浅井万福丸

信長を裏切り、攻め滅ぼされた父の浅井長政/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

浅井万福丸の処刑|信長を裏切った長政の息子に科された過酷な運命とは?

2024/10/17

歴史的なできごとを見ていると「なにそれひどい!」と思うことは多々ありますよね。

当時フツーだったことも、現代の感覚で見てみれば、異様な光景に見えることも少なくない。

その最たるものの一つが

【義弟・浅井長政の頭蓋骨に金箔を貼った】

という織田信長の話ではないでしょうか。

『信長公記』にも記され、その詳細は以下の記事にまとまっております。

正月の酒宴「浅井と朝倉の首」を肴に酒を飲む|信長公記104話

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しかし今回注目したいのは、長政当人ではなくその息子。

天正元年(1573年)10月17日、浅井長政の長男・浅井万福丸が処刑されました。

日程については諸説ありますが、いずれにせよ長政の死から程なくして殺されているのは間違いないはずで、このまま進めさせていただきます。

絵・小久ヒロ

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わずか10歳の子供が関ヶ原で磔って

浅井長政というと、その妻・お市の方と三姉妹(茶々・初・江)がクローズアップされがちです。

嫡男もいたんですね。

ただし生母は不明で、お市の方が嫁ぐ前に生まれたとか、いやお市そのものが母親だとか色々な憶測があります。

お市の方/wikipediaより引用

そんな調子ですから生年も不明なのですが、『信長公記』によると、この天正元年(1573年)で10歳になると記されているので、永禄7年(1564年)生まれが有力候補の一つ。

この万福丸は、本拠地・小谷城が落とされ浅井家が滅亡したあと、余呉湖畔(滋賀県長浜市)の隠れ家へ落ち延びていたところを豊臣秀吉の捜索隊に捕まってのことだといわれています。

小谷城の戦いについては以下の記事に詳細を譲るとしまして、

小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡~難攻不落の山城がなぜ陥落したのか

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万福丸の捕縛後は、関ヶ原で磔(はりつけ)&串刺しの刑にされました。

物心ついたばかりで……あまりにも非情な運命ですよね。

「そんな小さい子を殺すなんて、やっぱり信長はひどい!!」

なんて思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、実は大して珍しい話ではありません。

武家においては「敵の子供を殺す」のは当たり前も当たり前、常識的な行為だったからです。

 


「源氏の御曹司を助命した結果」どうなったよ?

日本史でわかりやすい例を挙げるとすれば、やはり源頼朝でしょう。

父・源義朝が平清盛に敗れて処刑された後、幼い頼朝は平家の追手に一度捕まりました。

そして処刑されそうになったところを、清盛の義母や皇居の女性達の嘆願により命だけは救われ、伊豆への流刑になるのです。

当時は死刑の次に重いのは流刑だったからです。

「敵に命を助けられた」ことになるわけですが、当然、頼朝はそれを恩に着て大人しくはしませんでした。

後に平家打倒の兵を挙げているのは皆さんご存知の通り。

ドラマや小説では「あの恩知らずが!」なんてシーンが入っていることもありますね。まさに正論。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

つまり「幼いからといって敵の子供を生かしておくと、いずれ自分の子孫が滅ぼされる」可能性があるわけです。

まぁ、そりゃそうですよね。

敵が自分と同世代であれば、子供同士も同じくらいの歳になるわけですから、いずれぶつかるのは必至。

ならば先に災いの芽は摘んでおこうというわけです。

現代語でいえばリスクファクター対策ですね。

 

世界史も皆殺しがデフォだった

世界史でも「かつて王様になった人間は自分の親兄弟を含めた血縁者を皆殺しにするのが当たり前だった」なんて時代もあります。

だいたい中世くらいの話です。

ヨーロッパでの記録が多いですが、オスマン帝国でもだいたい同じようなことをやってましたので、一時期においては”世界の常識”レベルの話でした。

こういうことを知ると、現代の庶民に生まれて良かったと思いますね。

信長は自分が織田家を継ぐときにもさんざん苦労していますし、家中の統一でも手こずっておりますので、この手の”戦後処理”を徹底しています。

織田信長/wikipediaより引用

それでも一度きちんと謝ってきた相手は許したり、血縁者やお気に入りには相当甘いんですけどね。

松永久秀はどっちなんだって?

使える人だったから勘弁していたのでしょう。

なにより松永久秀は、最近の研究で人物像がかなり変わってきており、武人としても文化人としても相当デキるタイプだったと目されております。

ゆえに、信長は二度目の裏切り後も信長は許そうとしていたぐらいです。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)
松永久秀の生涯|三好や信長の下で出世を果たした智将は梟雄にあらず

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岐阜を追い出された龍興は何度かの激突の末に……

面白いところでは斎藤龍興でしょうか。

岐阜を追い出された後、何度も信長へ仕掛けて、そして尽く跳ね返されています。

結局、朝倉義景を頼り、同家が滅亡するタイミングの【刀根坂の戦い】で討ち死にしました。

この辺、漫画『センゴク』でも非常に面白く描かれておりましたね。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

浅井家については、三姉妹を助けて血筋だけでも残したあたりが粋な計らいとも取れます。

代々武士の家に生まれたからこそ、血が続くだけでも充分な栄誉であることがわかっていたのでしょう。

実は、浅井長政には、万福丸の他にもう一人の男児・万菊丸がいて、逃げ延びたという話もあります。

坂田郡長沢の福田寺に匿われ、そのまま同寺の住職(12世・正芸)になったという話です。

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【参考】
国史大辞典
畑裕子『浅井三姉妹と三人の天下人』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
浅井万福丸/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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