こんにちは!
「れきしクン」こと長谷川ヨシテルです。
一般的にはマイナーかもしれないけれど、ある地域ではバツグンの知名度を誇るご当地・戦国武将を紹介している当連載。
今回は、レペゼン和歌山市の太田左近(おおたさこん)さんに注目です!
天正13年(1585年)3月21日は第二次太田城の戦いが始まった日。

太田城への水攻めが伝わる『総光寺由来太田城水責図』/wikipediaより引用
戦場となった和歌山県(特に雑賀エリア)のドタバタの戦乱と、織田信長と豊臣秀吉による【紀州征伐】とリンクさせて、太田左近さんを追って参りましょう!
紀州征伐で秀吉に水攻めされた太田城
和歌山市の歴史スポットと言えば?
江戸時代の御三家・紀州徳川家の居城となった「和歌山城」が有名です。
私は大河ドラマ『真田丸』が始まるタイミングで、真田信繁(真田幸村)と父の昌幸の謹慎地となった九度山(くどやま・和歌山県九度山町)を訪れたときにあわせて登城してきました。
御橋廊下と水堀と石垣と天守群の組み合わせ。実に美しかったなぁ。
和歌山城だけでも大満足でしたが、私にはもう1つ行きたい場所がありました。
それが同じ和歌山市内にある「太田城」です!
嗚呼……私が【豊臣秀吉vs太田城】のことを知ったのはいつだったでしょうか……。
おそらく『信長の野望 革新』をプレイしていた20代前半だと思うのですが、その頃からいつか行こう、絶対行こう!と決めていた太田城。
ここは秀吉が“水攻め”をしたレアなお城だったのです。
秀吉が水攻めをしたお城といえば―――
天正10年(1582年)
【本能寺の変】前後の「備中高松城」(岡山県岡山市)
天正12年(1584年)
【小牧・長久手の戦い】における「竹ヶ鼻城」(岐阜県羽島市)
天正18年(1590年)
【小田原征伐】での「忍城』(埼玉県行田市)※総大将は石田三成
そして、もう1つ!
それが……。
天正13年(1585年)
【第二次紀州征伐】における「太田城」
だったんですね。
味方の被害を最小限にとどめるため、水攻めを選択したとされる秀吉。
太田城の場合は、いかなる流れでそうなったのか?
まずは同エリアの歴史を振り返りながら見て参りましょう。
和歌山県、実はめちゃくちゃアツい土地なんです!
太田左近さん ゲームでの数値は低いけど……
戦国時代の紀州(和歌山県)というと、やっぱりキャラの濃いアノ地侍集団がですよね。
そう! 雑賀衆(さいかしゅう)です!
鉄砲をいち早く戦闘に大量使用した傭兵集団だったとされ、織田信長と10年戦争(石山合戦)を繰り広げた石山本願寺(後に「大坂城」が築かれる)にも援軍として駆け付け、織田軍を大いに苦しめました。
その頭領だったとされる「雑賀孫一」(鈴木孫一・鈴木重秀とも)は、司馬遼太郎さんの『尻啖え孫一』(→amazon)でも描かれたりして、現在は様々な戦国ゲームにも登場するなど、メジャーな戦国武将となっております。
私も『信長の野望 革新』では、非常にお世話になりました。
だって、めちゃくちゃ強いんですもん。
能力は次のような感じ。
雑賀孫一『信長の野望』データ
統率91
武勇94
知略82
政治28
政治が低いのは置いておきまして(笑)、特筆すべきはやはり戦闘能力でしょう。実に高い!
それに対する、今回の主人公・太田左近(実名は宗正)さんの能力は?
太田左近『信長の野望』データ
統率68
武勇55
知略42
政治38
よ、弱い……。
おまけに顔グラフィックも雑賀孫一に比べてチョー地味…。
しかし、しかしですよ!
アノ飛ぶ鳥を落とす勢いで天下人ロードを突っ走っていた豊臣秀吉が攻めあぐねた結果、水攻めをしているわけですから、能力値や知名度はさておき放っておけるわけがありません。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
たとえ数値は低くても太田左近さんだって雑賀衆の1人とされる人物です。彼らは非常に謎多き集団なのですが、それは土地の成り立ちから見ていくとわかりやすいかもしれません。
太田さんの出自でもある雑賀衆とは、雑賀とは?
