『源氏物語』の主人公である光源氏。
光り輝くような賜姓皇族であり、天皇の子として生まれながら天皇にはなれない宿命を背負う――そんな光源氏のモデルは複数いるとされます。
血統や境遇から有力視されているのが源高明です。
天皇の子として生まれ、人格高潔でありながら、悲運の生涯を辿った人物。
そしてその娘である源明子は、藤原道長の妻となるのですから皮肉なものです。
そもそも父である高明は、藤原氏によって失脚に追い込まれ、娘は大切な後ろ盾を失ってしまいました。
永承4年(1049年)7月22日は、そんな源明子の命日。
どこか悲しげな雰囲気さえ漂っている彼女とその父、二人の生涯を振り返ってみましょう。

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)
光り輝くような醍醐天皇の第十皇子
源高明は、醍醐天皇の第十皇子として生まれました。
天皇は何が何でも皇子をもうけなければならない。
死亡率が低い時代ですから男子は多いに越したことはありませんが、あまりに多すぎても悲運に見舞われることになります。
たしかに平安中期となれば古代のように殺害されることはなくとも、かといって幸せな暮らしが待っていたわけでもない。
学識に富み、野心を抱いていなくても、天皇の血を引くというだけで排除される危険性すらあります。
外戚政治を狙う者たちは、とにかく自分とは関係のない皇子たちを政治の舞台から引きずり下ろすのが目的なのです。
源高明は、そうした悲運のもとに生きることとなりました。
まずは彼の生まれと官位を確認しておきましょう。
延喜20年(920年)更衣周子を母として生誕
延喜20年(920年)7歳で源氏を賜ると、延長7年(929年)に元服し、翌延長8年(930年)になると17歳で従四位上に叙される
天慶2年(939年)26歳で参議、公卿に列する
天暦元年(947年)権中納言
天暦2年(948年)中納言
天暦7年(953年)大納言
康保3年(966年)右大臣
康保4年(967年)左大臣
実にスムーズな出世をしております。
高明は、儀式書である『西宮記』を執筆できるほど有職故実に通暁していて、琵琶の名手でもあり、藤原師輔の三女と五女を妻としていて姻戚関係も盤石だったのです。

藤原師輔/wikipediaより引用
人相見からは「貴人の相」だとも言われていました。
光源氏も高麗人(こまびと)の人相見から、貴人の相であると指摘されています。
ここまでは占い通りの人生であり、同時に人相見は、彼の悲運も予見していました。
安和の変:源高明の失墜
康保4年(967年)、冷泉天皇が即位しました。
冷泉天皇は子供がいない上に病弱ですから、早い段階で「東宮を誰にするか? 一刻も早く決めておかねば!」という政治闘争が始まります。
まだまだ長幼の序が根付いていない時代ですから、兄も弟も関係なく対立構造が生じてしまう。
以下のように冷泉天皇の弟二名が候補とされ
為平親王:妃の父が源高明
守平親王:藤原安子(父は藤原師輔)が母
兄の為平親王が東宮となることが自然であるにもかかわらず、結果は藤原氏の推す守平親王となりました。
源高明にとって、藤原師輔は岳父です。
しかし師輔はすでに亡くなっており、その次世代の藤原氏たちは高明を追い払おうとします。
次世代とは、師輔の息子たちである藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家らのことで、彼らは「外戚不善の輩」と呼ばれながらも権力は絶大でした。

藤原兼家/wikipediaより引用
安和2年(969年)、事件が起こります。
為平親王を擁立するため守平親王の廃立を狙った陰謀があると、密告があったのです(【安和の変】)。
為平親王に娘を嫁がせていた高明は、この事件で失脚。
「出家を条件」に京都に留まることを希望するも、事件後、太宰権帥(だざいのごんのそち)とされ、筑紫へ左遷されてしまうのです。
そして3年後の天禄3年(972年)に帰京し、天元5年(982年)に死没。
享年69。
高潔で悲劇的な源高明が『源氏物語』の主人公モデルとされるのは、流罪で嘆く貴公子の姿が源高明のことを彷彿とさせたからでしょう。
では、その娘である源明子は、道長と結ばれ、どんな生涯を過ごすことになるのか?
没落した父のもとで生まれ道長の妻となる
源明子は天延3年(975年)の生まれ。
父の源高明が安和の変で失脚するのが安和2年(969年)のことですから、事件から6年後の生誕となりますね。
母は藤原師輔の娘である愛宮で、同母弟には源経房がいます。
父の失脚を受け、明子は叔父・盛明親王の養女とされ、その後は東三条院(藤原詮子)が庇護しました。
『光る君へ』では吉田羊さん演じていた野心的な女性ですね。

