六角義賢

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用

戦国諸家

近江の戦国大名・六角義賢の生涯|将軍家に翻弄され信長に滅ぼされる一部始終

2025/03/18

慶長3年(1598年)3月14日は六角義賢の命日です。

戦国ゲームなどでは剃髪後の「承禎」という名で登場していることも多いかもしれません。

南近江の戦国大名であり、言い方は悪いですが“噛ませ犬”的な立場で現在は知られることが多い方かもしれません。

というのも北近江の浅井氏ならびに同盟を結んだ織田氏の上洛に際して、ちょうどよい負け役のような展開を迎えてしまうのです。

義賢が決して無能なわけではなく、京都に近く、常に将軍家の影響を受けやすいという土地柄も影響していました。

六角義賢(六角承禎)の錦絵/wikipediaより引用

そんな中で地元の武士たちからは支持を得ていた六角義賢、その生涯を振り返ってみましょう。

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将軍に接近していた六角氏

六角義賢は大永元年(1521年)、近江の名門・六角氏に生まれました。

父は14代投手の六角定頼、母は土岐氏出身の呉服前とされています。

六角氏は宇多源氏の血を引く家の一つで、その中でも佐々木氏の嫡流とされる家です。

しかし本拠・近江が京都に近いため、庶流の家が六角氏を飛び越えて直接室町幕府に仕えることも多く、血筋の割には権力が……という状態が続いていました。

義賢が天文二年(1533年)に元服した際には、当時、桑実寺(近江八幡市)に着ていた足利義晴が出席してくれており、帰京のお供をしたり、積極的に幕府へ食い込もうとしています。

足利義晴/wikipediaより引用

まあ、この時期になると将軍は京都に出たり入ったりし続けていて、権威も何もあったものではなかったのですけれども。

六角氏からすると、

「この機会に公方様とお近づきになって、権威を高めたい!」

と思うのもまあわからなくはない話です。

義晴の方でも六角氏を味方につけておきたい気持ちがあったようで、通字である”義”を与えています。

その後、義晴は、父と共に近江内の京極氏や浅井氏との戦に臨んだり、能登畠山氏から正室を迎えたり、武家の次期当主としてのノルマをこなしていきました。

天文九年には伊勢北部の領主たちの間で争いが起き、義賢が干渉しています。

叔父(定頼の弟)が伊勢の梅戸氏に養子に入っていたのです。

このとき自軍側についた国人には義賢から感状を出しており、積極的に勢力を伸ばそうとしているフシがあります。

また、姉の嫁ぎ先である細川晴元に味方し、戦に加わったことも度々ありました。

細川晴元像/wikipediaより引用

戦の主な相手は三好長慶であり、その関係からも将軍の足利義晴、そしてその子の足利義輝を庇護しています。

しかし天文十八年(1549年)の摂津江口の戦い(江口合戦)で晴元方が敗北して以降、なかなか京都へ入れない状態が続きました。

 


家督継承

天文二十一年(1552年)1月に父の六角定頼が亡くなると、予定通り六角義賢が跡を継ぎました。

すると早速、苦難に襲われます。

北近江の浅井久政が、坂田郡以南の奪還を図ってきたのです。

浅井久政/wikipediaより引用

この地域は、浅井氏からすると享禄四年(1531年)の箕浦合戦で六角氏に奪われていた土地でした。

義賢は浅井軍の侵攻を撃退しましたが、浅井氏は次第に六角氏から離れて敵対する動きに傾いていきます。

弘治年間(1555~1558年)になると義賢は、本拠の観音寺城の石垣を整備したり、再び伊勢に侵攻したり左大臣・三条公頼の娘を養女として本願寺の顕如に嫁がせたり、足元を固めていきました。

こうした内政・外交活動が終わるか終わらないかの永禄元年(1558年)には、三好長慶と和睦を結び、将軍・足利義輝が京都に戻れるよう計らっています。

しかし例によって長くは続かず、再び義輝は近江に逃れることになりました。

義賢はそのころ近江で京極高広や浅井久政と戦っていたので、義輝のために動けなかったようです。

毎回こんな調子なんですよね。もういっそのこと、幕府そのものを六角氏の勢力圏に作り直したほうが早いような状況でした。

 

