宝暦四年(1754年)4月14日は、宝暦治水事件における最初の犠牲者が発生した日です。
一言でまとめると
「幕府の無茶振りに対し、心理的に耐えきれなかった薩摩藩の現場担当者が腹を切った」
という話なのですが、事はそれだけで終わりませんでした。
順を追って、経過を見てみましょう。
長良川・木曽川・揖斐川が複雑に絡む土地
この件に大きく関わる治水工事が行われたのは、現在も岐阜県にある長良川・木曽川・揖斐川(いびがわ)です。
通称「木曽三川」とも呼ばれますし、地理の授業で「これが三角州だよ」「堤防で囲ってあるところが輪中だよ」なんて例に挙げられたりするので、聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか。
写真をご覧になると「あ、見たことある」と思われる方も多いでしょう。
三つの川が合流と分岐を繰り返す、大変複雑な地形の場所であり、長良川は、戦国時代において斎藤道三・斎藤義龍父子が争った「長良川の戦い」でも有名ですね。
この辺りは急峻な地形のため、大雨が降ったとき大量の水が一気に流れ込み、たびたび土砂災害を起こしてきました。
例えば1540年代から1570年代にかけては11回も水害が起きたといいます。3年に一度の割合ですね。
もはや「移住先を探した方が良さそうな……」とも考えられそうですが、そんな簡単に行き先が見つかるものでもありません。
すでに豊臣 秀吉の時代にも、工事で水害を減らそう!という取組はありました。
しかし木曽三川は複数の支流が網の目のように走り互いが繋がっていたため、どこかをいじると別の川に流れる水が増し「洪水地点が変わるだけで、結局水害になる」という問題が頻発。
それぞれの川の高低差も、これに拍車をかけました。
川は水運の要でもあったため「船を通れるようにしながら工事をしなければならない」というスーパーハードな条件が加わります。
そんなわけで幾度も工事が行われながら、慶長~宝暦の145年で110回も洪水が発生するという恐ろしいエリアになっていました。
手伝普請に任命されたのは薩摩藩
幾度も工事を重ねて失敗を繰り返し、ある結論に落ち着きます。
「三つの川を完全に分断すれば、水害が減るのではないか」
確かにこれならば、どこかを工事すると他の地点で水があふれるという事態は避けられるでしょう。
ただし、単に堤防を築くよりも膨大な費用と時間がかかります。
幕府としては、工事を請け負う藩の財政に痛打を与えることができるというメリットもありました。
この手の工事は「天下のためになる」という名目で”手伝普請(てつだいふしん)”と呼ばれ、費用の大部分は「手伝う側=命令された藩」が出さなければならないものでした。
現代でいえば、国が企業や自治体にインフラ整備を命じた上で費用をほぼ払わないようなものですかね。
幕府側のフォローをしておきますと、お金に関する無茶ぶりは藩だけではなく、幕府の中枢である老中なども同じ状況でした。
老中だからといって経費をたくさん使えるようになるわけでもなければ、手当が加算されることもなく、それでいて社交にかかる費用は増えたのです。
外様大名ともなれば推して知るべし。
江戸時代も中盤を過ぎてくると全国各藩のお財布事情は火の車となっており、そんな状況で「藩の力を削ぐ」という目的で工事を請け負わせるのですから中々にエグい。
洪水や川の規模からして大事業になることは明白でしたので、外様の大藩にこの役目が申し付けられました。
江戸からもっとも遠く、力を蓄えていた(と考えられていた)薩摩藩です。

島津家の家紋「丸に十文字」/wikipediaより引用
無茶振りに従わざるを得なかった薩摩藩
単純な石高規模として全国第二の大藩である薩摩は、幕府にとってはうまく舵を取りたい相手。
藩主の島津家は鎌倉時代以来、ずっと薩摩の地を領していますから、徳川家より由緒正しい家と見ることもできます。
いわば目の上のたんこぶですよね。
遠国だったのが幸いして、直接ぶつかることこそありませんでしたが、一方で薩摩藩も懐に余裕があったわけではありません。
むしろ武士の数が多く、しかも江戸から遠いため、参勤交代では莫大な費用がかかっていました。
大河ドラマ『篤姫』でも、薩摩から江戸に行くまでの道のりが非常に長いことが描かれていましたね。