藤原詮子/wikipediaより引用
彼女は弟である藤原道長に、明子の面倒を見るように頼んだとされます。
明子にすれば自分の父を政治闘争により追いやった藤原兼家の子によって庇護されるという、かなり複雑な状況。
このころの皇室と藤原氏は婚姻関係が幾重にも絡まっていて、常に親戚同士で面倒を見ていたような構図とも言えます。
道長の結婚時期は諸説あります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
『光る君へ』では源倫子が先に結ばれましたが、史実ですと永延2年(988年)頃には、倫子と明子の二人とも結婚していたとみなされます。
当時は愛よりも、容姿よりも、血統が大事。
いや、それよりも権力が重要です。
源倫子の父・源雅信は当時トップクラスの有力者である一方、源明子は帝の血を引くとはいえ、父は没落しています。
道長は土御門殿の倫子を嫡妻として遇しました。
そうならなかった明子の心境は、道長の父・兼家への愛憎を綴った藤原道綱母『蜻蛉日記』が参考になるかもしれません。

浮世絵にも描かれた『蜻蛉日記』岳亭春信:画/wikipediaより引用
明子出生の子どもたち
源明子の夫・藤原道長だけでなく、その姉である東三条院(藤原詮子)も、国母として絶大な権限がありました。
道長の娘である藤原彰子を入内させるとなると、母である倫子の身分が障壁となる。
そのため東三条院は、倫子を従五位上から従三位まで昇格させました。
結果、倫子の産んだ男子は出世街道、女子は皇族に嫁ぐ、当時として最高の地位を得ることができています。
一方で、明子の子はどうか?
藤原頼宗:異母兄弟より遅れるものの、順調に出世
藤原顕信:突如出家する
藤原能信:悪質な暴行事件を度々起こしたトラブルメーカー
藤原寛子(小一条院女御):夭折
藤原尊子(源師房室):道長の娘の中では平穏な人生を送る/孫の藤原賢子は白河天皇の寵愛を受け、堀河天皇の国母となる
藤原長家:兄や甥の出世に不満はあった
明子の子供たちの中で特筆すべきは藤原能信かもしれません。
ともかく気が強く、陰謀気質。
しかもその企みの中には性的暴行事件も含まれていて、道長は何度も激怒していたと伝わります。
他の兄弟は異母兄である藤原頼通と協調していたのに、能信だけは逆らっていました。
そんな歪んだライバル心から生じたものなのか。
能信は、藤原氏との姻戚関係が薄い尊仁親王(のちの後三条天皇)を支持するという、最大のやらかしを起こしてしまいます。

後三条天皇/wikipediaより引用
後三条天皇は名君であり、かつ政治的な力も十二分に発揮しました。
言い換えれば外戚の干渉を抑え込むことができた。
外戚の権威低下は、国全体の政治にとっては良くても、それを権力の糧としてきた藤原氏にとっては最悪の事態。
そこを考えると、藤原一族から見た能信のやらかしは決して小さくないでしょう。
道長を満月とすると、その後の藤原氏の外戚政治は欠けてゆく月となる。
明子の血を引く子孫は、そこに足跡を残したとも言えますね。
★
なお「源明子」という人物が『源氏物語』に登場する色好みの老女・源典侍(げんのないしのすけ)のモデルとされることもあります。
この「源明子」は同名の別人です。
あわせて読みたい関連記事
-

暴力事件を繰り返し摂関体制を狂わせた藤原能信は道長と明子の息子
続きを見る
-

安和の変で源高明が没落|なぜ明子(道長の妻)の父は藤原氏に蹴落とされたのか
続きを見る
-

藤原道長は出世の見込み薄い五男|なのになぜ最強の権力者になれたのか
続きを見る
-

骨肉の権力争いを続けた藤原兼家62年の生涯|執拗なまでにこだわった関白の座
続きを見る
-

藤原詮子は道長の姉で一条天皇の母|政治力抜群だった「国母」の生涯
続きを見る
【参考文献】
倉本一宏『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』(→amazon)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』(→amazon)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
他





