戦国期の島津家当主だった島津貴久。
その貴久から生まれた島津四兄弟をご存知でしょうか?
彼らの何が凄いのかって、全員が総じて能力(武力ときには知力)が高く、他国から恐れられていた点でしょう。
例えば織田信長の息子・織田信雄が、大友宗麟の息子・大友義統が「ダメ息子」のレッテルを貼られるように、各大名家には、一人ぐらい無能とされる人物が生まれがちです。
しかし、島津家では、常に優秀な主君を輩出してきたとして
「島津に暗君なし」
なんて言葉で称えられることもあります。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬と比較してその父・島津斉興や、異母弟・島津久光が、あまり優秀では無いように描かれていました。
が、実際、そんなことはありません。
本稿では、江戸時代の薩摩藩主・全12代の足跡をマトメてみました。
1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638
2代 島津光久 1616-1695
3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704
4代 島津吉貴 1675-1747
5代 島津継豊 (つぐとよ) 1702-1760
6代 島津宗信 1728-1749
7代 島津重年 1729-1755
8代 島津重豪(しげひで) 1745-1833
9代 島津斉宣 1774-1841
10代 島津斉興(なりおき) 1791-1859
11代 島津斉彬(なりあきら) 1809-1858
12代 島津茂久(もちひさ) 1840-1897
国父 島津久光 1817-1887
なお、10代島津斉興、11代島津斉彬、番外島津久光の3名については、それぞれの個別記事で大きく取り上げておりますので、詳細はそちらをご覧ください(本稿末に記事リンクあります)。
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初代藩主 島津忠恒 1576-1638
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その実子が島津忠恒となります。
忠恒については多くの悪評も聞かれますが、薩摩藩にとっては重要だった「琉球」「奄美諸島」などを直轄するという功績があります。まぁ、琉球や奄美の方々には非常に迷惑な話でしょうけど……。
戦国&真田ファンにとっては「真田日本一の兵(つわもの)」と評したことで知られますね。
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2代藩主 島津光久 1616-1695
島津忠恒の実子で江戸生まれ。
薩摩は米があまりとれず、しかも武士の数が他藩と比べて突出して多く、とにかく出費がかさむ――。
それを「貿易」で賄うスタンスでした。
ところがこの島津光久の代で江戸幕府による「鎖国政策」がカッチカチに固められ、薩摩でも急遽、方針転換。
光久は、金山開発はじめ新田開発、土地開発に伴う治水などに取り掛かります。
名園として知られる仙巌園も光久によって築かれました。
3代 島津綱貴 1650-1704
父は島津綱久(光久の嫡男)。
綱久が42才で早世したため祖父・光久の次に藩主に就任します。
4代将軍・徳川家綱から偏諱を賜り、綱貴となりました。
地震の影響で崩れた江戸の修繕や、寛永寺造営を幕府から命じられるばかりか、本拠地の鶴丸城(鹿児島城)が焼失して、それら再建のために藩の財政が急激に悪化。
しかし、父に似た徳のある性格で善政を敷いていたため、領内の民たちからは支持を得ておりました。
悪化した財政建て直しのため櫨(はぜ・はぜのき)の栽培や、茶葉の改良などに取り組みます。
4代 島津吉貴 1675-1747
鹿児島城(鶴丸城)にて生誕。
3代藩主・綱貴の子供でしたが、父が再婚間もない頃だったため、曽祖父・島津光久の子供達と共に育ちます。
大藩・薩摩が跡取り問題で断絶などのことがないよう、
・四男の忠紀に越前家(重富島津家)
・七男の忠卿に今和泉島津家
を継がせる。
5代 島津継豊 1702-1760
4代藩主・島津吉貴の嫡男。
島津家には
・加治木島津家
・垂水島津家
の分家がありましたが、吉貴・継豊の代で、新たに
・越前家
・今和泉島津家
の2家が追加。
計4家が御一門(一門衆)となって、もしも本家に跡取りがいない場合、この分家から輩出できるように整備しました。
徳川の御三家・御三卿に似たシステムですね。
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なお、後に篤姫が、今和泉島津家から本家の娘(斉彬の娘)→近衛家の養女→徳川家定の妻として輿入れしております。
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