歴史的なできごとを見ていると「なにそれひどい!」と思うことは多々ありますよね。
当時フツーだったことも、現代の感覚で見てみれば、異様な光景に見えることも少なくない。
その最たるものの一つが
【義弟・浅井長政の首に金箔を貼った】
という織田信長の話ではないでしょうか。
『信長公記』にも記され、その詳細は以下の記事にまとまっております。
信長のお正月「浅井と朝倉の首」で酒を飲んだってマジ?信長公記104話
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しかし今回注目したいのは、長政当人ではなくその息子。
天正元年(1573年)10月17日、浅井長政の長男・浅井万福丸が処刑されました。
日程については諸説ありますが、いずれにせよ長政の死から程なくして殺されているのは間違いないはずで、このまま進めさせていただきます。
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わずか10歳の子供が関ヶ原で磔って
浅井長政というと、その妻・お市の方と三姉妹(茶々・初・江)がクローズアップされがちです。
嫡男もいたんですね。
ただし生母は不明で、お市の方が嫁ぐ前に生まれたとか、いやお市そのものが母親だとか色々な憶測があります。
そんな調子ですから生年も不明なのですが、『信長公記』によると、この天正元年(1573年)で10歳になると記されているので、永禄7年(1564年)生まれが有力候補の一つ。
この万福丸は、本拠地・小谷城が落とされ浅井家が滅亡したあと、余呉湖畔(滋賀県長浜市)の隠れ家へ落ち延びていたところを豊臣秀吉の捜索隊に捕まってのことだといわれています。
小谷城の戦いについては以下の記事に詳細を譲るとしまして、
小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡~難攻不落の山城がなぜ陥落したのか
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万福丸の捕縛後は、関ヶ原で磔(はりつけ)&串刺しの刑にされました。
物心ついたばかりで……あまりにも非情な運命ですよね。
「そんな小さい子を殺すなんて、やっぱり信長はひどい!!」
なんて思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は大して珍しい話ではありません。
武家においては「敵の子供を殺す」のは当たり前も当たり前、常識的な行為だったからです。
「源氏の御曹司を助命した結果」どうなったよ?
日本史でわかりやすい例を挙げるとすれば、やはり源頼朝でしょう。
父・源義朝が平清盛に敗れて処刑された後、幼い頼朝は平家の追手に一度捕まりました。
そして処刑されそうになったところを、清盛の義母や皇居の女性達の嘆願により命だけは救われ、伊豆への流刑になるのです。
当時は死刑の次に重いのは流刑だったからです。
「敵に命を助けられた」ことになるわけですが、当然、頼朝はそれを恩に着て大人しくはしませんでした。
後に平家打倒の兵を挙げているのは皆さんご存知の通り。
ドラマや小説では「あの恩知らずが!」なんてシーンが入っていることもありますね。まさに正論。
つまり「幼いからといって敵の子供を生かしておくと、いずれ自分の子孫が滅ぼされる」可能性があるわけです。
まぁ、そりゃそうですよね。
敵が自分と同世代であれば、子供同士も同じくらいの歳になるわけですから、いずれぶつかるのは必至。
ならば先に災いの芽は摘んでおこうというわけです。
現代語でいえばリスクファクター対策ですね。
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