雑賀衆vs雑賀衆!第一次紀州征伐
「雑賀」とは、現在の和歌山市全域と海南市の一部を合わせた地名のことです。
つまり雑賀衆というのは、雑賀に住む人々の集団(一揆)を指すんですね。もっと端的&現代風に言えば「和歌山市民」です(笑)。
この雑賀という地域は5つの「惣(そう)」と呼ばれるブロックで形成されていました。
【紀ノ川の河口部】
①十ヶ郷(じっかごう)
②雑賀荘(さいかのしょう)
雑賀荘には本願寺の別院である雑賀御坊(現在の鷺森別院)や雑賀孫一の平井城や雑賀城がありました。
【内陸部】
③中郷(なかごう)
④宮郷(みやごう)
⑤南郷(なんごう)
今回のクライマックスである太田城は宮郷(「社家郷」とも)にありました。
雑賀衆というと、先ほど触れたように―――
「一向宗が一枚岩で一致団結! 石山本願寺と共に信長と戦った!」
とまとめられてしまうこともありますが、実はそれは間違いです。
確かに一向宗(浄土真宗)は数が多いですが、それは河口部(十ヶ郷&雑賀荘)の方々で、内陸部(中郷&宮郷&南郷)では根来寺(和歌山県岩出市)を中心とする「新義真言宗」(真言宗の一派)を信仰する方々が主流派だったようです。
そのため、合戦においては一枚岩になるとは限らず、天正5年(1577年)の織田信長【第一次紀州征伐】では分裂しています。
河口部の雑賀孫一たちが鉄砲戦術やゲリラ戦法などを駆使して織田軍を散々に苦しめたのに対し、内陸部の太田左近さんたちはなんと織田信長に味方しているのです。
そのため、雑賀孫一ら“海の雑賀衆”は信長と和睦を結んだ後、裏切った報復として“陸の雑賀衆”でリーダー的な存在となっていた太田左近さんの太田城を攻撃。
これが天正6年(1578年)に起きた【第一次太田城の戦い】と呼ばれる合戦です。
アツいですね。
なんせ【太田左近さん vs 雑賀孫一】という鉄砲の達人たちによる身内争いですからね。
陸の太田左近さん軍には、根来衆(根来寺の辺りに住んでる僧兵たち)が援軍として駆けつけました。
そしてこの攻城戦は、城を包囲した雑賀孫一が優位に戦いを進めました。
しかし、堅城の誉れ高い太田城に籠城する太田左近さんもしぶとく、戦いは約1ヶ月にも及びます。
攻めあぐねた海の雑賀衆は鍬を使って堀を崩そうともしたそうですが、結局、こう着状態が続き、最終的には和睦が結ばれノーサイド。
和議ではあったのですが、太田左近さんは本願寺に謝罪をすることとなり、今後は海の雑賀衆と一致団結して戦う旨を伝えて許しを得ています。
まぁ、太田左近さんは事実上の敗戦と言えるかもしれません。
石山本願寺 ついに信長に屈する
それから2年後の天正8年(1580年)。
太田左近さんが詫びを入れた石山本願寺も、ついに信長と和睦に至りました。
こちらは言ってしまえば降伏です。本願寺の法主(ほっしゅ・教団の最高指導者)・顕如(けんにょ)は石山本願寺を去り、信者が多かった雑賀の地を頼って雑賀御坊へ。
貝塚御坊(大阪府貝塚市)に移るまでの約3年間、ここを本拠地としました。

本願寺鷺森別院/photo by ブレイズマン wikipediaより引用
一向宗の総本山である本願寺が信長に降伏したことで、太田左近さんら雑賀衆も信長に従うことになりました。
雑賀衆の中でも一番メジャーな雑賀孫一は「信長と敵対し続けた!」と思われがちですが、孫一もこの時から信長と急接近。織田家の忠臣となっています。
ところが、です。雑賀衆の中ではアンチ信長の勢力も当然残っていました。
その代表が土橋守重(つちばしもりしげ)という人物。
娘が雑賀孫一に嫁いだという説もあり、雑賀孫一の義父ともされるお方です。つまり身内同士で方針が大きく変わってしまっている。
と、雑賀孫市は天正10年(1582年)1月23日、刺客を送り込んで義父・土橋守重を殺害! アンチ信長勢力を粛清しました。雑賀衆は内部が結構ドロドロですね……。
ところがです。
皆さんご承知の通り、1582年6月2日に【本能寺の変】が勃発!
