浅井久政の肖像画

浅井・朝倉家

浅井久政が信長裏切りの“黒幕”だったのか?強国に挟まれた長政父 苦悩の生涯

大河ドラマ『豊臣兄弟』で榎木孝明さんが演じて注目の浅井久政。

ご存知、浅井長政の父であり、同家が信長を裏切るときしばしば“黒幕”として語られる人物ですね。

先見性がなく視野の狭い人物像になってることも多く、嫌がる息子を渋々自分の意見に従わせたりして、老いて保守的な人物のように描かれることもあります。

果たしてあのような姿は本当なのか。

いったい浅井久政とはどんな人物だったのか。

浅井久政の肖像画

浅井久政/wikimedia commons

その生涯を振り返ってみましょう。

 

父の亮政からして嫡流にあらず

浅井久政は大永六年(1526年)生まれ。

幼少期からのことはほとんど不詳であり、天文十一年(1542年)に父・浅井亮政(すけまさ)の死去を受けて家督を継いだことはわかっています。

しかし、ここでは注意点が一つ。

浅井亮政

浅井久政

浅井長政

と続く浅井三代は、血筋がやや複雑で、久政の父・浅井亮政からして嫡流ではありません。

浅井亮政の木像

浅井亮政の木像/wikimedia commons

当時の宗主であった浅井直政が男子に恵まれず、娘の浅井蔵屋(くらや)の娘婿として迎えられたのが、浅井の庶家出身である浅井亮政でした。

二人は、一男一女をもうけます。

庶家出身の婿:浅井亮政

宗主の娘:浅井蔵屋

男子:浅井政弘

女子:浅井鶴千代

残念ながら、男子の浅井政弘は早世。

生き残った娘の浅井鶴千代が、田屋明政という婿を迎え、順当であればその明政が“浅井明政”として家を継ぐはずでした。

しかし、実際に家督を継いだのが、浅井久政だったのです。

 


母の実家は近江尼子氏

いったいなぜ、宗家の娘の血を引く浅井鶴千代の婿が跡継ぎではなく、浅井久政に決まったのか。

注目すべきは久政の母でしょう。

浅井亮政の正妻ではなく、別妻とも考えられる寿松(じゅしょう)は、近江尼子氏(京極氏の一族)出身で、近隣エリアでは有力な血筋です。

尼子氏というと、尼子経久や尼子晴久など、山陰地方の大大名・尼子氏を想像してしまうかもしれません。

尼子晴久の肖像画

尼子晴久/wikimedia commons

しかし彼らも元々は京極氏から輩出された一族ですから、近江にもその勢力は残されていた。

久政の母が一族出身であれば、近江尼子氏が後ろ盾ともなる。

つまり、母の血筋も重視される当時の武家社会において、久政の母には息子を跡継ぎとする十分な資格があったと考えられます。

なお、天文十一年(1542年)1月に浅井亮政が亡くなった後、3月に本願寺から送られた香典は「明政宛」となっていました。

その時点では、まだ浅井氏の後継者が決まっていなかったか、あるいは本願寺まで知らされていなかったか。

天文十三年(1544年)4月に営まれた亮政の三回忌法要では久政が主催を兼ねており、2年の間に無事に家督引き継ぎも行われ、田屋明政も家臣となります。

ちなみに、亮政にはもうひとり、虎夜叉という息子がいました。

虎夜叉にはさらに宗才童子という子がいて、永禄六年(1563年)まで生存していたことは判明しています。

しかし虎夜叉は、母の身分がかなり低かったのでしょう。生母と生没年が不明で、なおかつ成年後の名も判然とせず、最初から後継者候補にはならなかったと考えられます。

久政の家督継承事情が少し長くなりました。

以下、その事績を見ていきましょう。

 

家臣・井口経元の娘と結婚

家督継承問題と並行して天文十年(1541年)、京極高広が浅井領へ攻め込んできました。

もともと浅井氏は京極氏の家臣であり、その一翼として何度も六角氏と戦っていましたが、亮政の時代には六角氏に降っていたという経緯があったのです。

京極氏からすると、これは納得できません。

「家臣が敵に寝返った」

そんな状態のまま放置できるわけなく、浅井氏を再び傘下に収めるため攻め込んできました。

京極氏と浅井氏の合戦は、天文十三年(1544年)8月あたりから散発したようで、記録は乏しく実態は不明ながら、流れとしては自然なことでしょう。

そんな状況の最中、数少ない確定事項が、天文十四年(1545年)に浅井久政と正室・小野殿の間に生まれた長子の猿夜叉(さるやしゃ)です。

後の浅井長政――織田信長の妹・お市の方を娶る、戦国屈指の人気武将として知られます。

浅井長政の肖像画

浅井長政/wikimedia commons

久政と小野殿の結婚時期は不明。

少なくとも長政出産の一年前には夫婦になっていたわけで、天文十三年(1544年)以前となります。

正妻に迎えた小野殿は浅井氏の家臣・井口経元の娘ですから、家督継承を機に家臣団の結束を固めるため彼女を選んだ可能性はあるでしょう。

敵対していた京極氏とは、天文十九年(1550年)頃に和睦を締結し、浅井氏は再び京極氏の傘下に入ります。

同年、久政が朝廷から左兵衛尉(さひょうえのじょう)に任じられており、京極氏の斡旋があったことがうかがえます。

 