篤姫/wikipediaより引用
薩摩藩にこの命令が下されたのは、宝暦三年(1753年)12月25日のこと。
ときの将軍は九代・徳川家重です。
家重は何らかの理由により言語不明瞭で、補佐役の大岡忠光や老中たちに支えられて職責を果たしていた人として知られますね。
そんな幕府からの命令に対し、薩摩藩では当然、揉めます。
「こんなお金がかかる工事なんてできない!」
「なんとかして断ったほうがいいのでは」
こうした常識的な声があがってきますが、家老の平田靱負はこう言い聞かせます。
「確かに難しい話だが、地域住民の役に立てば巡り巡ってお家の安泰にも繋がる」
たしかに素晴らしい心構えですが、当の薩摩にとっては、歯噛みする思いだったでしょう。
なんせ木曽三川など縁もゆかりも無いところです。
一体どんな風に工事を始めたのか?
費用捻出がまず大変
当時の薩摩藩は実に66万両(!)もの借金を抱えていました。
大工事の費用捻出など一筋縄ではいきません。
そこで先にも登場した平田靱負をはじめとした薩摩藩のお偉いさんたちが、宝暦四年(1754年)の始めから手分けして大坂や京都の商人に頼み込み、まず7万両を工面しています。

元禄小判/wikipediaより引用
先に言ってしまうと、これだけでは全く足りず、靱負らは同様の苦労を再三味わうことに……もうイヤな予感しか湧いてきません。
薩摩藩はこの工事の総奉行を平田靱負に命じ、藩士1000名ほどを派遣しました。
幕府からは目付、普請役、勘定方、美濃郡代などが派遣され、工事を厳しく監督しています。
そして宝暦四年2月27日に工事が始まると、直後の閏2月2日には藩主・島津重年の夫人が亡くなってしまいました。
本来なら藩全体で喪に服すべきところで、幕府側は工事続行を指示。
なかなか酷い扱いですが、工事は前述の通り、大規模なものです。
「三つの川の流れを完全に分けて、水の勢いを減らすことによって水害を防ごう」という趣旨で、実行するとなるとそう簡単ではありません。
まずは既に壊れてしまっていた堤防を修理し、その上で流れを分ける工事をする予定でした。
薩摩藩士たちが次々に切腹
工事は、やはり簡単ではありませんでした。
この地域特有の入りくんだ地形で難航してしまい、宝暦四年(1754年)4月14日、幕府方監督者の叱責により責任を感じた薩摩藩士2名が自刃するという悲劇が起きてしまいます。
同時期に美濃方の武士も1名自刃していました。
こうなると工事の進捗が問題ではなく、幕府方の担当者が横暴な人物だったため工事が遅れたのでは……とも勘ぐりたくなります。
地元民にとっては「ありがてぇ」ということで、薩摩の人々に食事などが差し入れされたとも伝わります。
現地民に期待されていたのは不幸中の幸いと言いましょうか。
また、この年5月には薩摩藩主・島津重年が参勤交代の途中で現場に立ち寄り、労をねぎらうとともに自刃者を悼んだともいいます。
重年は当時26歳の若き藩主で、この工事のこともたびたび気にかけていたようです。
同年7月5日、藩主・重年は世子の島津重豪を連れて再び現場を見に来ましたが、その前後である同年6月~9月の間に薩摩藩士が36名も切腹しています。
同じ時期~翌年5月までに湿度と不衛生さからか、赤痢らしき病気が蔓延し、33名の病死者が出てしまいました。
この経緯では、病人が足手まといになることを危惧して腹を切ったというケースもあったかもしれません。
7月には大洪水が起きて、その分の工事も上乗せされました。
当然、費用が足りなくなり、現場から薩摩へ費用の工面が依頼されてきます。

河川や地形の状況に加え、夏の長雨や台風・春先の雪解けによる増水によって、工事可能な期間が限られていることも、遅延に拍車をかけました。
たとえ水が少ない時期に工事ができたとしても、その後、水が増加すればやはり溢れてしまうわけで……完全にいたちごっこ状態です。
「あっちを締め切ってダメならこっちを締め切る」
「工事してみたけどうまくいかなさそうだからここは中止」
そんな状況がひたすら続き、しかもその決定については現場にいない幕府のお偉いさんがするため、江戸~美濃間の連絡でまた時間が過ぎてしまう、もどかしい状況が続きました。
ついには薩摩藩からこんな声が持ち上がり始めます。
「幕府は我々をどこまで追い込むんだ! こうなったら一戦交えるべき!」
むろん勢いでそんなことをすれば潰されるだけの可能性のほうが高いでしょう。
幕府としては、これ幸いとばかりに「改易(お取り潰し)ね!」となるかもしれません。
そのため、現地に来ていた薩摩の家老・平田靱負(ゆきえ)は血気盛んな者たちをなだめ、幕府に窮状を訴える手紙を出しました。
どこの藩でもご家老は苦労するものです。

