和泉式部

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

飛鳥・奈良・平安

和泉式部は親王や貴族を虜にする“あざとい女”だった?恋多き女流歌人の素顔

2025/03/21

平安時代の貴族といえば、切っても切れないのが恋愛模様。

特に一定以上の身分がある女性は外出もしにくかった時代ですから、恋愛の始まりも継続も、男性の都合や言動に大きく影響されます。

恋愛経験が多いほど、そういった面で翻弄されることも多いわけで……。

大河ドラマ『光る君へ』でも、あかねとして登場するやいなや注目された和泉式部は、その最たる例でしょう。

「恋多き女」として現代に知られる和泉式部は、いわば「あざとい女」とか「小悪魔系」のようなイメージをされるかもしれません。

しかし実際はどんな女性だったのか?

3月21日は「和泉式部忌」――その生涯を振り返ってみましょう。

 


夫の任国赴任に従った和泉式部

歴史上の大多数の女性と同じように、和泉式部も生没年は不明。

天元元年(978年)生まれではないかとされていて、両親は父が大江雅致で、母が平保衡の娘でした。

母は、当時の太皇太后・昌子内親王(冷泉天皇の皇后)に仕えていた。

父は、長保元年(999年)に太皇太后宮大進(=太皇太后に仕える役人)だった。

そして和泉式部も昌子内親王に仕えていた、という説がありますが、こちらは判然としていません。

和泉式部の最初の夫となる橘道貞は、和泉守と太皇太后宮の役人を兼職していました。

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

二人が結婚に至る経緯は?

というと、おそらく和泉式部の父か母が橘道貞に娘の話をし、文のやり取りなどから始まったものと思われます。

結婚した年もハッキリとはしておらず、和泉式部と道貞が一回り以上の年齢差があったことは間違いないようです。

ただ、当初の二人は仲睦まじかったようで。

和泉式部が夫の任国赴任に従って、共に和泉へ行ったり、長徳年間(995年~999年)に娘・小式部内侍に恵まれたり、さらには和泉にいた頃と思しき歌にこんなものがあります。

言問はば ありのまにまに 都鳥 都のことを 我に聞かせよ

【意訳】都鳥よ、私が問うたときはありのままに都のことを教えておくれ

和泉の位置は、現在でいうと大阪南西部にあたります。

他の地域と比べれば都に近いながら、当時の交通事情では遠く感じたのでしょう。

都のことを知りたがりつつも、寂しさや帰京の念などはあまり感じられないので、この頃の生活には大きな不満はなさそうに思えます。

 


道貞が和泉で愛人を作り……

二人の生活に大きな変化が訪れたのは長保元年(999年)、昌子内親王が薨去したあたりです。

和泉式部は京都に留まるようになり、この頃から夫と別居を選びました。

よくある話ではありますが、道貞は和泉で愛人を作り、それが和泉式部には許しがたいことだったようで、道貞の家を出ると実質的な離婚状態に陥ります。

あくまで私見ながら、和泉式部は道貞のことを心底嫌ったわけではないのでは?と思います。

寛弘元年(1004年)に、こんな歌を道貞に送っているからです。

もろともに 立たましものを みちのくの 衣の関を よそに聞くかな

【意訳】あなたが任国に立たれると聞きました。今も私達が夫婦であったなら、陸奥の衣の関を一緒に越えたのでしょうね

完全に愛想が尽きていたら、こうした歌をわざわざ送らないのでは?

時系列が前後しますが、和泉式部が道貞の家を出てからこの歌を送るまでの間に、彼女は二人の親王との恋愛をしています。

その過程でなかなか辛い境遇になることもあり、もしかすると

「あなたがずっと誠実でいてくれたら、私達は今も夫婦でいられたはず。そうだったら、私はこんなに辛い恋の中に身を置くことはなかったのに」

という気持ちも入っているのかもしれません。

それに、当時の女性は本名を公にしないという習わしがあり、宮仕えなどの際は父親や夫の官職名から呼び名をつけることが多々ありました。

和泉式部の”和泉”は夫が和泉守だったことからきていると考えられ、世間的には

「和泉式部と橘道貞は夫婦である」

ということがかなり長く認識されていたと思われます。

また、道貞の”道”は藤原道長からとられたとも言われており、これまた後述する和泉式部の出仕先との関連も多少ありました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

