こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【宝暦治水事件】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
費用捻出がまず大変
当時の薩摩藩は実に66万両(!)もの借金を抱えていました。
大工事の費用捻出など一筋縄ではいきません。
そこで先にも登場した平田靱負をはじめとした薩摩藩のお偉いさんたちが、宝暦四年(1754年)の始めから手分けして大坂や京都の商人に頼み込み、まず7万両を工面しています。

元禄小判/wikipediaより引用
先に言ってしまうと、これだけでは全く足りず、靱負らは同様の苦労を再三味わうことに……もうイヤな予感しか湧いてきません。
薩摩藩はこの工事の総奉行を平田靱負に命じ、藩士1000名ほどを派遣しました。
幕府からは目付、普請役、勘定方、美濃郡代などが派遣され、工事を厳しく監督しています。
そして宝暦四年2月27日に工事が始まると、直後の閏2月2日には藩主・島津重年の夫人が亡くなってしまいました。
本来なら藩全体で喪に服すべきところで、幕府側は工事続行を指示。
なかなか酷い扱いですが、工事は前述の通り、大規模なものです。
「三つの川の流れを完全に分けて、水の勢いを減らすことによって水害を防ごう」という趣旨で、実行するとなるとそう簡単ではありません。
まずは既に壊れてしまっていた堤防を修理し、その上で流れを分ける工事をする予定でした。
薩摩藩士たちが次々に切腹
工事は、やはり簡単ではありませんでした。
この地域特有の入りくんだ地形で難航してしまい、宝暦四年(1754年)4月14日、幕府方監督者の叱責により責任を感じた薩摩藩士2名が自刃するという悲劇が起きてしまいます。
同時期に美濃方の武士も1名自刃していました。
こうなると工事の進捗が問題ではなく、幕府方の担当者が横暴な人物だったため工事が遅れたのでは……とも勘ぐりたくなります。
地元民にとっては「ありがてぇ」ということで、薩摩の人々に食事などが差し入れされたとも伝わります。
現地民に期待されていたのは不幸中の幸いと言いましょうか。
また、この年5月には薩摩藩主・島津重年が参勤交代の途中で現場に立ち寄り、労をねぎらうとともに自刃者を悼んだともいいます。
重年は当時26歳の若き藩主で、この工事のこともたびたび気にかけていたようです。
同年7月5日、藩主・重年は世子の島津重豪を連れて再び現場を見に来ましたが、その前後である同年6月~9月の間に薩摩藩士が36名も切腹しています。
同じ時期~翌年5月までに湿度と不衛生さからか、赤痢らしき病気が蔓延し、33名の病死者が出てしまいました。
この経緯では、病人が足手まといになることを危惧して腹を切ったというケースもあったかもしれません。
7月には大洪水が起きて、その分の工事も上乗せされました。
当然、費用が足りなくなり、現場から薩摩へ費用の工面が依頼されてきます。
河川や地形の状況に加え、夏の長雨や台風・春先の雪解けによる増水によって、工事可能な期間が限られていることも、遅延に拍車をかけました。
たとえ水が少ない時期に工事ができたとしても、その後、水が増加すればやはり溢れてしまうわけで……完全にいたちごっこ状態です。
「あっちを締め切ってダメならこっちを締め切る」
「工事してみたけどうまくいかなさそうだからここは中止」
そんな状況がひたすら続き、しかもその決定については現場にいない幕府のお偉いさんがするため、江戸~美濃間の連絡でまた時間が過ぎてしまう、もどかしい状況が続きました。
ついには薩摩藩からこんな声が持ち上がり始めます。
「幕府は我々をどこまで追い込むんだ! こうなったら一戦交えるべき!」
むろん勢いでそんなことをすれば潰されるだけの可能性のほうが高いでしょう。
幕府としては、これ幸いとばかりに「改易(お取り潰し)ね!」となるかもしれません。
そのため、現地に来ていた薩摩の家老・平田靱負(ゆきえ)は血気盛んな者たちをなだめ、幕府に窮状を訴える手紙を出しました。
どこの藩でもご家老は苦労するものです。

鹿児島市平之町の平田公園内にある平田靱負像/photo by Sakoppi wikipediaより引用
赤痢による犠牲者も出て、靱負もついに腹を切る
状況は一向に改善しない。
もはや、にっちもさっちもいかない状況で、追い打ちをかけるようにあるトラブルが起きるようになります。
せっかく作った堤防が壊されるのです。
犯人をとっ捕まえてみたところ、なんと「幕府の指示でやったから俺は悪くねえ!」(※イメージです)とのたまう始末。
薩摩藩士たちは「薩摩の金を絞れるだけ絞って、取り潰すつもりなんだな!」とさらに怒りを募らせてゆきます。
・工事はうまくいかない
・お金は出て行く一方
・許可を取らない切腹を幕府に責められかねない
責任者の靱負はこうした三重苦にあい、ほとほと困り果てました。
なんせ、工事を命じた幕府側でも、責任を感じた役人が宝暦五年(1755年)1月13日に切腹するほどです。
幕閣の横暴に耐えかねた憤死では?と指摘されますが、詳細はわかっていません。真っ黒ですね。
それでも薩摩隼人の意地か、靱負以下、生き残った藩士たちは宝暦五年3月下旬に工事を完了させるのです。
5月にはすべての現場で幕府方の確認も済み、靱負は5月24日、ついに国許へ報告書を出します。
そして翌5月25日、靱負は腹を切りました。
おそらく彼はずっと「私が責任を取るべきだが、ここを任されたからには、全てを見届けるまでは死ねん」と思っていたのでしょう。
※続きは【次のページへ】をclick!