明智光秀に攻められた信長は敗死し、後ろ盾を失った雑賀孫一は、アンチ信長勢力から反撃を受けて失踪。歴史の表舞台から一時的に姿を消します。
その後は、秀吉の家臣となって【小牧・長久手の戦い】などにも従軍したと言われていますが、詳しいことは分かりません。
物語では“権力者に従わないあっけらかんな傾奇者(かぶきもの)”として描かれる雑賀孫一ですが、実情はやはり戦国生き残りをかけたイチ国衆だったのかもしれません。
ちなみに、雑賀孫一の息子とされる「鈴木重朝」(雑賀孫一と同一人物説もあるなど出自の詳細は不明)も秀吉の家臣として【小田原征伐】や【朝鮮出兵】に従軍したとされます。
【関ヶ原の戦い】の前哨戦である【伏見城の戦い】では西軍につき、徳川家康の幼馴染的な忠臣・鳥居元忠を討ち取る功績を挙げました。

鳥居元忠/wikipediaより引用
戦後は西軍に味方したため浪人となったものの、しばらくして伊達政宗の家臣に。
その後は徳川頼房(水戸徳川家の初代・徳川光圀の父)の旗本となり、末裔は代々、水戸徳川家の家臣となっています。
岸和田合戦~秀吉には屈しない!
話を本能寺の変に戻しまして……。
信長の死をキッカケにアンチ信長勢力が主導権を握った雑賀衆。その後は、海と陸、さらには根来衆との間に協力システムが築かれることとなりました。
リーダー的な存在だったのは土橋重治(つちばししげはる)というお方。この人物は暗殺された土橋守重の弟です。
「あれ? どっかで見た名前だな……」と思われる戦国ファンの方もいらっしゃるかもしれません。
そうです、この土橋守重という人物は、明智光秀が【本能寺の変】後に協力をしてもらおうと書状を送った相手として、歴史の書物等々で名前がちょこちょこ出てくる雑賀衆の筆頭です。

明智光秀/wikipediaより引用
残念ながら大河ドラマ『麒麟がくる』では登場しませんでしたね。
太田左近さんをはじめとする雑賀衆が明智光秀と連携を取ろうとしたかは不明ですが、これまたご存知の通り明智光秀は【山崎の戦い】で秀吉に敗れて、敗走中に死去。
時代は秀吉に傾き始めるのです。
しかし雑賀衆は、大胆にもこの時勢に逆らいます!
天正12年(1584年)、元旦のこと。雑賀衆や根来衆の連合軍は紀州を北上して、なんと秀吉方の岸和田城(大阪府岸和田市)に朝駆けを仕掛けたのです。
天下まっしぐらの秀吉に、まさかの先制攻撃!
雑賀衆による渾身の城攻め――。
しかし、その相手も秀吉と共に修羅場をくぐってきた強者です。
豊臣政権の重臣で、岸和田城主の中村一氏(なかむらかずうじ)は、この奇襲を防ぐと、1月3日、逆に雑賀衆へ攻撃を仕掛け、両軍は16日に激突します。
結果、雑賀衆たちは敗れ、紀州に戻りました。
これに怒った秀吉の紀州征伐が始まる……かと思ったら、そうではありませんでした。
3月に入ると、雑賀衆たちは再び秀吉の隙を突いて挙兵します。
実はこの時、秀吉は織田信雄(のぶかつ・信長の次男)と徳川家康を相手にした合戦【小牧・長久手の戦い】に出陣しなくてはならない状況だったのです。
家康らと連携を計っていたという雑賀衆は、このタイミングで軍勢を2つに分け、水陸から襲撃。
1つの部隊は2ヶ月前と同じ岸和田城を攻め、もう1つの軍勢が攻め込んだのはなんと摂津国の大坂城でした! 超大胆!
大坂城はまだ築城中ということもあって防御力は低く、城下は雑賀衆たちによって焼き払われたといいます。
雑賀衆、どんだけ秀吉が嫌いなのよ!
