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【ヒュースケン】
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幕府は警告したものの……
純粋で、無邪気で、母からの手紙が届くと喜ぶ、そんな若きヒュースケン。
彼にとって日本はパラダイスであり、チャンスに満ちた別世界でした。
しかしその裏に、恐ろしい冷酷さや危険が潜んでいたことに気づきませんでした。
安政4年(1857年)、幕府は、ハリスとヒュースケンを狙った浪人たちを捕縛しました。
「この国には、あなた方外国人を殺傷しようとする浪人が、至る所にいます。警備することはできないほどです。どうか外出をなるべくお控えくださいますよう」
ハリスは、浪人の処罰を求めませんでした。
信心深く寛大なハリスは、処罰よりも許しと日米友好を求めたのです。
そのあと、ハリスは重病に罹ることもありましたが、執念深く幕府との交渉にのぞみます。
安政5年(1858年)、ついにハリスは日米修好通商条約を締結。
他の国もアメリカに続き、条約調印へ向けて前進することになります。
好青年、異国に散る
日米修好通商条約の締結後、ヒュースケンの仕事は更に増えました。
英語とオランダ語ができる貴重な通訳として、他の国からの依頼も殺到したのです。
好青年のヒュースケンは、こうした依頼を快諾しました。
自分こそ、愛する日本と他の国との間を取り持てる、そんな善意もあったのでしょう。
ヒュースケンは、プロイセンからの依頼をこなすため、連日夜遅くまで仕事にあたりました。
安政6年(1859年)、買い物中のプロイセン人3名が斬殺される事件が起こりました。
彼は日本人の素晴らしさだけではなく、そうした事件についても気にすべきでありました。
そして運命の万延元年12月5日(1861年1月15日)、この日も、ヒュースケンはプロイセン宿舎の芝・赤羽接遇所で遅くまで仕事をこなしました。
夜は、プロイセン側の担当者と夕食を採り、3名の幕府からの護衛とともに、アメリカ公使館がある善福寺へ。
その途中、赤羽の橋で事件は起こります。
馬上のヒュースケンは、突然、両方の脇腹を何者かに刺されたのです。
なんとか馬にしがみつき、180メートルほど走ったものの、落馬してしまう。
手の施しようがない重傷であり、翌日未明にヒュースケンは絶命しました。
享年28。
ハリスはヒュースケンの死を嘆き、その貢献にふさわしい盛大な葬儀を行ったと伝わります。
幕府は、母ジョアンネに対して、扶助料6千ドルの計1万ドルを弔慰金として支払って事件を落着させることになるのです。
襲撃犯の正体は薩摩藩士で、首謀者・伊牟田尚平や益満休之助らでした。
伊牟田は捕縛され、鬼界ヶ島に流罪。
後に罪を許されると、西郷隆盛の密命を受け、益満休之助らとともに、江戸幕府を挑発するために破壊工作を行っています。
そして最期は様々な罪を着せられ、慶応4年(1868年)に切腹させられました。享年37。
★
幕末に多発した攘夷事件。
そんな事件もあったね、と軽く流してしまいそうになりますが、被害者ヒュースケンの人となりを知ると悲しくなりませんか?
苦労を重ね、チャンスを見いだし、一生懸命働いたヒュースケン。
明るく無邪気で、日本と日本人をこよなく愛した好青年です。
彼は、日記にこんな懸念を記しています。
「この国の幸福な情景は、終わりを迎えつつあるのではないか。西洋人が重大な悪徳を持ち込もうとしているように思えてならない……」
皮肉なことに、彼と同じことを考えた日本人がいました。
そうした日本人に、悪徳を持ち込む者として襲われ、ヒュースケンは若い命を散らしたのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』
ほか