平安貴族にとって“牛車”とは単なる乗り物にあらず。
大河ドラマ『光る君へ』でも、特に印象的だったのが【長徳の変】の始まりです。
藤原伊周が女性のもとへ忍ぼうとしていたところ、邸の前に「立派な牛車」がすでに停車していたことから、女性に「裏切られた!」と思い、その場から立ち去ってしまった。
しかしその後、現場へ引き返し、弟の藤原隆家が矢を放ったところ、立派な牛車の持ち主はマズイことに花山法皇であった。
一連の出来事は伊周と隆家の失脚に繋がっていて、ともかくこの場面のストーリー展開は
「立派な牛車を見たこと」
から始まっています。
実は『源氏物語』や『和泉式部日記』など他の書物でも、こうした牛車を利用したエピソードは載っていて、単なる乗り物以上の存在だったことが示されています。
では牛車には一体どんな種類があって、誰がどんな風に利用していたのか?
その歴史を振り返ってみましょう。

復元された平安の『半蔀車』宇治市源氏物語ミュージアム
牛車には格があり乗れる身分も決まっている
教科書や資料集、絵画、あるいは雛人形などで。
皆さまも一度は牛車を見たことがあるかもしれません。
実は屋根のある常用の車が「ぎっしゃ」と呼ばれ、屋根のない荷運び用の車は「うしぐるま」でした。
では牛車(ぎっしゃ)のほうには、どんな種類があったのか?
というと構成している素材によって“格”が変わり、乗れる人の身分も決まっています。
唐車(からぐるま)
最も格が高いのは「唐車(からぐるま)」といい、屋根の形が特徴的なため、ひと目見ただけでそれとわかるもの。
上皇や皇后、摂関など、当時最も偉い人々だけが乗用を許されたといいます。
逆にいえば、唐車を見たら「ほぼ100%皇族か摂関が乗っている」とわかったわけですね。
檳榔毛(びろうげ)の車
次が「檳榔毛(びろうげ)の車」です。
毛とついているため、なんとなく「動物の毛を使っている」と思ってしまいますが、実は植物の名前。
檳榔(びろう)は東アジアの亜熱帯に分布する常緑高木で、国内では沖縄・九州・四国南部にしかありません。
しかし朝廷には古くから知られていた植物でもあり、仁徳天皇の御製とされる和歌にも詠み込まれています。
この檳榔の葉を割いて糸状にし煮沸したもので車体を造った牛車が、檳榔毛の車です。
煮沸の際に色が抜けるため、白っぽい色になるのが特徴だとか。
こちらは四位以上の位を持つ大臣・大納言・中納言など、摂関に継ぐ地位の人々が使っていました。

画像はイメージです(土佐光起『源氏物語絵巻』/wikipediaより引用)
糸毛車
次に格が高いのが絹の縒糸(よりいと)で覆った「糸毛車」です。
こちらは中宮・東宮・女御などが主に使う車で、色糸で覆われていて文様が散らされるなど、見た目にも華やかなものだったようです。
網代車(あじろぐるま)
最もスタンダードなのが「網代車(あじろぐるま)」。
檜や竹を薄く削った板を組んで作ったものでした。
上記に当てはまらない貴族が一般的に使うと考えていいでしょう。
輦車(れんしゃ)
他に、女御となる女性が入内する際などに使われる「輦車(れんしゃ)」というものもありました。
これは牛ではなく人が引く車。
それだけでもなんとなく特別扱いだというのがわかりますね。
ちなみに天皇は牛車には乗らず「輿(こし)」を使うので、詳細は後述します。
牛車で身分を偽って……
「牛車の種類で使える身分が決まっている」
ということは、全く関係ないクラスの牛車に乗っていれば、自身の身分や素性を偽ることもできます。
平安時代の例でいえば、和泉式部に惚れ込んでしまった敦道親王が有名でしょうか。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)
こっそり通うために粗末な車を使用したり、女車(おんなぐるま)と呼ばれる外見に仕立てたことが『和泉式部日記』に書かれています。
「女車」とは車の種類ではなく、女性が牛車に乗る際のルールを適用した状態のことを指します。
牛車は乗り降りの便宜を図るために、四角い筒のような本体の前後にすだれをかけてありました。
女性が乗っている場合、すだれの内側にさらに布をかけて、中が見えないようにしていたのです。
さらにすだれの下から重ねた衣を覗かせて、衣装センスを誇示したりもしました。これを「出衣(いだしぎぬ)」といいます。
