大河ドラマ『光る君へ』で財前直見さんが演じた藤原寧子。
ご存知、藤原道綱母をモデルとする道綱の母であり、ドラマの中で夫の藤原兼家が亡くなるときは、長年連れ添った男女の、二人だけにしかわからないような深い愛情を感じさせてくれました。
そこで、こんな違和感を抱いた方もいらっしゃるかもしれません。
藤原道綱母がモデルならば、兼家のことを憎んでたんじゃないの?
おそらく『蜻蛉日記』を踏まえての感想でしょう。
彼女が記した同著の中で兼家の悪口はたくさんでてきますし、実際、兼家がクズ男であることもありありと浮かんできます。
しかし、男女の仲とはそう単純なものではないようで。
兼家を憎むだけでなく深い愛もあり、まさにメロドラのようなドロドロの愛憎劇となっていて、だからこそ今でも十分に面白い。
いったい『蜻蛉日記』には何が書かれているのか?
それを著した藤原道綱母とはどんな女性だったのか?
長徳元年(995年)5月2日は彼女の命日。
その生涯を振り返ってみましょう。
なぜ「◯◯の母」という名前なのか
韓国で社会現象を巻き起こし、日本でもベストセラーとなった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』には仕掛けがあります。
女性名がフルネームで書かれているのに対し、男性は「父」「弟」と固有名がついていないのです。
女性名を呼ばず「母」「娘」と呼ぶことが根強く残っている韓国社会。
その慣習を「ミラーリング」(男女を逆転させることで際立たせる手法)したものであり、歴史上の女性名までそうなっていると韓国の読者に気付かせる仕組みになっていました。
同様のことは日本でもあてはまります。
紫式部にせよ、清少納言にせよ、父の官職名を含めた女房としての名前であり、あくまで“誰かの娘”として認識されている。

紫式部/wikipediaより引用
藤原道綱母も、そのままズバリ「藤原道綱の母」です。
息子の道綱は母ほどの文才はない人物で、藤原実資から「自分の名前くらいしかわからない程度」と酷評されるほど。
歌合せでは「母が代作したんだろう」と言われたことすらあります。
この母と子は、男女間の不均衡を示す典型例でしょう。
ではなぜ道綱母は『光る君へ』で「藤原寧子」という名前となったのか?
あくまで推測ですが、父・藤原倫寧(ともやす)からの命名であり、北条時政と政子と同じパターンとなりますね。
大河ドラマの女性名は脚本家が自由につけます。寧子というのは、なかなか手堅いパターンの命名といえるでしょう。
日本史に名を残す美女ベストスリーにランクイン
「本朝三美人」という言葉があります。
日本の美女ベスト3という意味であり、この手のランキングになると定番の小野小町は入らず、以下の通りとなります。
◆衣通郎姫
美貌が衣を通り輝くほどである。同母兄である木梨軽皇子と通じ、心中したという。
◆光明皇后
聖武天皇の皇后で、孝謙天皇の生母。仏教に深く帰依する。
◆藤原道綱母
『蜻蛉日記』の作者。
かつては衣通郎姫ではなく、藤原延子 (藤原頼宗女・後朱雀天皇女御)が入っていました。
こうした美女伝説は、写真もない時代ですからエピソードで伝えられます。
衣通郎姫は悲恋伝説がそうであり、光明皇后は仏教への帰依と、権力欲があると評されたこと。

衣通姫(菊池容斎『前賢故実』/wikipediaより引用)
