万寿四年(1028年)12月4日は藤原行成の命日です。
今までは書の達人「三蹟」の一人として知られる存在でしたが、今年は大河ドラマ『光る君へ』もあって一気に知名度を上げてきましたね。
劇中では渡辺大知さんが演じて、常に物腰柔らかく、学識の高さが滲み出て、常に道長をバックアップする。
いわゆる「寛弘の四納言」としての姿が強調されてきましたが、実際のところどんな人物だったのか?
実は命日も道長と同じという不思議な縁がある、藤原行成の生涯を振り返ってみましょう。
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祖父の源保光に学識を伝えられ
藤原行成は天禄三年(972年)、藤原義孝の子として誕生しました。
父の義孝は藤原北家の出であり、祖父の藤原伊尹(これまさ)は、当時、円融天皇の摂政です。
行成は生まれて間もなく祖父の猶子となり、これは確実に将来を約束されたもんだろう!
と思いきや、不幸にも、行成の物心がつく前に祖父も父も亡くなってしまいます。
幼くして父方の後ろ盾を失う――かなりのハードモードですが、幸い母方の祖父・源保光(やすみつ)が健在であり、その庇護を受けて育ちました。
しかも、そのことがある意味彼を幸運に導いていきます。
祖父の保光は紀伝道(歴史)の学者であり、蔵人頭(天皇の秘書長のようなもの)などの経験もある、エリート文官でした。
漢学の知識も豊富で、孫の行成に惜しみなく伝えられたのです。
父方の遺産もありました。
当時の東宮である師貞親王は伊尹の外孫だったため、行成とは従兄弟の関係。
永観2年(984年)10月に師貞親王が花山天皇として即位すると、この血縁の近さから行成は侍従の官職を与えられ、側近く仕えることになります。
言わずもがな、天皇の側は政治の最前線です。
様々な政務や議論を肌で感じ、保光の教えも参考にしながら、若き行成は自らを育てていったことでしょう。
しかし寛和二年(986年)、突如、状況は変わります。
花山天皇が、右大臣・藤原兼家や藤原道兼らの陰謀によって譲位・出家してしまうのです。
【寛和の変】と呼ばれる政変ですね。
これによって、まだ数え7歳の一条天皇が即位。
花山天皇と一条天皇は父子ではないため、行成も”現職天皇の外戚”という立場を失ってしまい、代わって藤原兼家が台頭することとなりました。
藤原道隆・道兼・道長ら兄弟の台頭でもありますね。
行成は真面目に仕事をしていたおかげか、その後も少しずつ位階は上っていったのですが……官職のほうはあまり芳しくなかったので、能力を持て余していたかもしれません。
妻は源泰清の娘
藤原行成は永祚元年(989年)、源泰清の娘と結婚します。
その後、彼女との間には7人もの子供に恵まれていますので、夫婦仲は良かったと思われます。
ただし、残念なことに4人は夭折しており、妻も最後の子供を産んで亡くなっています。
行成は『権記(ごんき)』と呼ばれる日記をつけていて、妻の亡くなった日の記録には「結婚したと思われる日付」も書かれており、愛情の深さがうかがえます。
また、この翌年に行成は、亡き妻の妹と結婚し、彼女との間にも複数の子供をもうけました。
姉の遺児たちの面倒をみているうちに、結ばれたようです。
継室となった妹も賢明な人だったようで、後年、
行成へ無理やり置かれていった賄賂を受け取らず、出仕していた行成に急いで知らせ、事なきを得た
という逸話があります。
すると長徳元年(995年)、行成に運が巡ってきます。
蔵人頭を務めていた源俊賢(道長の妻である源明子の兄)が参議に昇進したため、このポストが空くことになりました。
このとき俊賢が、後任として行成を推挙し、一条天皇がこれを認めたため、一気に出世したのです。
行成は俊賢の引き立てに深く感謝し、生涯忘れませんでした。
時系列が前後してしまいますけれども、
「後に行成が俊賢の官位を超えた後も、決して上座には座らなかった」
「俊賢が出仕する日は行成が上座になることを防ぐため、わざと病気と称して出仕しなかった」
「どうしても同時に出仕しなければならないときは、向かい合わせになるよう席を調整した」
とされています。
これほど気遣われれば、推挙した俊賢も誇らしかったでしょう。
そもそも俊賢は行成に好感を抱いていたらしく、これより二年ほど前に「比叡山で君に関する良い夢を見たよ」と行成に伝えたこともありました。
当時は「夢=予言」といった価値観の時代ですから、言われた行成も良い気分になったはずです。
蔵人頭就任については、別のエピソードもあります。
右大弁の座を得て「快挙を成し遂げた」
別のエピソードとは以下の通り。
ある日、殿中で藤原行成が、藤原実方という貴族と和歌に関する口論になり、激怒した実方が行成の冠を投げ捨てるという暴挙に出ました。
現代でいえば、職場でいきなりズボンと下着をおろされるような恥辱の行為。
大慌てしてもおかしくないところですが、行成はあくまで冷静を保ち、宮中の掃除などを担当する役人を呼んで冠を拾わせ、髪を整えて冠を被り直したといいます。
これをたまたま一条天皇が目撃し、行成の落ち着いた言動を見て「行成ならば、蔵人頭を任せるにふさわしい」と思い、任官した……というものです。
ただし、残念ながら、この話は創作と見られています。
実方は一条天皇から多大な餞別をもらっていますし、武官として出世してきた彼ならば、都から離れた陸奥を任せられると判断してのことだったのではないでしょうか。
そんなわけで事実とは言い難い話ですが、行成の人柄と実方への同情が合わさり、このような話が作られたのかもしれません。
実際に、行成は蔵人頭になってからも仕事に励み、一条天皇に高く評価されていきます。
しかし、優秀な人ほどライバルも多いのも事実。
長徳四年(998年)、源相方(すけかた)という公家と【右大弁】という官職を争うようになりました。
ここで少し、当時の組織構造を確認しておきましょう。
朝廷では、まず一番上に【太政官】という機関があります。
トップは太政大臣や左大臣・右大臣が務め、その下に【左弁官】【右弁官】という機関があり、それぞれ4つの省を統括していました。
右大弁というのは、右弁官の長官にあたり、かなりの重職です。
というのも
・兵部省(軍事)
・刑部省(裁判・刑罰)
・大蔵省(財政)
・宮内省(天皇の財産管理や日常生活などの庶務)
という4つの重要な省を司りますので、出世争いで源相方(すけかた)が簡単に引き下がらないのも道理でした。
しかも源相方(すけかた)は、道長の縁者(道長と相方の父・重信が相婿)であるため、道長からも大なり小なり干渉があったようです。
そこで行成はどうしたか?
というと「自分がなぜ右大弁にふさわしいか」について、道長に対し過去の例なども引きながら説明したとされます。
さしもの道長も、この時点では天皇の外戚ではなく、ゴリ押ししきれなかったようで、行成は念願かなって右大弁に昇格。
よほど嬉しかったようで、日記に記録を残しています。
「30歳前に大弁の職についたのは、これまで貞信公(藤原忠平)と八条大将(藤原保忠)だけだった」
二人とも行成からすると半世紀ほど前の人々ですから、「快挙を成し遂げたぞ!」という喜びが見えますね。ちょっとかわいい。
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