これらのことを総合して考えると、道貞が世間体を気にして、多少なりとも和泉式部のもとに通うようになってくれることを期待していたのかもしれませんね……。

そして、複雑な感情の渦巻く中、和泉式部の前に現れたのが、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王でした。

 

為尊親王に続いて敦道親王と熱愛

為尊親王はなかなか好色な人物だったようで、和泉式部に熱を上げ、頻繁に通っていました。

しかし、いかんせん身分の差がありすぎます。

そのため和泉式部を正式な妻として迎えることができずに時間が経過。

そのうち為尊親王は病を得て、長保四年(1002年)に26歳の若さで薨去してしまいました。

和泉式部のほうでも身分の差に苦しみつつ、為尊親王を愛していたようで、その悲しみを伝える歌をいくつも詠んでいます。

しかし、彼女は高貴な男性にとって魅力的だったのでしょう。

次に、為尊親王の同母弟である冷泉天皇の第四皇子・敦道親王が和泉式部のもとに通い出します。

そしてその敦道親王との恋愛経緯を描いたのが『和泉式部日記』です。

かなり熱烈な恋愛だったようで、長保五年(1003年)12月、敦道親王は強引に和泉式部を屋敷へ引き取ってしまいます。

表向きは召使いの一人という立場でしたが、既に二人の仲は世間の噂になっていたため、敦道親王の嫡妻だった藤原済時の娘が激怒。

このことを知った藤原娍子(せいし/すけこ・敦道親王嫡妻の実姉)も同じく怒り、寛弘元年(1004年)に妹を引き取ってしまいました。

「日記」はここで終わっており、この後ほとぼりが冷めるまでどのような経過をたどったのかは不明ですが、しばらく和泉式部が肩身の狭い思いをしたことは間違いないでしょうね。

藤原娍子は三条天皇の皇后でしたし、敦道親王の面子やこれまでの経緯を思えば、実家や道貞に迎えを頼むこともできなかったでしょう。

三条天皇/wikipediaより引用

そんな状況の最中、

寛弘三年(1006年)ごろ、和泉式部が敦道親王の男子を授かったのです。

この子は”岩蔵の宮”と呼ばれ、後に出家して「永覚」と名乗ります。

しかし、幸せは束の間のことでした。

 


紫式部「素行は良くないが歌は素晴らしい」

寛弘四年(1007年)10月、敦道親王も若くして薨去してしまったのです。

立て続けに恋人を失った和泉式部は深く悲しみ、やはり歌にその気持ちをこめています。

今はただ そよその事と 思ひ出でて 忘るばかりの 憂きこともがな

【意訳】今はいっそのこと、宮様との悲しいことを思い出して、このつらさを忘れてしまいたい

その後いかなる経緯だったのか不明ですが、寛弘六年(1009年)頃、和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることとなります。

大河ドラマ『光る君へ』でもここが出番でしたね。

娘の小式部内侍も一緒だったようです。

前述の通り、小式部内侍は長徳年間(995年~999年)の生まれとされているので、出仕を始めた当時は大きくて14歳、小さければ10歳ほど。

前者であれば当時の基準では大人ですが、後者の場合は女房見習いの女童(めのわらわ)として仕え始めたのではないかと思われます。

彰子は長保元年(999年)に入内すると、寛弘五年(1008年)9月に敦成親王(あつひらしんのう・後の後一条天皇)を出産し、母になっていました。

このとき紫式部は和泉式部のことをどう思っていたのか?

紫式部(画:土佐光起)/wikipediaより引用

紫式部日記』で以下のように書かれています。

「素行はあまり良くないが、歌は素晴らしい」

男性関係を踏まえてのものなのか。普段の態度のことなのか。

ちょっと厳しい物言いですが、それでも和歌の才能は認められていますね。

同じく彰子の女房だった伊勢大輔と親しく語り明かしたとされています。

宮仕え時代の和泉式部についてはあまり逸話がないのですが、こんな歌が残されています。

おぼめくな 誰ともなくて 宵々に 夢に見えけん 我ぞその人

【意訳】あなたの毎晩夢に現れている人がいるでしょうが、怪しまないでください。私こそがその人です

この歌は「初めて恋文を出そうとする男性の代わりに作った歌」だとされています。

当時は「恋をすると相手の夢に自分が出る」という迷信があったため、夢と恋を結びつけた歌がたびたび詠まれました。

和泉式部がいつこの歌を詠んだのか。

実は判然としていないのですが、自宅や敦道親王邸にいた頃は代作を頼まれるような男性はいなかったでしょうから、宮仕え時代のものではないか?というわけです。

宮仕えをするとなると、公的な用事で男性と顔を合わせることもかなり多くなったようですし。

 