いわば周辺が語り継いだ伝説あっての存在となりますが、藤原道綱母は『蜻蛉日記』著者であることが大きい。
いわばセルフプロデュース型の美女であり、「こんな憂鬱な文章を書く作者は美女であればよい」という願望が彼女を伝説にしていったのでしょう。
道綱母は苦悩を記すことで美女となった、なかなかすごい女性です。
序文で「それほどの美女でもなく、しっかりした考えもないけれど」とわざわざ記しているにも関わらず、皆の心に残る存在となるなんて素晴らしいではありませんか。
実際、文才に長けた彼女は「三十六歌仙」と「百人一首」にも選ばれております。
違和感はあるけれど、彼を受け入れたあの日
藤原道綱母は承平6年(936年)頃に生まれたとされます。
父の藤原倫寧はせいぜいが受領クラスで、さしたる身分の生まれとは言えない。
それでも彼女の美貌と知性の噂が都に広まっていたのか、歳も19を迎えるころになると、求婚もちらほらと届くようになります。
そんなとき、26歳のハイスペ男子からアプローチがありました。
右大臣・藤原師輔の三男である藤原兼家です。

藤原兼家/wikipediaより引用
これには一家あげて大興奮。
兼家からそれとなく話を持ち出された父の藤原倫寧は「とんでもないことで……」と動揺したとされますが、内心は『よっしゃー!』と浮かれたことでしょう。
しかし、です。当人である道綱母の『蜻蛉日記』によると、「思えば初手からまずかった」と言いたげです。
気の利いた侍女にでも手紙を持たせればよいのに、兼家は従者に門を叩かせた。
しかも手紙がイマイチ。便箋からして事務的だし、文字だってどうにも雑……。
当時の姫ともなれば、いきなり返事をしたりはしませんので、道綱母が迷っていると、母がせっつきます。
偉い相手を待たせたらいけない――母にプレッシャーをかけられ道綱母は返信するのでした。
そんな儀礼的なやりとりでも、相手は熱心に距離を詰めてきます。
両親のハートも掴み、いわば外堀を埋められるようにして、やがて結婚へ向かう道綱母……というと、いかにも「相手がしつこいから仕方なく」という印象になりますが、この記述はあくまで後年に彼女視点で書かれた回想です。
言い訳というかアリバイというか、要は本心をごまかしている可能性はなきにしもあらずです。
だたし、手紙の紙がイマイチだとか、筆跡が雑だとか、細かいところまで覚えているのは、兼家に対してどこか違和感があったからこそ記憶していると言えるでしょう。
こうした感情は、いつの時代も普遍性があるのかもしれません。
現代でも「サイゼリヤ論争」があります。女性とデートへ行くのにイタリアンチェーンレストランでいいのか?というSNSで定番の話題ですね。
目的達成のためならば、コスパ重視でいいだろう。それで断る女っておかしくないか?
そんな合理的な意見をビシバシと展開する人はいますが、そこには決定的に欠けているものがある。
相手の「感情」を思いやる気持ちです。
なんでも効率だのコスパだの言い募り、そこしか見ない相手は棘を残すことを道綱母は訴えている。
そりゃね、どんな紙だって書かれる内容は同じかもしれないけどさ、右大臣家ともなれば高級紙を用意できるでしょうよ。
筆跡だって効率的にササっと書いた結果が、雑な感じになったのでは?
侍女を経由してのやりとりは非効率的だから、従者に門を叩かせればいい。どうせ私の家なら、右大臣の息子が門を叩けばどうにでもなると理解してそうするんでしょう?
でもね、そうじゃないんだな!
