嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、多くの日本人は危機感を募らせました。
島津斉彬や阿部正弘、勝海舟のように「まずは国力強化をしなければならない」と考える者は少数派で、それよりも先に立つ感情は【外国人への反感】です。
「穢らわしい夷狄を叩き斬る!」
こうした思想は「攘夷」と呼ばれ、多くの犠牲者が出ることになります。
そんな攘夷事件の一つに万延元年(1861年)12月5日に起きた【ヒュースケン殺害事件】があります。
幕府が多額の賠償金を負うことになった――。
そんな影響が語られますが『そもそも被害者のヒュースケンってどんな人だったの?』といった本質が意外と知られていない同事件。
振り返ってみたいと思います。
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求む! オランダ語・英語ができる者
嘉永7年(1854年)。
日本とアメリカの間で、日米和親条約が締結されます。
対応に追われた幕府がアタフタしたことで知られますが、実はアメリカも同様でした。
初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使として任命されたのは、タウンゼント・ハリス。
厳格な聖公会信徒で、生涯純潔を貫いたような人物です。
そんなハリスと日本側の行き違いで「唐人お吉」の悲劇も起こったわけですが、今回の主役は、ハリスの通訳であるヒュースケンです。
当時、アメリカ側が頭を悩ませたのは、言葉の問題でした。
「日本人はオランダ語ならばわかるらしいが、英語は駄目。英語とオランダ語ができる通訳はいないだろうか」
そんな募集条件を見て、大いに喜んだ者がいました。
ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンです。
貧しい移民として苦労した
1832年、ヒュースケンは石鹸職人の息子として、オランダのアムステルダムで誕生。
父の死後、一旗揚げようとアメリカに移住しました。
しかし、彼のように何のツテもない移民にとって、アメリカ、ニューヨークでの暮らしは楽ではありません。
オランダ人コミュニティの中で、低賃金の職を転々としながら生きる毎日。
希望の欠片もないドン底生活の日々が続き、アメリカン・ドリームは日増しに薄れていきました。
1855年、そんなヒュースケンにチャンスが訪れます。
彼はとある求人情報を見て「これだ!」と思いました。
「求む オランダ語・英語ができる通訳兼助手 赴任先:日本」
23才のヒュースケンは、この求人に応募し採用されました。
ドン底の日々にも終わりが来たぜ!と、ワクワクしたことでしょう。
「でも日本ってどんな場所だろな」
期待に胸をふくらませ、ハリスと共に日本へ向かいました。
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