道長の家司・藤原保昌と再婚

和泉式部はその後、藤原道長の家司である藤原保昌と再婚しました。

保昌は武勇に優れ、「道長四天王」とも呼ばれた人物です。

天徳二年(958年)生まれなので、彼もまた和泉式部とはかなりの年の差があったと思われます。

藤原保昌/wikipediaより引用

主人の道長は和泉式部のことを「浮かれ女(うかれめ)」と称していたそうですので、あまり良い印象を持っていなかったようなのですが……。

本人たちがよほど燃え上がっていたのか、道長が単に軽くふざけていただけなのか、どっちなんでしょう。

保昌と和泉式部の関係も悪くなかったようです。

彼が丹後守に任ぜられた際は、和泉式部も一緒に任地へ赴き、その頃も別の男性に言い寄られても、跳ね返したと思しき歌が伝えられています。

我のみや 思ひおこせん あぢきなく 人は行方も 知らぬものゆゑ

【意訳】覚えているのは私だけなのでしょうか。人は私の行く先を知らないのに

もう少し砕けた説明にしますと、こうなりますね。

「私はもう保昌殿の妻ですし、一緒に任地へ行くことも決まりました。それすら知らないあなたが、今さら何を言っているの?」

当時は人の噂が唯一の情報源といっても過言ではありませんから、誰かの近況を知りたければ、同僚なり女房たちなりに聞いて回るのがセオリー。

逆に言えば、誰かに聞けば和泉式部の近況を知ることも難しくなかったわけです。

それすらしないのに、今さら口説きに来てもなびくわけがないでしょう……という気持ちだったのでしょう。

 

母娘そろって見事な和歌バトル

娘・小式部内侍をかばった逸話もあります。

小式部内侍のもとには藤原教通(道長の五男)が通っていたのですが、その兄である頼宗も惹かれて通っていました。

それを知った頼宗が機嫌を損ねて

人知らで ねたさもねたし 紫の ね摺りの衣 うはぎにもせん

【意訳】こんなことを隠していたなんて妬ましい。私が通っていたことは隠していたけれど、いっそのこと世間沙汰にしてしまおうか

という歌を送ってきたことがありました。

これに対し、和泉式部が以下のように返しています。

濡れ衣と 人にはいはむ 紫の ね摺りの衣 うはぎなりとも

【意訳】あなたがそんなことをしても、私たちは『濡れ衣だ』と言いましょう

母子のエピソードで目立つものはない代わりに、この歌からは和泉式部が娘のことを深く愛していたことが伝わってくるように思います。

一方、和泉式部と保昌が丹後へ行っている間、都に残った小式部内侍には、歌に関する武勇伝があります。

百人一首に採られている歌の話なので、ご存じの方も多いかもしれませんが……。

当時「小式部内侍は、母親の和泉式部に歌を代作してもらっている(だから本人の歌才は大したものではない)」という不名誉な噂がありました。

これを知っていた藤原定頼(藤原公任の長男)からこんなことを言われます。

藤原定頼/wikipediaより引用

「お母上から今度の歌会の歌は届きましたか? さぞ心細いでしょうね^^」

そこで小式部内侍が咄嗟に詠んだのがこちら。

大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

この歌を意訳すると、

「母のいる丹後までの間には、大江山を越えて生野の道を通っていかなければなりません。私は天橋立すら踏んでいませんし、母の手紙も見ておりませんよ」

となります。

手紙を意味する”文”と、土地を”踏む”をかけた見事な歌ですよね。

「私は母に代作など頼んでいませんが、何か?」

そんな風に撃退すると、定頼は面食らいすぎて返歌ができず、物笑いになったといわれています。

当時は、相手から和歌を送られたときには返歌をするのが礼儀だったのです。

なんだかラップバトルみたいですが、小式部内侍のカッコいい話であると同時に、定頼の口の軽さが伝わってしまった話でもあります。

ちなみに、父親の藤原公任も、紫式部に対して軽口を叩いてスルーされた……という逸話がありますので、悪いところが似てしまった父子だったのかもしれません。

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

話を和泉式部に戻しましょう。

 