といった訴えを、彼女はしているようにみえる。だからこそ『蜻蛉日記』は今にも通じるのです。
平安のダメ男も女が妊娠出産すると足が遠のく
天暦8年(954年)、藤原道綱母は兼家の妻の一人となりました。
翌天暦9年(955年)には、男子を産みます。
そしてここからが、兼家のクズ男ぶりがわかる展開です。現代でも通じるクズ男の特徴を兼家は発揮します。
「妻が妊娠、出産すると、別の女に向かう」
永遠不変のあるある現象ですね。
出産で疲弊しきった妻の怒りは炸裂し、もう一生リカバリできない傷がつくパターンです。
しかも道綱母の場合、父の藤原倫寧が陸奥守として任地に赴任するタイミングとも重なっています。
砂金が取れる陸奥守は資産を増やせるよい任地です。とはいえ、あまりに遠い。現代ならば、海外赴任のようなものでした。
そんな不安の中で出産したというのに、兼家の反応はそこまでしっかりと書き留められていない。何か不穏なものを感じさせます。
そして出産後、最初の事件が起こります。
訪れた兼家が文箱を置いていました。それをチェックする道綱母。現代人ならば、男のスマホを確認する女のようです。
案の定といいますか、文箱の中には別の女にあてた恋文が……。嗚呼、なんということでしょう。
怒りのあまり、文に「どういうことなの」と書きつける道綱母。
兼家はその一月ほど後に、三日来訪しないことがありました。

平安京/wikipediaより引用
当時は三日通うと婚姻成立です。
つまり兼家は別の女と関係を持ったということであり、いかにもクズ男らしい言い訳をするのです。
「いやぁ、きみの心を試してみたくてね( ◠‿◠ )」
しかし、道綱母はそのままでは終わりませんでした。
夫の浮気を、夫の嫡妻に報告する
「宮中から呼び出されてさぁ〜」
藤原道綱母に向かってそう言いながら、夕方に出ていく兼家。
彼女が夫の牛車を尾行させると、別の女の家に泊まるではないですか。

画像はイメージです/wikipediaより引用
そんな衝撃的事実が発覚し、今夜も来ないであろうと思っていたときのこと。
兼家が門を叩く音がします。
しかしそのまま反応しないでいると、車は別の場所へ向かっていく。
そのとき詠んだ歌が、百人一首のこの歌です。
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
【意訳】あなたが来ないと嘆きながら、一人で寝ているとき、夜明けまで待つことがどれだけ長いかあなたにはわかる?
そう記し、菊を添えて兼家へ贈りました。
さて兼家からの返事は?
「夜明けまで門で待とうカナって思ったんだけど、急ぎの使いが来てさぁ( ^ω^ )
でもあなたの言う通りだね^ - ^
明けない冬の夜も辛いけど、門を開けて守られないのも辛いんダゾ♪」
むろん、そんな言い訳、道綱母には通じません。
いけしゃあしゃあと仕事だとぬかし、別の女のところに行くとか、ありえない……と苛立つばかり。
そして彼女は驚きの行動に出ます。
兼家の嫡妻である藤原時姫も、夫の浮気に悩んでいる聞き、こんな文のやりとりがされるのです。
道綱母「あなたのところも彼は来ないって本当ですか? 何を考えているんですかね。どの女のところに行っているんだか」
時姫「あの……あの人が全然来ないのって私のところですよね。あなたのところにいるんじゃないですか?」
なんでしょう、この恐ろしいやりとりは……。
不倫コミックの妻と不倫相手だと想像すると、全く洒落になっていませんし、時姫からすれば「ハァ!?」となりますよね。
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道綱母は、時姫にあえて歌を送るようなことをしばしばしています。
時姫はそっけない対応をするのですが、それを聞いた兼家は面白がっているとか。
いや、もう、ドロドロ過ぎて正直わけがわかりません。
別の女の出産を全力アピールする兼家
藤原道綱母は、たまに兼家がきても塩対応をするようになっていきます。
しかし、近所からはヒソヒソと言われてたまったものではない上に、あるとき、おぞましい音が聞こえてきました。
牛車が家の外をやたらと大音量を響かせて通ってゆく。

画像はイメージです/wikipediaより引用
何かと思えば、安産祈願をしている音――兼家が、別の女「町の小路の女」を愛車に乗せ、出産によい方角へ連れて行っているのでした。
これみよがしに道綱母の家の前を通って行ったのです。
「ありえませんよね、この道でなくてもいいのに……」と召使たちに気遣われながら、あまりの嫌がらせに呆然とするしかない道綱母。
しかもあろうことか事件から数日後、兼家から手紙が届くのです。
「ここのところ具合の悪い人がいるから、キミのところに行けなくてさ(ToT)
昨日無事出産したって。
出産の穢れがキミについたらまずいから迷惑だろうと会えなくてごめんネ」
はァーーーーーーー!?
あまりにフザけた言い分に怒りで我を忘れそうになりますが、実際、道綱母も意味がわからなすぎて再び呆然とするしかなかったようです。
「読みました……」
と、既読マークをつける程度の返事を出し、「生まれたのは男だ」と聞かされても、だから何なの?と唖然とするばかり。
しかも数日後、ノコノコ兼家本人が来訪するのだから、道綱母もろくに対応できません。
兼家は「いやぁ、ご機嫌斜めなんダナ^_^」的な手紙を送ってくるけれども、一体どうしろというのか。
しかし、ここで兼家のクズ男ぶりが、また展開を変えます。
「町の小路の女」は出産したため、どうも嫌気がさしたようで。
ざまーみろ、天皇の孫というだけでどうってことがない女だよ! 私の苦しみがわかったか!
