それはかないませんでした。

信正が中央から去って以降の幕府はさらに求心力を低下させてしまいます。

そもそも御三家の一つである水戸藩が幕府を毀損させる行動ばかりしているので仕方ありません。

かなりはしょって言いますと、この後、生麦事件やら薩英戦争やら長州征伐やら薩長同盟やら……なんだかんだで悪い方向へと転がり落ちていくことになります(以下はその関連記事です)。

実はこの時代、世界の事情や先行きを最も見通せていたのは幕府でした。

攘夷運動で盛り上がっていた薩摩も長州も、上記の事件で外国勢と戦うことの思慮浅さを反省し、武器の供与などを手配してもらう協力体制に変更しています。

幕府が妙な判断で安藤信正のような人材を外してしまったのは残念でなりません。

なお、幕政での職を追われた安藤信正は、蟄居や減封などの不遇を経て、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まると、奥羽越列藩同盟に参加。

敗れて再び蟄居という憂き目に遭っていますが、戦場に立つことを選び、頭脳派の政治ばかりでなく根が武士だったことを感じさせます。


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【参考】
国史大辞典
安岡 昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
安藤信正/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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