六角氏への従属と離反

天文二十二年(1553年)11月、地頭山合戦で六角義賢に敗れた浅井久政は、再び六角への従属を強いられました。

猿夜叉が永禄二年(1559年)に元服した際「賢政」と名乗ったこと(≒義賢の偏諱を受けた)。

賢政の妻として六角氏重臣・平井定武の娘を迎えたこと。

そういった状況からうかがえるのですが、浅井父子は六角氏からの離反を諦めてはおらず、のちに賢政は平井氏を離縁し、再び対立の道を選びます。

六角義賢の浮世絵

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikimedia commons

そうした判断は家臣たちの支持もあったようで、翌永禄三年(1560年)10月頃には浅井久政は35歳で隠居して、賢政が家督を継承。

久政は小谷城小丸に移りました。

しかし、その後も書面では賢政と連名していることもあり、実権を失ったわけではありません。

そして、この頃より織田氏(お市の方)との婚姻・同盟に関する調整が始まったと考えられています。

お市の方の肖像画

お市の方/wikimedia commons

正確な時期については永禄二年(1559年)~永禄十一年(1568年)頃まで諸説あり。

・永禄四年(1561年)5月ごろに賢政が「長政」と名を改めていること

・”長”は信長からの偏諱(へんき)であると見る説があること

・長男の浅井万福丸が永禄七年(1564年)生まれであること

そういった諸条件から、永禄年間前半~中盤辺りの可能性が高いのでは?と考えられる一方、信長が美濃を攻略した永禄十年(1567年)以降では?という意見も根強くあります。

”賢”の字を捨てることは六角氏との繋がりを否定するのが主目的だったでしょうし、”長”は人名によく使われる字なので、これだけでは判断できません。

なお、後世から見ると、織田信長の美濃攻略は規定路線だったかのようにも思えます。

しかし実際は斎藤家臣団を簡単には打ち崩せず、美濃を制覇できるかどうかは長らく不明でした。

そうした不安定な状況を考えると、実際に斎藤龍興を追放した永禄十年(1567年)8月以降、ついに隣接する浅井氏と織田氏で同盟を結んだと考えるほうが無理のない流れに見えます。

 


久政は織田との同盟をどう考えていた?

では浅井久政は、織田氏との同盟をどう考えていたか?

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

当初、特に異論がなかったことは確かでしょう。

信長の上洛を機に、浅井氏では長政の行動が活発化していきますが、反対行動や家中の乱れなどは見受けられません。

久政もそうです。

しかし多くのフィクションでは、浅井氏が織田氏から離反した理由は以下のように描かれがちです。

①織田信長が『朝倉氏を粗略にしない』という約束を破り、元亀元年(1570年)に越前へ攻め込んだ

②浅井久政がこれに激怒

③息子の長政は父の意向を汲み信長を裏切った

果たしてこうした描写はどこまで正しいのか。

史料にはそうと記録されたものはなく、断定は難しい状況です。

長政に家督を譲って第一線から一歩退いた上、その後の動きも史料が乏しく、久政の人柄や言動は残されておりません。

内政に集中していたらしき文書は残っており、鷹狩や連歌などを嗜んでいたとも伝えられることから、平和な時代に活きるタイプだった可能性は否めない。

だからでしょう。

『重編応仁記』では「大将の器ではなく家臣たちに疎まれている」と書かれ、『浅井三代記』では「笑われるような事ばかりしていた」となかなか酷い状況です。

六角氏との争いを避けたことが家臣たちに『軟弱なヤツだ』と思われたのが原因で、逆に久政の時代は比較的平和であり、一概に悪い面ばかりとも言い切れません。

やはり戦乱期は久政の性に合わなかったのかもしれません。

 

次なる記録は最期のとき 舞楽者をお伴に

元亀元年(1570年)、ご存知のように浅井氏は織田信長を裏切り、越前攻めの織田軍に背後から襲いかかりました。

しかし、豊臣秀吉明智光秀らの働きもあって織田信長は京都へ無事帰還。

いったん岐阜へ戻るとそのまま「姉川の戦い」で激突し、以降、数年間激しい戦闘の日々を迎えます。

領国が隣接している以上、戦はすぐに起こり得ました。

織田軍は、豊臣秀吉が横山城に入って浅井を監視。

豊臣秀吉イメージイラスト

絵・富永商太

その間、浅井久政は何をしていたか?

前述の通り、すでに引退しており、軍事外交面では活躍が見られないと申し上げましたように、残念ながら最期の瞬間まで記録はありません。

天正元年(1573年)8月末、「小谷城の戦い」で織田軍に攻められると、落城を目前にして自害するのです。

ただし、自害の日付については27日・28日・29日説があるほど曖昧。

信長公記』によれば、久政は自害の前に寵愛していた舞楽者・鶴松を逃がそうとすると、彼は久政に殉じることを選び、久政の介錯を務め、後を追ったといいます。

彼には死出の旅路でお伴をしてくれる人がいたのです。

少なくとも”一個人としての人柄”は悪いものではなかったのでしょう。

お市の方の夫である浅井長政を高めるためだけに、久政がこき下ろされるのだとしたら、やや一面的に過ぎるようにも思われます。


参考文献

宮島敬一『浅井氏三代 (人物叢書 新装版)』(2008年2月 吉川弘文館)
長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江: 浅井三代から三姉妹へ』(2008年11月 サンライズ出版)
国史大辞典
世界大百科事典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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