出衣は実際に着ているものではなく、出衣のために飾りとして用意することが多かったので、敦道親王はこれを利用して、女性が乗っているように見せかけたわけです。
愛の力のなせる技でしょうかね。
車種についても、本来の敦道親王であれば檳榔毛の車を用いるのがふさわしいでしょう。
しかし、最もスタンダードで出回っている数も多い(誰が乗っているかわかりにくい)網代車を使ったのではないかと考えられています。
『源氏物語』の光源氏も、女性の元へ通う際にたびたび網代車を用いていました。
また「葵」の帖で六条御息所が身分を隠して行列見物をしようと、古びた網代車を使ったために葵の上の従者に侮られ、かの有名な「車争い」のシーンも生まれています。
財政的に豊かな貴族の場合、色々な牛車を家に用意しておき、場合によって使い分けるということも珍しくなかった。
ゆえに、フィクション・ノンフィクション問わず、色々なドラマが生まれたんですね。
牛車の乗り方
牛車の乗り方についても見ておきましょう。
基本的には後ろから乗って前から降りるものであり、乗り降りには踏み台が用いられました。
高貴な女性の場合は、屋敷のすぐ横に牛車を寄せ、出発時も到着時も地面を踏まずに乗り降りすることが好ましいとされていたようです。
『枕草子』や『紫式部日記』などでは、それができずに一度牛車を降りなければならないことに対し、少々不満そうな様子が書かれています。
これは何も横着しているわけではなく、
地面に降りる
↓
どこから他人の目が向けられるかわからない
↓
男性に顔を見られてしまう可能性がある
↓
はしたない
といった理由かと思われます。
特に『紫式部日記』には、そのシーンで月が明るいとも書かれていますので、余計に恥ずかしかったでしょう。
また、牛車は4人まで乗ることができ、家族や友人・恋人、仕事仲間と同乗する場合もありました。
現代のタクシーと同じように席次があり、以下の番号順で目上の人が乗ることになっていました。
<牛車の前側>
②①
③④
<牛車の後ろ側>
物語などによると、ぎゅうぎゅう詰めにすれば6人まではなんとか乗れたようです。
当時の人は今より小柄でしたが、衣装がかさばるので、すし詰めっぷりはあまり変わらなかったかもしれませんね。
牛飼童
牛車は文字通り牛を動力とするので、牛を飼いならしてうまく牛車を動かす「牛飼童(うしかいわらわ)」という役目の人がいました。
牛の外見や力の強さなども評価されやすかったので、上手に使いこなす牛飼童は重宝されたことでしょう。
平安時代では主人が下男の宿舎などを用意してやったり、親子代々召し抱えることもあったため、生活上のメリットも大きかったはず。
いつの時代もただのゴマすりではなく、きちんと仕事をして認められることは大事ですね。
この「童」は文字通りの少年ということもあったと思われますが、こうした身分の低い人々は、身体的には大人になっていても元服せず、社会的に子供のままとして扱われました。
そのため絵画などでは、烏帽子を被らない姿で描かれています。
また、特に身分の高い貴族は威厳を保つため、牛車の左右に従者を付き従わせました。
このため牛飼童や従者は牛車の周りを徒歩でついていかなければならず、これだけでも重労働。
牛飼童の他に灯り持ちや靴持ちなど、それぞれの役目の人がおり、ちょっとした行列のようにも見えたようです。
一方で、牛の扱いに慣れていることを活かして運送業などの副業に励む牛飼童もいました。
別の家に仕えている牛飼童同士が飲み会をすることもあり、同業者でのつながりや付き合いもあったようです。
輿(こし)
輿(こし)についても見ておきましょう。
平安時代というか、貴族社会特有の乗り物であり、主に皇族の人々が乗るものでした。
現代では、葵祭の斎王代(さいおうだい)が乗っているため、ニュースなどにも映っていたりしますね。
当時の京都市民にとって最大の娯楽が行列見物です。
天皇が外出する際に輿を用いると、位置によっては見物客が帝の顔を拝することもできたため、より人々が押し寄せたのだと思われます。
『源氏物語』でも、輿に乗った帝を臣下が拝するシーンがあります。
「行幸」の帖で、玉鬘が冷泉帝の顔を遠目に見て、宮仕えに前向きな気持ちを持つ……というものです。
公にはされていないものの、作中の冷泉帝は光源氏の息子なので、見惚れてしまうのもむべなるかなというところですね。

駒競行幸絵巻彰子高陽院行啓/wikipediaより引用