かように大坂城を脅かした雑賀衆たちですが、結局は多勢の中村一氏に追い払われ、紀州へ撤退を余儀なくされます。
明確な記録は残されていないものの、太田左近さんも雑賀衆の大将クラスですので、これに参戦していた可能性はあるでしょう。
いやはや、雑賀衆の放胆さを物語る合戦ですね。
なお、この岸和田城を巡る一連の戦いは【岸和田合戦】と呼ばれています。
ついに勃発……第二次紀州征伐
秀吉ではなく家康&織田信雄に味方する道を選んだ雑賀衆。
しかし、戦略巧みな秀吉は織田信雄と和睦を結んで合戦を終結させ、結果的に家康も配下に加えることに成功し、雑賀衆の同盟相手を次々にサレンダーさせていきました。

織田信雄/wikipediaより引用
残されてしまった雑賀衆……。ヤバくないわけがありません……。
「あの雑賀衆め!絶対に許さん!!」
秀吉がそう言ったかどうかは知りませんが、事あるごとに北上して攻撃を仕掛けてくる雑賀衆ら紀州の軍勢は、秀吉の次なる討伐のターゲットとなってしまいます。
さぁ、お待たせしました…。
こうして、太田左近さんがその名を残すことになる天正13年(1585年)【第二次紀州征伐】が始まったのです!
3月20日に豊臣秀次(ひでつぐ・秀吉の甥)が先陣として3万の軍勢で出陣。翌21日には秀吉が10万以上という大軍で出陣し、岸和田城へ入城しました。

豊臣秀次/wikipediaより引用
そして、岸和田城の南に築かれた雑賀衆たちの支城群へ攻撃を仕掛け始めます。
主な支城は5つ。
現在の貝塚市の近木川沿いに、北から
◆畠中城(はたけなかじょう)
◆沢城(さわじょう)
◆積善寺城(しゃくぜんじじょう)
◆高井城(たかいじょう)
◆千石堀城(せんごくぼりじょう)
と連なって築かれていました。
5つの支城郡の中で最も激戦となったのは?
それが千石堀城でした。
大爆発! 千石堀城の戦い
秀吉が岸和田城に入城した3月21日の夕方から豊臣秀次が大将となってさっそく攻撃が開始。
攻め手の武将には“名人久太郎”と称された元信長の側近・堀秀政(ほりひでまさ)や、『麒麟がくる』で駿河太郎さんが演じた筒井順慶(つついじゅんけい・明智光秀の与力大名)などもいます。

筒井順慶/wikipediaより引用
一方、千石堀城を守っていたのは大谷左大仁という根来衆の荒法師。弓の名手でもあり、千数百人いた城兵は火縄銃で武装していました。
城も大規模な二重の堀を設けていて、防御力も優れていたため、豊臣秀次軍は1,000人以上の戦死者を出してしまったと言います。
さすが根来衆&雑賀衆!
攻城戦は翌日の朝方まで行われ、長期戦は必至か――と思われたところで、筒井順慶の軍勢が放った火矢で城に火がつき、延焼して火薬庫に着火。
大爆発が起きたことをキッカケに豊臣秀次軍の総攻撃が行われ、千石堀城は落城しました。
【千石堀城の戦い】といいます。
その他の支城群も、以下のような形で次々に秀吉軍の手に落ちていきました。
畠中城
千石堀城の落城を受けて、自焼して撤退し落城
沢城
二の丸まで落とされてしまい降伏し開城
積善寺城
細川忠興(ただおき)・蒲生氏郷(うじさと)・大谷吉継・池田輝政などメジャーな武将たちの攻撃を凌いでいたものの、貝塚御坊の卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)の説得で開城
高井城
福島正則らの攻撃を受けて落城
主人公の太田左近さんは、どこにいたんでしょう?