娘に先立たれて詠んだ悲嘆の歌が……

万寿二年(1025年)、小式部内侍が出産により、若くして世を去ってしまいます。

和泉式部は大いに悲しみ、次の歌にその悲嘆が強く現れています。

とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり

【意訳】あの子は命が尽きるとき、誰のことを気にかけていただろう?きっと自分の子供のことに違いない。私だって親に死なれたときより、娘に先立たれた今のほうがつらいのだから

子を持つ親であれば、誰しも涙を誘われてしまいそうな歌ですよね。

この歌を見ると、和泉式部は、道長の言うような「浮かれ女」というより、良くも悪くも情が濃い女性だったのではないでしょうか。

古くから子供に先立たれて悲しむ親の歌や文学は多々ありますが、亡くなった子供の立場になって描かれたものは少なく、和泉式部の独特で優れた感性がうかがえます。

なお、小式部内侍が亡くなった頃、和泉式部も当時としてはかなり高齢の50歳前後と思われます。

その後どうしていたのか?

いつ頃亡くなったのか?

冒頭で触れたように、詳細は不明です。

藤原彰子のもとにいれば、何らかの記録は残されていたでしょうから、宮仕えの期間はあまり長くなかったのかもしれませんね。

和泉式部といえば「恋多き女」というのが一番強いイメージかもしれません。

しかし、こうしてみると「大切な人に次々と先立たれた女性」という面もかなり強いように感じられます。

感情豊かな分、死別のたびに深い悲しみ襲われ、周りの人に寄りかかりたくなるようなこともあったでしょう。

独特な感性と感情の振れ幅、優れた歌才が掛け合わさって、他の人には「理解しがたい女性」と認識され、最もわかりやすい特徴となる恋愛方面のことがクローズアップされて伝えられたのでは?と思ってしまいます。

それなのに単に恋愛経験が多かったというだけで「素行が悪い」と評されるとしたら、不憫でなりません。

素行の種類は異なりますが、道長も若い頃は相当乱暴なことをしていますし、その中には女性相手のものもありますので「アンタが言うんかい!」という気もしますしね。

画像はイメージです(源氏物語絵巻/wikipediaより引用)

ちなみに『和泉式部日記』には『和泉式部物語』という表記もあったようで「作者は別人では?」と見る向きもあります。

終わっている箇所もかなり中途半端ですし、散逸してしまった場面もあったかもしれません。

今後の研究や新発見によっては、和泉式部の人物像がガラッと変わる可能性も高そうですね。

最後に、彼女の恋以外の歌に注目してみたいと思います。

夕暮に 物思ふ事は まさるかと 我ならざらん 人にとはばや

【意訳】夕暮れ時に物思いに耽りやすくなるのは自分だけなのだろうか?私ではない誰か他の人に訊ねてみたい

都人 いかにととはば 見せもせん かの山桜 一えだもがな

【意訳】都の人に『旅先はどうでしたか』と尋ねられたら、あの山桜を一枝折って見せたいものだ

恋愛とは関係ない歌からも、和泉式部の優れた視点や感性が浮かび上がってくるような、そんな歌ではないでしょうか。

そして現代で最も有名なのは、やはり百人一首にも採られているこちらかもしれません。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一度の 逢ふ事もがな

【意訳】私の命はもうすぐ尽きるでしょうが、この世での思い出として、もう一度だけあなたにお会いしたいものです

この歌は、和泉式部が病みついていた頃に人に送った歌とされています。

送った相手が誰なのかはわかっていません。

しかし、彼女が生涯愛情深い人物であったことだけは伝わってくるように思います。


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【参考】
国史大辞典
『和泉式部日記 (講談社文庫)』(→amazon)
『新訳 詞花和歌集』(→amazon)
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon)
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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