ありのままにそう記す道綱母。
兼家は再び道綱母のもとへやってくるようになりました。しかし時姫もいるし、しらけきって喜ぶにも喜べない道綱母。
しかもこのころ、言葉を話し始めた息子の道綱が父親の真似をするものだから、ますます複雑な気分に陥ります。
そこで彼女は一念発起。
母の死をきっかけにして山寺に籠ると、愛欲から距離を置きました。
と、そんな簡単に割り切れるわけもなく、いつの間にか兼家との思い出トークが再開されます。
兼家が病気になって「こんなところで死んだら嫌だよ」だのなんだの苦しみながら言い出した話。
喧嘩して、道綱に「もうお父様とは会えないよ」と言ったら泣き出してしまったとか。
兼家の双六を見守ったり。出迎えられてキュンとしたり。しまいには兼家邸のそばに転居したり。
結局のところ、彼女は兼家のことが大好きなんですね。
「そんなこんなで15年経過したけど、なんだか憂鬱……」
そう嘆きつつ、とりあえず上巻は終わります。
三十日三十夜はわがもとに…そう願うけれど
三十日三十夜はわがもとに――彼女は中巻の冒頭でそう願っています。
「毎日あの人が私の元にきますように」と思うほど、彼女は兼家を一途に愛していた。
息子の道綱も15となり、そろそろ成人とみなされるころです。
兼家41歳。
道綱母は34歳頃。
道綱15歳。
このころまでは、若い頃燃え盛った恋がまだ続いていた時代といえます。
しかし、兼家は出世して権力欲がよぎってくると、道綱母にとっては苦い決着につながってしまうのです。
安和2年(969年)に【安和の変】が勃発。
源高明が失脚し、藤原氏が権勢を握りました。
このとき事件に巻き込まれて出家した高明の妻・愛宮に、道綱母は長歌を贈って労ります。
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天禄元年頃(970年)、兼家は東三条に邸宅を新築しました。
そこに道綱母も呼び寄せるつもりだったようですが、断念しています。
道綱母が病気であったからか、それとも別の理由からか。兼家の嫡妻である時姫と、道綱母は、それほどの身分差はありません。
前述の通り、道綱母は時姫に歌や書状を送ることもあります。時姫を母とする藤原道隆の次に生まれた兼家の子は藤原道綱でした。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
しばらくの間、この二人はそこまで差がついていなかったのかもしれません。
しかし、東三条邸に道綱母が入れなかったことで、勝敗は決定的になります。
宮中で道綱が弓比べをしたことを、嬉しそうに書き留める道綱母。
兼家はますます遠ざかっていきます。いっそ出家しようかと悩むけれども、道綱の行く末を思うとそれもできない。
兼家の家の近くに引っ越していることも、むしろ悲しい事態を引き起こしました。
兼家の車が家のそばを素通りする音が聞こえてくるのです。それなのに立ち寄らない。たまに立ち寄っても素直に喜べない。いっそ死にたいのに、道綱のことが気になってしまう。
父と母の間で翻弄される道綱は、とても子どもっぽく、親としては不安なのです。
そんな中で見かける時姫の子である道隆は、堂々として美しい洗練された貴公子ぶりを見せてきます。
同じ父の子なのにこの差は何なのか。ますます暗い気持ちになってしまう道綱母。
もう限界だと山籠りしても、結局はオロオロする道綱や、兼家への愛情を捨てきれず、戻ってきてしまう。
そんなとき兼家は「ほらやっぱり!」とゲラゲラ笑うのです。
そんな終わらぬ憂鬱な状態に、道綱母は沈んでゆく。
なんとも暗い中巻です。
兼家はますます出世を重ねている。
大納言となり、兼家は祝いの言葉もないのか?と道綱母に迫るものの、彼女は応じる気力も湧いてきません。
訪れても素直に出迎えることもなく、兼家は不満を漏らすのでした。
けれども、彼女の記す兼家の姿は、堂々たるものです。