ちょっと分かりません(笑)。
さて、和泉国の南部を制圧した秀吉軍は、ついに雑賀衆の本拠地である紀伊国に攻め込みます。
秀吉軍はいくつかの部隊に分けて攻撃を開始。
根来衆の拠点である根来寺もターゲットとなり、3月23日に秀吉軍が迫ると残されていた僧侶たちは逃走し、瞬く間に秀吉軍の手に落ちてしまいました。
そのとき根来寺は炎上し、歴史的な大伽藍は3日間にわたって燃え続けたといいます。
炎上の理由は“秀吉の命令による焼き討ち”とか“秀吉軍の放火”、あるいは“根来寺による自燃”など諸説あります。
運よく燃え残った大塔は現在、国宝に指定されていて、秀吉軍が放った火縄銃の銃弾の痕が残されています。
土橋が逃げても左近は逃げず
そのころ雑賀にも、秀吉軍の脅威は迫っておりました。
22日には雑賀衆の一党だった岡衆(代表は信長を狙撃した伝説のある岡吉正?)が秀吉軍に寝返り、同じく雑賀衆の湊衆を攻撃(湊衆の代表は大坂の陣で豊臣秀頼に味方して紀州で一揆を起こした湊惣右衛門?)。
そして雑賀衆のリーダーだった土橋重治は、同盟相手の土佐国(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を頼って逃走してしまいます。

長宗我部元親/wikipediaより引用
信長の死を契機に一つになっていた雑賀衆は、それぞれの生き残りをかけて再び分裂してしまったのです。
しかし、そういったアゲインストの中でも、秀吉軍に降伏せず、また逃走もせず、孤立無援でも戦ったのが太田左近さんの率いる雑賀衆でした。ここには根来衆の残党も加わっています。
秀吉軍は太田城へ攻撃を仕掛けたものの、太田左近さんの軍勢は待ち伏せをして火縄銃を巧みに用いて迎撃。秀吉軍53人(51人とも)を討ち取ったといいます。
千石堀城の戦いなどで多くの将兵を失っていた秀吉は「これ以上の被害を防ごう…」ということで、太田城の周囲に堤防を築き“水攻め”をすることに決定したのです。
秀吉は明石則実(あかしのりざね・黒田官兵衛の従兄弟)に命じて、3月28日(25日、26日とも)から堤防工事をスタート。
46万9,200人を動員し、わずか6日間で、高さ5m前後&全長6~7kmの大堤防を完成させたと言います。
おそらく、動員数や期間に関しては盛りに盛られている情報でしょうけど、4月1日になると太田城の周囲には紀ノ川から水が引き込まれてしまいました。
泳ぎの得意なメンバーが軍船を沈めたり堤防を破壊したり
取り囲んだ約6万の秀吉軍は、総大将の秀吉に副将の豊臣秀次と豊臣秀長(秀吉の弟)。
さらに、宇喜多秀家(秀吉の猶子・後の五大老)、小西行長(後の五奉行)、細川忠興、蒲生氏郷、蜂須賀小六など、錚々たるメンバーでした。
対する太田城の城兵はわずか4,000~5,000。
しかも、その多くが老人や女子供だったといいます。まさに絶望的状況……!
こんな戦況でも屈することのなかったタフな太田左近さんでしたが、非常に運が悪いことに、なんと3日から大雨が降り始めて水量が増してしまいます。
チャンス!と見た秀吉は、中川秀政(信長の娘婿)に命じ、軍船を太田城に寄せて、鉄砲や矢を放って攻撃を仕掛けました。
太田左近さんは怯まずに鉄砲で迎え撃ち、その最中に城兵の中から泳ぎの得意なメンバーを選抜して密かに敵の軍船に近づかせて船に穴を開け、撃沈することに成功したといいます。
また、4月9日には堤防の一部が決壊し、宇喜多秀家の陣営に水がなだれ込み、多くの溺死者を出してしまったそうです。
実はこの堤防決壊も、太田左近さんの配下によるものと伝わっています。泳ぎが得意な家臣が堤防に接近して破壊したんですね。凄まじい執念……。
太田城の籠城軍の士気は一時的に上がります。
しかし、圧倒的な物量の土木戦を得意とする秀吉軍。すぐさま堤防の修復を行って、再び水攻めが行われました。
……籠城して実に1ヶ月。
城主・太田左近の統率と戦術、城兵の戦力、兵糧の蓄え、どれを取っても充分でしたが、やはり援軍がない状況で秀吉の大軍と籠城戦を繰り広げても、長期的な勝機はありません。
戦況を見計らっていた秀吉は、軍使として蜂須賀小六を太田城に派遣。

蜂須賀正勝/wikipediaより引用
小六は、太田左近さんにこのように伝えたそうです。
「棟梁を選び出して、首を差し出せば、城兵や農民の命は助ける」
そこで左近さんは……。
雑賀衆の矜持を見せつけ開城→自害
雑賀衆のプライドを天下の秀吉軍に存分に見せつけた太田左近さんは、ここにきてついに降伏を決意。
これは当然ながら、自らの死を意味することになります。
太田左近さんは降伏の条件通り自害し、同じく主だった城兵たち52人の首と共に秀吉軍に差し出されました。