鹿児島市平之町の平田公園内にある平田靱負像/photo by Sakoppi wikipediaより引用
赤痢による犠牲者も出て、靱負もついに腹を切る
状況は一向に改善しない。
もはや、にっちもさっちもいかない状況で、追い打ちをかけるようにあるトラブルが起きるようになります。
せっかく作った堤防が壊されるのです。
犯人をとっ捕まえてみたところ、なんと「幕府の指示でやったから俺は悪くねえ!」(※イメージです)とのたまう始末。
薩摩藩士たちは「薩摩の金を絞れるだけ絞って、取り潰すつもりなんだな!」とさらに怒りを募らせてゆきます。
・工事はうまくいかない
・お金は出て行く一方
・許可を取らない切腹を幕府に責められかねない
責任者の靱負はこうした三重苦にあい、ほとほと困り果てました。
なんせ、工事を命じた幕府側でも、責任を感じた役人が宝暦五年(1755年)1月13日に切腹するほどです。
幕閣の横暴に耐えかねた憤死では?と指摘されますが、詳細はわかっていません。真っ黒ですね。
それでも薩摩隼人の意地か、靱負以下、生き残った藩士たちは宝暦五年3月下旬に工事を完了させるのです。
5月にはすべての現場で幕府方の確認も済み、靱負は5月24日、ついに国許へ報告書を出します。
そして翌5月25日、靱負は腹を切りました。
おそらく彼はずっと「私が責任を取るべきだが、ここを任されたからには、全てを見届けるまでは死ねん」と思っていたのでしょう。
薩摩の借金は500万両に膨れ上がり
宝暦治水工事に要した費用は最終的に40万両にも上りました。
このうち靱負らが借金で工面した総額が22万両、薩摩での増税などによって調達したのが15万両、幕府が負担したのは9900両とされています。
さすがに酷いですよね。
莫大な金額を都合するため、薩摩ではサトウキビを強引に収めさせ、堺などの商人に渡すことでやりくりしていました。
サトウキビ農家からすれば、ただの強奪でしょう。
薩摩藩は靱負という大切な家老と藩士の多くが犠牲になっただけでなく、領内からの恨みも買うという散々な結果になってしまいます。
あまりにも代償が大きかった。
後年、将軍家との婚姻にかかる費用を押し付けられた薩摩藩の人が「宝暦治水の費用よりはマシ」と言ったことがあるとかないとか。
現代だったら大炎上しそうですが、そう愚痴りたくなる気持ちは理解できますね。
しかも薩摩藩では、宝暦治水事件と将軍家との婚姻により、最終的に借金は500万両にも上ったといいます。
そんな状況でよく幕末に躍進できたな?と思われるかもしれません。
実はこの借金、島津斉興の依頼により、調所広郷が「無利子250年払い」といった強引な返済計画を貸し手に呑み込ませるなどして、実質チャラにしています。

調所広郷/wikipediaより引用
こうまでして完了に漕ぎ着けた工事。
さて、その効果はどうだったのでしょう?
ヨハニス・デ・レーケが工事を指揮
残念ながら「工事は上手くいった」とは言えない状況でした。
上流地域では工事前より水害が増した地点もあったほどで、その後、完全に解決されるのは明治時代に入ってからになります。
お雇い外国人のヨハニス・デ・レーケが工事を指揮したのです。

ヨハニス・デ・レーケ/wikipediaより引用
明治時代の三川分流工事は、国と岐阜・愛知・三重の三県によって工事と費用を分担。
当時の日本円で974万6000円かかりました。
こちらも現代の貨幣価値に換算するのは難しいので、明治時代の大きな工事と比較してみますと……。
鹿鳴館の建設費用18万円
敦賀線(米原-敦賀間)約20万円
鹿鳴館を54棟、敦賀線を48回作るのと同じくらいの費用がかかったんですね。
明治時代にそれほどの費用がかかり、お雇い外国人の力まで借りなければならない状況だとすれば、江戸時代に解決するのが不可能だったのも致し方ありませんね。
大正時代にようやく知られる
この悲劇は、幕府との関係や幕末のドタバタに紛れ、少なくとも大正時代あたりまで、地元鹿児島では全く知られていなかったとか。
1920年に鶴丸城の裏あたりに「薩摩義士碑」を設置。
事件の犠牲者を弔う碑が建てられ、ようやく鹿児島でも知られるようになってきたのだそうです。
岐阜県のお寺や神社でも、薩摩義士を葬ったところや、資料館を併設しているところがあります。
いずれかの地を訪れた際には、こういったところにも立ち寄って、悲嘆と無念のうちに亡くなった人々に手を合わせてみてはいかがでしょうか。
ただし、近年の伊勢湾台風などの大きな災害では相変わらず被害は出てしまいます。
最近はゲリラ豪雨などの局地的な災害も起きていますし、日頃から警戒を心がけておくしかありませんね。
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【参考】
安藤優一郎『江戸の給与明細』(→amazon)
木曽三川宝暦治水史料にみる「見試し」施工に関する研究(→link)
宝暦治水の回顧(→link)
海津市ホームページ(→link)
養老町の歴史文化資源(→link)
国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)