洒落た服を身につけ、気力充溢した様子は、まさに今が自分の全盛期だと勝ち誇っているかのように映るのでした。
感動の親子対面と愛憎に区切り…悟りの下巻
人生に一区切りつけたいと考えたのか。
もう道綱以外には子もできないと理解した道綱母は、養女を迎えることにしました。
うってつけの話があります。
兼家は「町の小路の女」のあと、源兼忠の娘のもとに通い、女児を産ませていました。
この源兼忠の娘について、道綱母は「さほど魅力的でもないし、年増だから関係も長続きしない」と書き記しつつ、その女と連絡をとります。
心細く出家を考えていた相手は、道綱母が女児を養女にしたいという申し出をすると、快諾するのでした。
兼家の妾(しょう)の一人である道綱母が、別の妾の産んだ娘を養女にするわけです。
その養女を迎えるタイミングで、兼家がのこのこやってきます。
実は道綱母は、養女のことをほのめかしたところ、兼家はこう邪推したようです。
さては、おっさんになった俺を捨てて、若い男とその養女を育てるんだな!
それで戻ってくるって一体なんなのよ……。
しかし実際、養女の顔を見ると、とても愛くるしく、兼家は感心しています。そして、こうせっついてきた。
「かわいいなぁ。いったい誰の子だ?」
「うっとうしいなぁ。あ・な・たの子ですよ!」
「な、なにぃ! だ、誰に生ませたっけ? もしかして、あの女が母親だっけ」
「そうですよ、もー……」
「うわーっ、落ちぶれたとは聞いていたけど、こんなに大きくなっちゃって。放置してごめんよぉ!」
そうしてなぜか全員で泣く。袖を涙で濡らす。
かわいいからもう連れ返っちゃう!と本気とも冗談ともつかないことを言いながら、兼家は名残惜しそうに去ってゆきます。
そして、その後もたびたび「おちびちゃんはどうしているカナ」と手紙を寄越すようになったのでした。
道綱母の作戦勝ちでしょう。
男女のドロドロした愛憎を超えて、ほのぼのした展開になってゆく。
兼家はまだまだエネルギッシュなのに、道綱母は老けてゆく我が身を嘆くようになっています。
もう持ち前の美貌で惹きつけられなくとも、親子愛はあります。
彼女が引っ越すと、兼家は訪れなくなりました。さみしい日々を送っていると、兼家は露骨に道綱母の愛情を利用するようなことをしてきます。
兼家の従者がこう依頼してきたのです。
「冬の装束を仕立てていただけませんか。手紙はそのぅ、落としちゃいました!」
ハァ? 頼むだけ頼んで手紙がないとかふざけてんのか?
そう憤りつつ装束は仕立て、手紙はつけずに返すあたりが彼女の律儀さ。
その後も兼家は、難しい下襲(したがさね)の仕立て直しを、また手紙をつけずに頼み、従者はこう告げるだけです。
「さすがいい仕上げだね、と褒めていましたよ……」
もう駄目だ。終わりにしよう。
ついに彼女は見切りをつけ、天禄5年(974年)、21年にわたる愛憎を描く『蜻蛉日記』も終わりを迎えるのでした。
達観して生きてゆく彼女
『光る君へ』において寧子が登場したのは永観2年(984年)のこと。
日記執筆から10年が経過していました。
あれから様々なことがありました。
道綱の上司であり、兼家の異母弟でもある藤原遠度(とおのり)が、養女に求婚してきたのです。
年齢差もあり、困り果てた道綱母。
どうにかして諦めてくれないか?と気を揉んでいたところ、遠度が人妻を盗み出し隠していたというスキャンダルが発覚し、話はお流れとなりました。
道綱はおっとりとしていてマイペースで、どうにもパッとしません。
彼が歌を献じると、周囲はヒソヒソとこう囁いたものでした。
「あいつがあんな見事な歌を詠めるわけがないよな。あれは母が代作したっていうぞ」
道綱母はインスピレーションが降りてくる天才肌ではなく、努力家の秀才歌人です。我が子のためならば生真面目に歌を読んでもおかしくないと思われていたのでしょう。
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そして兼家は、ますます権力の中枢へと迫ってゆきます。
