12月の歴史的な出来事といえば、やはり忠臣蔵の元ネタである元禄赤穂事件でしょう。
一昔前までは、毎年この時期ドラマなりドキュメンタリーで見かけていましたが、最近はさほどの需要でもないようで。
事件や忠臣蔵に対する世論が大きく変わってきたことを感じます。
『忠臣蔵』はお芝居なので脚色が凄まじいだけでなく、史実の事件も現代人からすると「ゑっ?」とツッコみたくなる点が多すぎますからね。
というわけで、今回は元禄15年(1703年)12月14日に起きた、元禄赤穂事件(赤穂浪士)の討ち入りを振り返ってみたいと思います。
ちなみに本事件は【鍵屋の辻の決闘】と【曾我兄弟の仇討ち】と併せて【日本三大仇討ち】に数えられ、その中でも赤穂事件が最も日本人には知られている気がします。
ただ、最近は、
「キラという爺さんと揉めた正義の大名・浅野ナントカが理不尽な切腹にあったので、家臣が仇を取りにいった話」
ぐらいの認識しかないかもしれません。
そもそも、このあらすじがお芝居である『忠臣蔵』の影響を受けすぎていますので、赤穂事件の史実的な面にスポットを当ててみましょう。
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赤穂事件の当事者は吉良と浅野
まずは人物紹介から。
キラこと吉良上野介義央(きら こうづけのすけ よしひさ)。
この人は幕府と朝廷の儀式作法を教える高家(こうけ)というお家柄の人です。
実は今川氏真の玄孫(ひまごの次の代)にあたります。
氏真は、大河ドラマ『おんな城主直虎』で尾上松也さんが演じて話題になりましたね。
もともと今川家は、足利家→吉良家という流れから派生した高い家格の一族でした。
もう一人は、浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)。
現在も赤穂の塩で有名な赤穂藩(現・兵庫県赤穂市)の大名です。
領地や官位からすればさほどエラい大名ではありませんでしたが、塩田の開発を成功させるなど、領国経営もうまくできていてそこそこ人気のあるお殿様でした。
赤穂浪士の四十七名については名を挙げると夜が明けてしまいますし、本題はそこではないので割愛します。
四十七名の内訳だけざっくりお話しますと、下は10代から上は70代。
生粋の武士から歌舞伎役者のような美青年、長矩とアーッ!な関係だった人までいろいろいました。
なぜ浅野は吉良を斬りつけたのか?
で、その浅野内匠頭が、突如として吉良上野介義央に斬りかかります。
それが元禄14年(1701年)3月14日のこと。
どうして浅野が吉良に切りつけたのか?
実は理由がはっきりしておりません。
吉良が浅野に嫌がらせをしたとか、浅野がワイロを送ってこなかったので教えるべき作法をきちんと教えてくれなかったからだとか。
いろいろ言われていますが、これはお芝居上の脚色や当時の「お・つ・き・あ・い」を考えてみると当たり前という面もあります。
吉良家は身分や仕事は保障されているものの、給料は少なく余裕はありませんでした。
しかし仕事上衣服や道具などにお金がかかるので、公私両面の支えとして、あっちこっちの大名からの礼金・贈り物は欠かせなかったのです。
贈るほうも粗相のないよう、きちんと作法を教えてもらいたいですからそれなりに奮発もします。
これがワイロのように見えるだけで、実際には「おぬしも悪よのう」「苦しゅうない、近う寄れ」「黄金色のまんじゅうは美味であったぞ」というような、いかにも時代劇な黒い話はさほどなかっただろうと言われています。
癇癪を爆発させていたという記録
ではどうして刃傷沙汰になったのでしょうか。
これまたはっきりしていないのですが、浅野のほうに問題があったという説があります。
彼はもともと短気な性格をしており、癇癪を爆発させることも少なくなかったという記録が残っているからです。
しかも仕事の上ではクソがつくほど真面目なので、ちょっとでも家臣や侍女のミスがあると折檻することもあったとか……。
さらに、そうしたイライラで胸が苦しくなる持病を抱えていて、気分を落ち着かせるための薬を飲んでいたそうです。
現代であれば精神疾患の一つ・統合失調症ではないか? とも言われたりしますが、流石に現代医学でも数百年前の人間の精神状態までははっきりわかりません。あくまで一説です。
浅野の切腹は幕府がきちんと裁定した
そして浪士たちの討ち入りについては、ズバリ私怨といってもいいほど。
なぜなら、浅野の切腹は幕府がきちんと裁定して決めたものだったからです。
罪状は、江戸城内で抜刀したことと殺人未遂でした。
お芝居だと「松の廊下」というところだけがクローズアップされているのでわかりづらいかもしれませんが、あそこは将軍がいる江戸城内でのシーンなんです。
将軍の家の中で刀を抜いたこともけしからんし、無抵抗の相手に切りつけるなど言語道断。
しかもこの日は朝廷からの使者に将軍自ら返事を出すという、とても、とても大事な日でした。
そんな日にご法度をやらかした輩に対し、当時の将軍・徳川綱吉は当然激怒します。
「武士の風上にも置けん!」と即日切腹を申し付けたというわけです。
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