薩摩義士碑

薩摩義士碑/photo by Mikeneke wikipediaより引用

江戸時代

木曽三川の悲劇「宝暦治水事件」そして薩摩義士と家老の平田靱負は腹を切った

宝暦四年(1754年)4月14日は、宝暦治水事件における最初の犠牲者が発生した日です。

一言でまとめると

「幕府の無茶振りに対し、心理的に耐えきれなかった薩摩藩の現場担当者が腹を切った」

という話なのですが、事はそれだけで終わりませんでした。

順を追って、経過を見てみましょう。

 


長良川・木曽川・揖斐川が複雑に絡む土地

この件に大きく関わる治水工事が行われたのは、現在も岐阜県にある長良川・木曽川・揖斐川(いびがわ)です。

通称「木曽三川」とも呼ばれますし、地理の授業で「これが三角州だよ」「堤防で囲ってあるところが輪中だよ」なんて例に挙げられたりするので、聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか。

写真をご覧になると「あ、見たことある」と思われる方も多いでしょう。

三つの川が合流と分岐を繰り返す、大変複雑な地形の場所であり、長良川は、戦国時代において斎藤道三斎藤義龍父子が争った「長良川の戦い」でも有名ですね。

この辺りは急峻な地形のため、大雨が降ったとき大量の水が一気に流れ込み、たびたび土砂災害を起こしてきました。

例えば1540年代から1570年代にかけては11回も水害が起きたといいます。3年に一度の割合ですね。

もはや「移住先を探した方が良さそうな……」とも考えられそうですが、そんな簡単に行き先が見つかるものでもありません。

すでに豊臣秀吉の時代にも、工事で水害を減らそう!という取組はありました。

しかし木曽三川は複数の支流が網の目のように走り互いが繋がっていたため、どこかをいじると別の川に流れる水が増し「洪水地点が変わるだけで、結局水害になる」という問題が頻発。

宝暦治水事件当時の様子/photo by T/Y wikipediaより引用

それぞれの川の高低差も、これに拍車をかけました。

川は水運の要でもあったため「船を通れるようにしながら工事をしなければならない」というスーパーハードな条件が加わります。

そんなわけで幾度も工事が行われながら、慶長~宝暦の145年で110回も洪水が発生するという恐ろしいエリアになっていました。

 


手伝普請に任命されたのは薩摩藩

幾度も工事を重ねて失敗を繰り返し、ある結論に落ち着きます。

「三つの川を完全に分断すれば、水害が減るのではないか」

確かにこれならば、どこかを工事すると他の地点で水があふれるという事態は避けられるでしょう。

ただし、単に堤防を築くよりも膨大な費用と時間がかかります。

幕府としては、工事を請け負う藩の財政に痛打を与えることができるというメリットもありました。

この手の工事は「天下のためになる」という名目で”手伝普請(てつだいふしん)”と呼ばれ、費用の大部分は「手伝う側=命令された藩」が出さなければならないものでした。

現代でいえば、国が企業や自治体にインフラ整備を命じた上で費用をほぼ払わないようなものですかね。

幕府側のフォローをしておきますと、お金に関する無茶ぶりは藩だけではなく、幕府の中枢である老中なども同じ状況でした。

老中だからといって経費をたくさん使えるようになるわけでもなければ、手当が加算されることもなく、それでいて社交にかかる費用は増えたのです。

外様大名ともなれば推して知るべし。

江戸時代も中盤を過ぎてくると全国各藩のお財布事情は火の車となっており、そんな状況で「藩の力を削ぐ」という目的で工事を請け負わせるのですから中々にエグい。

洪水や川の規模からして大事業になることは明白でしたので、外様の大藩にこの役目が申し付けられました。

江戸からもっとも遠く、力を蓄えていた(と考えられていた)薩摩藩です。

島津家の家紋「丸に十文字」/wikipediaより引用

 


無茶振りに従わざるを得なかった薩摩藩

単純な石高規模として全国第二の大藩である薩摩は、幕府にとってはうまく舵を取りたい相手。

藩主の島津家は鎌倉時代以来、ずっと薩摩の地を領していますから、徳川家より由緒正しい家と見ることもできます。

いわば目の上のたんこぶですよね。

遠国だったのが幸いして、直接ぶつかることこそありませんでしたが、一方で薩摩藩も懐に余裕があったわけではありません。

むしろ武士の数が多く、しかも江戸から遠いため、参勤交代では莫大な費用がかかっていました。

大河ドラマ『篤姫』でも、薩摩から江戸に行くまでの道のりが非常に長いことが描かれていましたね。

篤姫/wikipediaより引用

薩摩藩にこの命令が下されたのは、宝暦三年(1753年)12月25日のこと。

ときの将軍は九代・徳川家重です。

家重は何らかの理由により言語不明瞭で、補佐役の大岡忠光や老中たちに支えられて職責を果たしていた人として知られますね。

そんな幕府からの命令に対し、薩摩藩では当然、揉めます。

「こんなお金がかかる工事なんてできない!」

「なんとかして断ったほうがいいのでは」

こうした常識的な声があがってきますが、家老の平田靱負はこう言い聞かせます。

「確かに難しい話だが、地域住民の役に立てば巡り巡ってお家の安泰にも繋がる」

たしかに素晴らしい心構えですが、当の薩摩にとっては、歯噛みする思いだったでしょう。

なんせ木曽三川など縁もゆかりも無いところです。

一体どんな風に工事を始めたのか?

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