こうして4月24日に太田城は開城を迎えます。
太田左近ら53人(51人とも)の首は大坂の阿倍野で晒され、53人の女房衆(奥さんたち)23人(28人とも)も磔となって処されたといいます。
その後、首は故郷に戻り、太田城の周辺に3ヶ所に分けて埋められたとのこと。その1つが現在も来迎寺の東に「小山塚(おやまづか)」として残されています。
また、おそらく阿倍野で磔になったであろう太田左近さんの正室とされる「砂」のものと伝わるお墓も来迎寺の境内に残されています。
太田城はその後、秀吉軍によって火を放たれて廃城になりました。
昭和初期の宅地開発などもあり、建築物や土塁や堀などはほとんど残されていません。
しかし、大立寺(だいりゅうじ)には太田城の「大門」を移築したと伝わる山門が現存して和歌山市の文化財となり、秀吉の堤防は「太田城水攻め堤跡」として一部残されています。
ちなみに、秀吉は開城した日に太田城の城兵に3ヶ条の朱印状を出しており、その最後に次のような一文があります。
一、在々百姓等、自より今以後、弓箭きゅうせん、鑓やり、鉄炮、腰刀等、停止 ちょうじせしめ訖 おわんぬ。然る上は、鋤、鍬等、農具を嗜たしなみ、耕作を専らにすべき者也。仍よって件くだんの如し。
これ、簡単にまとめますと
「百姓は武器没収! 農業に集中しろ!」
ということです。
あれ?なんかどっかで聞いたことがあるような一文ですね。
そうです!秀吉の『刀狩令』です。
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刀狩り|実際どこまで狩ったのか 秀吉の狙いは「兵農分離」だった?
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秀吉の刀狩令は、学校の授業で「天正16年(1588年)に出された」と習います。たしかに全国的にはそのタイミングですが、実はそれに先駆けて太田城の城兵たちに出されていたんですね。
また秀吉は、太田城を手中に収めて廃城とした同4月末に、紀州の新たなお城の築城を命じます。
それが「和歌山城」です。
秀吉はその時に「岡山」と呼ばれていた築城地の名を「和歌山」に改名したといいます。
由来は『万葉集』にも登場する、和歌山城から南に位置する古くからの景勝地の「和歌浦(わかのうら)」だそうです。
中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物
太田左近さんの死によって雑賀衆は壊滅しました。
傭兵部隊として織田信長を苦しめ、その後も独立気風の強さゆえに権力者へ歯向かった集団は歴史上の表舞台からは姿を消します。
生き残った雑賀衆は、帰農したり、腕を買われて別の大名に仕えたりしました。
現在は「太田城史跡顕彰保存会」さんを中心に、太田左近さんたちの霊を慰めるために毎年4月に法要が行われ、平成27年(2015年)には開城から430年を記念した記念祭も開催されています。
また、太田左近さんをモデルにした「自由の戦士 さこんくん」と、太田城に籠城して槍を持って秀吉軍に突撃したと伝わる朝比奈摩仙奈をモデルにした「愛の戦士 ませんなちゃん」も誕生しています。
あ、お二人の幟の後ろには太田左近さんの像が立っており、その案内板の文言も郷土愛が溢れていて個人的に好きなんです。
「太田左近は、天正十三年(一五八五)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという。
一ヶ月に及ぶ水攻めをうけた後、最後はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。
中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるであろう」
“もくろむ”からにじみ出るアンチ秀吉感(笑)も良いですが、最後の一文からも“太田左近は俺たちの兄貴”感が伝わってきてまた良いですね!
雑賀衆の意地を見せた不屈の紀州人!
太田左近さんの太田城、ぜひ登城してみてくださいませ!
それでは次回もお楽しに〜。
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◆れきしクンって?
元お笑い芸人。解散後は歴史タレント・作家として数々の番組やイベントで活躍している。
作家名は長谷川ヨシテルとして柏書房やベストセラーズから書籍を販売中。
【著書一覧】
『あの方を斬ったの…それがしです』(→amazon link)
『ポンコツ武将列伝』(→amazon link)
『ヘッポコ征夷大将軍』(→amazon link)




