隠居と干渉

一息ついた永禄二年(1559年)、息子の六角義治に家督を譲ると、六角義賢は頭を丸めて「承禎(じょうてい)」と名を改めました。

あくまで形だけのことで、実権は持ち続けます。

特に六角氏の場合、経験の少ない息子に全てを譲り渡すのは心もとない状況でした。

まずはメキメキと力をつけている北近江・浅井氏の存在です。

永禄二年ごろから久政の息子である浅井長政は六角氏との対決姿勢を鮮明にしていきます。

浅井長政/wikipediaより引用

最初の妻である六角氏重臣の娘を送り返してきた上に、義賢から偏倚を受けて名乗っていた「賢政」を改めて「長政」にしたのです。もはや真正面からケンカを売っているも同然でしょう。

しかも同時期に浅井長政は織田氏と接近し、信長の妹・お市と結婚していたとされます。

二人の結婚時期については諸説ありますが、浅井が六角へ攻撃を仕掛けるタイミングというのは非常に合理的ですよね。

実際、永禄三年(1560年)に起きた【近江野良田の戦い】で六角氏は浅井氏に敗北してしまいます。

これにより浅井氏は六角氏の傘下から脱出し、六角氏は勢力を弱めていくことになりました。

泣きっ面に蜂とはこのことで、六角義賢にとっては息子の義治も悩みのタネでした。

同じく永禄三年7月、義賢が息子の家老たちをキツく叱りつけている記録が残されています。

斎藤義龍の娘を義治の妻にしようとしていたためです。

斎藤義龍/wikipediaより引用

冒頭で触れた通り、六角氏は由緒正しい源氏の家。

成り上がりの斎藤氏と縁組するのが許せなかったのです。

しかも斎藤氏は、六角氏と付き合いの深い土岐氏から美濃を奪った憎い相手でもありましたので、どの方面から見ても義賢としてはいけ好かない話でした。

 

観音寺騒動

さらに永禄六年(1563年)になると、六角義治が重臣の後藤賢豊父子を謀殺するという事件が起きます。

場所は、本拠地の観音寺城で、理由は不明。

あまりにもキナ臭い事件であり、当然、他の家臣たちは義治に対して激しく不信感を抱き、騒動はさらに大きくなっていきます。

彼らは次々と観音寺城内の自邸を焼き、本領に帰ったのです。

しかもこれに乗じて浅井氏が動き、観音寺城から20kmも離れていないような四十九院(滋賀県豊郷町)まで迫ってきたといいます。

観音寺城の模型(滋賀県立安土城考古博物館所蔵)/wikipediaより引用

後藤賢豊が浅井氏に内通していて、義治が先手を打ったってことなんでしょうか。

それとも浅井氏はもう少し前から動き始めていて、別の内通者が「賢豊が殺されたので、今が好機です」とでも連絡したんですかね。

一連の騒ぎは蒲生定秀(蒲生氏郷祖父)の調停によって、義治が弟の六角義定に家督を継承することで諸将を戻らせ、決着しています。

【観音寺騒動】と呼ばれており、現代でも謎の多い事件です。

ともかくこの騒動で六角氏の結束は更に弱まり、永禄八年(1565年)に京都で【永禄の変】が起きて足利義昭が逃げてきたときも、永禄九年(1566年)に浅井軍が攻めてきても、かつてのような力を発揮できませんでした。

 


六角氏式目の制定

徐々に衰退していく六角氏。

こうした流れの中、家臣たちは隠居の六角義賢を頼るようになっていきます。

そんな事態となれば、義治や義定が面白くないと思ってしまう――そこで永禄十年(1567年)4月、義賢と義治は共に”六角氏式目”を制定しました。

実に六十七ヶ条からなる法律で、年貢の収納に関する取り決めが多々含まれています。

また、義賢父子の権力を封じる内容も盛り込まれていて、立憲君主制のような形を目指していたかのような印象もあるほどです。

観音寺騒動のことを考えると、義賢父子としては

「もう一度家中をまとめるためには仕方がない」

と思ったのかもしれません。

しかしその努力が実る前に強力すぎる敵が北東からやってきてしまいます。

織田信長です。

織田信長/wikipediaより引用

 