牛車同様、輿にも複数の種類がありました。
天皇が儀式の際に乗るのは「鳳輦(ほうれん)」という輿であり、屋根に鳳凰が飾られていました。
略式の輿は「葱華輦(そうかれん)」といい、天皇以外には皇后・中宮なども用いました。
他に上皇や摂関などが用いる「四方輿(しほうごし)」というものもあります。
人が担ぐ分、牛車よりも輿のほうが大変に思えますが、便利な場合もあったようです。
例えば、災害などの緊急時の場合には、簡素な板輿で皇族が避難することもありました。
周りが騒がしい中だと牛も落ち着かないでしょうし、火が迫っていて牛飼童を呼びに行く余裕もない、といったときには、その場ですぐに担げる輿のメリットが大きくなりますね。
似たような理由で、貴人が地方へ出かける際、道が険しすぎて牛車を引かせられない場合は、輿が用いられました。
馬
馬についてもご紹介していきましょう。
馬といえば武士のイメージが強い方も多いかもしれませんが、実は平安貴族も乗る機会が多々ありました。
主に儀式の場や、お忍びで出かけるときに牛車の準備をする時間が惜しいときなどに使われています。
貴人の従者として従う男性も、よく馬を用いています。
主人が乗っている牛車の牛も、遠方へ行く場合は時折休ませなければなりませんので、そういった面での不都合はなかったのでしょうね。

狩野養信模「こまくらべ」の競馬の場面/wikipediaより引用
葵祭では「騎女(むなのりおんな)」といって、斎王に仕える女官が馬に乗って行列に従っていました。
現代の葵祭でも騎女が参加しているので、見たことがある方もおられるのではないでしょうか。
平安装束では女性も日常的に袴を用いていたため、比較的馬に乗りやすかったと思われます。
『源氏物語』では、「総角(あげまき)」の帖で、匂宮が馬でこっそり宇治へ行くシーンが印象的でしょうか。
そのとき、匂宮は「軽々しい行動が過ぎる」と母后・明石の中宮から叱られ、外出を止められていました。
しかし匂宮は、宇治の姫君・中の君と関係を持ったばかりで、外出を止められたのは最も大切な三日夜の餅の儀式をするべき日という間の悪さ。
そのためなんとしても匂宮は宇治に行きたいと思い、幼なじみで宇治への手引をした薫に嘆きます。
すると薫は
「私が中宮様に何とか言っておきますので、目立たぬように馬で宇治へお行きください」
と言い、匂宮は感謝して馬で宇治へ向かいました。
また『蜻蛉日記』では、著者である藤原道綱母の家の近所で火事があった際、夫の藤原兼家がやってきて、
「以前であれば馬に飛び乗ってでも来られたけれど、そうもいかない身分になってしまって……」
と、言い訳のような本音のようなことを口にしたシーンがあります。
やはり身分の高い人は、よほどのことがない限り牛車を使うもの、とされていたことがわかります。
それだけに、前述の匂宮の愛情がうかがえますね。
舟
最後に舟も見ておきたいと思います。
平安貴族の舟は、大きく分けて2つの役割がありました。
ひとつは、遊び道具の一つとして舟を用いるものです。
寝殿造りの絵や模型などでは必ず大きな池がありますが、そこに舟を浮かべて船上から庭を眺めたり、詩歌を詠んだりなどして非日常を楽しむものでした。
「三船の才」の逸話や、物語でもたびたび舟遊びの描写がありますね。
もうひとつは移動手段としてです。
特に地方へ赴任する国司やその家族は、道中に川や海があれば渡し船を用いました。
陸路は牛車を使い、途中で舟を使う場合は牛車を別の船に乗せて運び、対岸に着いたらまた牛車に乗っていたのです。
現代でも自家用車をフェリーで運び、現地でまた乗ることがありますので、似たようなイメージかと思われます。
なんでわざわざ牛車を持っていくのかというと、特に地方へ下る場合、現地で牛車が調達・修理できるとは限らなかったからです。
特に帰路のことを考えれば、持参するほうがより確実ですよね。
このように、動物や人の力を用いてさまざまな乗り物が使われていました。
大河ドラマ『光る君へ』に限らず、平安時代を描いた作品を鑑賞する際は、乗り物に着目してみるのも一興かもしれません。
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【参考】
京樂真帆子『牛車で行こう!-平安貴族と乗り物文化-』(→amazon)
国史大辞典
ほか





