日本史で、それが最もわかりやすいカタチで起きた事件が【生麦事件】ではないでしょうか。
文久2年(1862年)8月21日に横浜で勃発していて、その内容を一行で言い切るならこうでしょう。
【薩摩藩の大名行列で無礼だったイギリス人が殺された】
むろん英国もタダでは黙っておらず、その直後、鹿児島湾へ軍艦を引き連れやってきて、次々に砲弾を降らせる【薩英戦争】へと発展しています。
要は、幕末の一大転換点ともなっていたんですね。
本日は、事件をもう少し詳しく見て参りましょう。
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大名行列の主は久光
生麦事件の「生麦」は地名から来ております。
神奈川県横浜市鶴見区――今も残っている地名というか、私鉄・京急線の駅名にもなってますね。
地元では、駅の目の前に大きなキリンビール工場があることで知られています。
そんな生麦で起きた事件。
主役の一人が大名行列の主・島津久光(ひさみつ)でした。
当時の薩摩で最高権力者として「国父」とされながら、藩主ではありません。
前藩主の島津斉彬は久光の実兄で、その次の藩主は久光実子の島津茂久が継ぎました。兄・斉彬の息子たちは次々に夭折してしまったからです。
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一応、薩摩藩主の系譜を記載しておきましょう。
1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638
2代 島津光久 1616-1695
3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704
4代 島津吉貴 1675-1747
5代 島津継豊 (つぐとよ) 1702-1760
6代 島津宗信 1728-1749
7代 島津重年 1729-1755
8代 島津重豪(しげひで) 1745-1833
9代 島津斉宣 1774-1841
10代 島津斉興(なりおき) 1791-1859
11代 島津斉彬(なりあきら) 1809-1858
12代 島津茂久(もちひさ) 1840-1897
国父 島津久光 1817-1887
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馬に乗ったまま行列の前に現れ
さて、島津久光が江戸へ行き、帰る途中のことです。
大名行列のお通りですから、道行く人は全て土下座をして道を譲り、通り過ぎるのをじっと待っていたわけです。
しかし、生麦を通行中、頭を下げるどころか馬に乗ったまま行き違おうとする一団がおりました。
チャールズ・レノックス・リチャードソンを始めとしたイギリス商人とその縁者四人組です。
商売の合間に日本を見物しようと、川崎大師へ観光にいくところでした。
彼らはイギリス政府の役人でもなく、通訳もいなかったために悲劇が起きてしまいます。
小さな村の横を通る街道ですから、大名行列のような大人数が通れば道幅一杯。
しかしリチャードソン達は馬に乗ったまま行列の前に現れてしまったのです。
おそらく「前から何か大勢来るけど、うまく合間を通れば大丈夫だろう」ぐらいに考えたのでしょう。
あろうころか、久光の乗った駕籠の真横を通り抜けようとしたのです。
これに対して、薩摩藩士たちはついにブチキレ!
まだ「斬捨御免」が通用する時代のことです。
容赦なくリチャードソン達に斬りつけ、無礼を正そうとしたのでした。
女性は頭髪を剃られ……
結果としてリチャードソンは死亡、他二名が重傷、一人だけいた女性は奇跡的に無傷でした。
ただし、頭を剃られているので、それはそれでキツかったことでしょう。
彼女は大慌てで横浜居留地に戻り、救援を求めました。
重傷だった二名は当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ身を寄せ、治療を受けます。
当然、イギリス領事達は大激怒。
この時点ではまだきちんと事件の真相を質し、解決を図ろうとしていました。
開港など諸々の折衝を何とかうまく進めていきたい幕府としても、頭を抱えながら協力します。
一方、周辺の市民はのんきなもので「さすが薩州さま!俺達にできないことを平然とやってのけるッ!」と大喜びだったとか……。
いやはや、感覚の違いって恐ろしい。
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