誰かに悩みを相談したときに、こんな感じの答えが返ってきて、がっかりした経験ありません?
しかし世の中には、本当にそれをやってのけるどころか、全く別の道へ進むことによって、歴史に名を残したような人もいます。
初代イギリス駐日総領事で1897年11月2日に亡くなったラザフォード・オールコックです。
安政五年(1859年)5月に来日を果たした、当時の日英関係を語る上で欠かせない人物であり、弊サイトでもたびたび名前を挙げさせていただきました。
最も印象が強いのは、以下の記事にもある富士山登山ですが、
外国人初の富士山登頂は現代なら炎上必至?幕末のオールコック御一行は何をした
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それ以外の仕事はキッチリやっています。って、当たり前ですね。
今回は彼の生涯を振り返ってみましょう。
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両手の親指が動かなくなり医業を断念
当初、ラザフォードは外交ではなく医学の道を志し、外科医として働いていました。
父親が医師だったからです。
一方で彫刻にも興味を持ち、プロに弟子入りしていたこともあります。
他にフランス語やイタリア語も学んでおり、元々興味の幅がかなり広い人でした。
いかにも文化人や外交に向いていそうですね。人生どこでどう転ぶか、何が功を奏するかわからないのが面白いところです。
1832年からイギリス軍医として、戦争中のイベリア半島に赴くことになります。
当時このあたりはナポレオンのいらんおせっかいやら、北アメリカの植民地を失うやらで、非常に不安定な社会。
そこから内乱まで起きる上、ヨーロッパの戦争あるあるの通り、周辺諸国が手と口を突っ込んでくるのですから、たまったものではありません。
ラザフォードも、この戦争で個人的に大きな被害を受けました。
軍医の激務と戦場のストレスからリウマチにかかり、両手の親指が動かなくなってしまったのです。
外科医としては致命的。
医療の道を断念しますが、ラザフォードはこれまで身に着けてきた語学や、生まれ持っての好奇心を活かし、外交官として再出発することを決めます。
イギリスが、アヘン戦争で清をフルボッコにしていた頃のことでした。
極東のプロとして今度は日本へ
当然、本国にも戦争の知らせは来ます。
ラザフォードはこれまで見たことのない国に興味を抱き、自ら駐在を希望して清へ渡り、そして、実に15年もの長きに渡って働き続けました。
租界(清国内の外国人居留地)の発展や、領事裁判権など。
難しい仕事を成し遂げる一方で、
「もう一発、清をぶん殴って、こっちに商売が有利になるようにしましょう」(超訳)
と進言し、アロー戦争を引き起こす一因にもなっています。
清での仕事が一段落ついた頃、日英修好通商条約が結ばれたことにより、今度は「極東のプロ」としての手腕を買われ、日本駐在が決まります。
本国の外務大臣である第三代マームズベリー伯爵ジェームズ・ハワード・ハリスがこんな手紙をラザフォートに送っておりました。
「日本も中国もそんなに変わらないだろうから、君の経験が大いに役に立つと思う。期待しているぞ」(意訳)
しかし、当時の日本については、清にすらほとんど情報が伝わっておりません。
当然、ラザフォードも何ら予備知識はない。ハードモードにも程がありましょう。
日本を知るための資料を買い漁ったペリーやら、日本語をマスターしていたレオン・ド・ロニーらの努力のほどがうかがえますね。
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