愛憎の月日は終わり、彼女の気掛かりは道綱のことだけ。
歌は苦手だし、聡明ではないけれど、善良な我が子をどうか見捨てないで欲しい。
それが『光る君へ』ではたびたび表現されていましたね。
兼家は時姫の産んだきょうだいとは区切りをつけつつ、一生懸命舞い踊る道綱を見て、かわいいと思っていると大笑いしていました。
そして寛和2年(986年)、兼家にとっては大きな区切りとなる政変が起きます。
【寛和の変】です。
時姫との間に生まれた子・藤原道兼が花山天皇を唆し、出家させたうえ退位させたのです。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
このとき道綱も、次の天皇のもとへ三種の神器を運ぶ役目を担いました。
次の天皇とは、兼家の孫にあたる一条天皇です。
天皇の外戚として、飛ぶ鳥を落とす勢いで頂点の登り詰める兼家。
道綱も、父や異母兄弟と共に出世街道を歩んでゆきます。
「なんで、あのアホが異例の速度で出世できるんだ!」
藤原実資がそう憤るほどの出世であり、道綱母としても喜ばしいことだったでしょう。
ドラマでは「(道隆の代になっても)道綱!道綱!道綱!」というシーンが目立っていましたが、結局、程なくして兼家は亡くなります。
それが永祚2年(990年)7月2日のこと。
では彼女は?
長徳2年(996年)に道綱母の周忌が行われています。
逆算すると、彼女の死は前年の長徳元年(995年)頃と推察。
日記の筆を置いてからおよそ20年後であり、兼家の死から5年後のことでした。還暦に近く、当時としては十分長い人生を送ったといえます。
※ちなみに長徳元年(995年)は疫病が大流行して多くの貴族が亡くなった年でもあります
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その後の道綱も、無難な人生を送りました。養女も異母姉である藤原詮子に仕えたという説があります。
若い頃のイライラを日記に残し、文学史に名を残す。
美女伝説を残す。
我が子も順調に出世。
何かと重い女とされがちな道綱母ですが、当時の女性として十分成功を収めた人物と言えるのではないでしょうか。
何より彼女の『蜻蛉日記』は紫式部にも影響を与えたとされます。
今でも面白い!『蜻蛉日記』
赤裸々でドロドロとした感情を紙にぶつける――そんな物語の先駆といえる『蜻蛉日記』は、日本文学史にその名を刻んでいます。
近代においては堀辰雄と室生犀星が『蜻蛉日記』を題材にして作品を執筆。
現代を生きる私たちにも『蜻蛉日記』は刺さることでしょう。
スマートフォンで文字のやり取りをする現代人には、彼女たちの和歌の生々しいやりとりが迫ってきます。
まるでゲス恋もののWebコミックでも目にしたようなリアルな憤りが湧いてくるではありませんか。
『蜻蛉日記』は比較的読みやすく、本稿にはない、格調高い歌と文章にあふれています。
『源氏物語』に影響を与えた先行作品だけに、引き込む力もあります。
『光る君へ』を楽しむためにも、おすすめの一冊ですし、今は文庫本だけでなく、気軽に手に取れる電子版もあります。
読めば兼家への憎しみが倍増しつつ、それでも二人にしか理解できないような愛情や感情も垣間見ることができて、なんだか笑ってしまう場面もあるはず。
『光る君へ』の脚本家・大石静さんと、道綱母を演じる財前直見さん、兼家の段田安則さんだけでなく、スタッフの皆さんとどれほど深い役作りをしているのかも理解できることでしょう。
平安のダメ恋図鑑『蜻蛉日記』、皆様もぜひ一度手に取ってみてください。
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【参考資料】
角川文庫ビギナーズ・クラシック『蜻蛉日記』(→amazon)
川村裕子『王朝の恋の手紙たち』(→amazon)
他







