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【ラザフォード・オールコック】
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襲撃されてさすがにヤバイ 英国水兵を常駐させて
閑話休題。
あっちこっちへ敵意や蔑視を向けつつも、彼はなんだかんだで良心のある人間でした。
【桜田門外の変】にも大きな衝撃を受けたラザフォードは、見舞いの手紙で「こちらの医師を派遣しましょうか」と申し出てたことがあります。
恩を着せる意図もあったでしょうが、全く人道的な観点がなかったとも思えません。
幕府は断ったんですけどね。
ラザフォード自身も1861年、居留先の東禅寺で襲撃されてしまいました。
彼は無事でしたが、イギリス側の負傷者は当然いました。
これを機に、ラザフォードはイギリス水兵を東禅寺に駐留させるよう求めています。幕府も承認せざるを得ません。
ラザフォードは幕府の求心力低下と同時に、開港延期の必要性を悟ります。
公使をブッコロしに来るようなヤツがうろちょろしている状況では、たとえ正式に開港しても、自国の死傷者が増えるばかりでメリットがありません。
そのため幕府からの遣欧使節をサポートしたり、本国政府に直接事情を説明するために自ら帰国したり、各所で骨を折っておりました。
帰国のついでに『大君の都』という日本訪問記をロンドンで出版しています。
この本で特に日本の景観についてベタ褒めしているのですが、やはりキリスト教徒ゆえか「彼らは偶像崇拝者なので死後は地獄に落ちる劣等民族である」とも書いていました。
この時代じゃ、多数派というか。まぁ、直接言われたら腹立ますけどね。
さらに過激化で物騒な事件が連発
一方で「ロシアとお付き合いをするのはやめてね^^」と圧力をかけ、対馬に滞在していたロシア艦を退去させています。
現代では当たり前のことですが、この時代に西へ東へとよく頭が回るものです。IQ計ったらどれぐらいだったんでしょうね。
文字通り東奔西走しながら、日本への帰任は、元治元年(1864年)のこと。
この間に生麦事件や薩英戦争などが起き、日本国内での攘夷派はより過激化しています。
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ラザフォードは下関事件などに関わりましたが、代替わりしていたイギリス外務大臣ジョン・ラッセルに「手荒なことすんな」(超訳)と言われ、かつての部下であるハリー・パークスに駐日公使を引き継ぐことになったのです。
これによほど腹を立てたらしく、その後「ラザフォードのやり方が良かったんじゃないか」と言われて再任を要請されても断っています。
1865~1869年までは北京におり、その後、外交官を引退して本国イギリスへ。
王立地理学会などで勤めると、1897年にロンドンで亡くなりました。88歳の大往生です。
彼の最晩年に日清戦争が起きているので、早く帰国していたのは正解だったかもしれませんね。
なんだかんだで運命の女神に微笑まれていたかのような生涯だった――なんて言い過ぎでしょうかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
佐野真由子『オールコックの江戸―初代英国公使が見た幕末日本 (中公新書)』(→amazon)
ラザフォード・オールコック/Wikipedia