安永元年(1772年)12月5日、後に浄岸院(竹姫)と呼ばれる女性が亡くなりました。
清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)という公家の娘として生まれた竹姫は、順当に行けばそのまま京都で一生を終えていたのでしょう。
しかし、父の従姉妹がときの将軍・徳川綱吉に嫁いでいたことで、運命が大きく変わります。
お手がついて側室になったものの、子供ができなかったその女性は、大奥での地位を少しでも安定させようと考え、竹姫を養女にしたいと申し入れてきたのです。
年齢的に綱吉のお相手は無理でも、次の将軍のお手が付けば……と考えたのでしょうか。
ともかく竹姫の生涯を振り返ってみましょう。
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将軍の養女として3歳で江戸へ
正室(御台所)ならともかく、側室が養女を迎えるのは異例のことだったそうで。
綱吉は、一人娘が嫁ぎ先の紀州家で亡くなり、がっくり来ているところだったため、あっさり承諾してくれました。
江戸時代の公家はだいたい経済的に苦しい状態でしたから、清閑寺家のほうでも「都で不便な暮らしをさせるよりは、遠く離れることになっても生活に困らないようにしたほうがいい」と考えたのかもしれません。
かくして、竹姫が江戸に来たのは、綱吉が亡くなる五年前のこと。
わずか3歳でしたから、心情的にはほとんど武家のお嬢さんと変わらなかったでしょうね。
歳の近い武家の子弟中から、将軍の養女としてしかるべき嫁ぎ先選びが始まります。
最初は会津藩の嫡子・久千代との縁談がまとまりました。
9歳というそこそこの年齢差はありましたが、竹姫の父親は権大納言という高位の公家ですから、奥さんのほうが年下であればちょうど丸く収まりそうです。
※なお清閑寺家は藤原北家勧修寺流となります
富士山大噴火で良からぬ噂が歩き出す
しかし、先程「最初」と書いた通り、竹姫の縁談には二回目以降があります。
ここが彼女の人生の肝になるわけで、この久千代、そして次のとある親王との縁談、どちらも相手の早世によって無くなってしまうのです。
現実的に考えれば、当時、多発していた浅間山の噴火などが遠因のように思えます。
竹姫が将軍家に入った「宝永」という年号の時期は、やたらと浅間山や富士山が噴火しているのです。
特に富士山は、横っ腹に宝永火口を作るなど、現時点で史上最後となる宝永大噴火で、江戸でも灰が積もるほどだったとか。
そうなると、四大飢饉ほどではないにせよ不作になり、
・物価が上がる
・作物の栄養価が下がる
・栄養状態が悪くなる
という三連コンボで、ちょっとした風邪等でも命取りになる可能性が高まりそうです。
しかも当時は、火山の噴火にせよ何にせよ「天罰」や「祟り」が広く信じられていた時代のこと。
こうした状況を受けて「あのお姫様は縁起が悪い」という根拠のない噂が広まってしまいました。
誰が言い出したのかわかりませんが、ともかく、そのせいで竹姫の嫁ぎ先選びは難航を極めます。
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