信長、上洛

永禄十年(1567年)9月、【稲葉山城の戦い】に勝利して斎藤龍興を追い出した織田信長。

その勢いのまま翌永禄十一年(1568年)に六角氏へ上から目線の通達を送ってきました。

「将軍様を京都にお送りする。道中協力せよ!」

六角義賢はこれを拒みます。

すると当然のことながら織田軍は六角氏の拠点を目指して侵攻してきました。

義賢としては、領内の数ヶ所に砦を築き、織田軍を少しずつ削っていくつもりでいたようです。

しかし、そうした作戦を見透かしたかのように、信長はいきなり六角氏本拠の観音寺城と箕作城(滋賀県東近江市)だけをターゲットにして、一気に攻め込んできました。

観音寺城のあった繖山(きぬがさやま)

信長の大胆な作戦に恐れをなしたか。

あるいは迅速な行軍に対応できなかったか。

箕作城が呆気なく落城すると、義賢らは観音寺城を捨てて落ち延びていきます。

観音寺城の立派な石垣

観音寺城本丸趾

行き先は伊賀山中だったといわれています。

このとき蒲生氏など、六角氏の主だった家臣たちは織田方に投降することを選びました。

信長が娘の冬姫を娶らせるほど気に入った蒲生氏郷は、このときの六角氏家臣の一人だったというわけです。

 


粘る義賢、叶わぬ願い

本拠地の観音寺城を追われた六角義賢はその後どうなったのか?

というと、そんなわけもなくゲリラ戦で生き永らえつつ機会をうかがっていました。

そこで起きたのが【金ヶ崎の退き口】――永禄十三年(1570年)4月、朝倉攻めを強行していた織田信長を突如として浅井長政が裏切り、信長は京都まで命からがら逃げ戻るという事件が起きていました。

まさに好機到来! 義賢は、複数の家で織田家を攻撃する【信長包囲網】の一角に加わろうとして軍事的な動きを始めます。

同年6月に起きた勃発した【姉川の戦い】直前、近江南部で一揆を先導し、柴田勝家や佐久間信盛らと戦ったのです。

柴田勝家(左)と佐久間信盛/wikipediaより引用

このころ義賢は甲賀郡西部(現・湖南市)にいたため、辺りに潜伏していた模様。

同年11月には信長と和議を結びますが、その後、義昭と信長の関係が悪化して義昭が信長の封じ込めを図ると、義賢も再び動き始めます。

しかし、ことはそう簡単には動きません。

元亀四年(1573年)3月には六角義治が浅井氏との連携を進めようとするも、その年の8月に浅井氏の本拠・小谷城が織田軍に落とされ、浅井親子は自害へ追い込まれてしまいます。

義治は、京都を追われた義昭に接近し、仕えて生き延びる道を選びました。

一方、六角義賢は石部城(湘南市)で抵抗を続けますが、織田軍に包囲されて天正三年(1575年)4月に退去し、また伊賀へ。

その後は武田氏と連絡を取り、再起を図っていきます。

しかし、すでに時遅しというところでしょうか。

武田信玄は亡くなっており、天正三年【長篠の戦い】で手痛い敗北。

以降は織田と徳川に押されて緩やかに勢力を衰えさせ、ついに天正十年(1582年)春に滅亡してしまいます。

六角義賢はしぶとく……というか、もはや信長から

本能寺の変の後、どこかのタイミングで京都へ移り住み、豊臣秀吉に仕えたといわれている

そして慶長三年(1598年)3月14日に宇治の地で亡くなりました。

没落した割に、亡くなった場所や没年月日がはっきりわかっているのも、秀吉に仕えていたからと思われます。

その後、義弼の娘と義賢の次男・大原高定の息子が結婚し、六角氏の血を繋ぎました。

高定の息子は定治といい、寛永七年(1630年)に前田家に仕え、加賀藩士として続いたそうです。

信長の上洛戦であまりにもあっさり負けてしまったので、六角氏は信長の前座みたいな扱いをされがちですが、六角氏式目で主君の権利を制限したことや、血が残ったことは評価すべきでしょう。

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【参考】
天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(→amazon
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本国語大辞典
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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