波多野秀治/wikipediaより引用

信長公記 浅井・朝倉家

刀根坂の戦いで信長に追い詰められた朝倉は……超わかる信長公記98話

浅井家重臣・阿閉貞征あつじさだゆきの寝返りにより、本格化した織田軍の浅井攻め。
本拠地の小谷城を取り囲むと、同盟国の朝倉軍がやってきて織田軍と対峙したまではよかったのですが……。

信長の奇襲に肝を冷やした朝倉軍は、その夜のうちに撤退を始めます。

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わざわざ越前から近江まで浅井の助けに来ておいて、ほぼ何もせずに帰参とは考えられないですが、織田信長だけはこの事態を想定しており、家臣の誰よりも先に朝倉の追撃に走り始めました。

そして【刀根坂の戦い】へ。
朝倉の命運は?

 

信長「朝倉の軍勢は引壇か敦賀へ逃げるだろう」

多くの首を挙げながら、朝倉軍を追う織田軍――。

柴田勝家佐久間信盛、あるいは豊臣秀吉ら家臣たちは、追撃の開始時間が遅れてしまったこともあってか。
朝倉軍がどの道を帰路に選んだのか、はっきりわかっていなかったようです。

「朝倉軍は中野河内か、刀根のどちらかへ逃げるだろう」
と考える者がいる一方、
織田信長は
「引壇(疋田)か敦賀の味方の城へ逃げるだろう」
と考え、そちらへ兵を向けさせました。

中野河内は、小谷城から見て北、現在は滋賀県と福井県の県境にあたるところです。

他の刀根・引壇・敦賀は、いずれも福井県敦賀市の地名ですから、織田軍から見ると「北と北西、どちらに向かうか?」という選択。
信長は、北西へ追撃することにした……ということです。

 

激戦!刀根坂の戦いで織田軍が挙げた首は3,000超!?

義景たちは、信長の予測通り敦賀へ向かって逃げていました。

恐ろしいまでの信長の勘。
何を根拠にそう判断したのか不明ですが、漫画『センゴク』では、信長が地面に顔を近づけ【馬の足跡の幅】によって判断しておりました。幅が広いほうが元気な馬ということで、主要な将兵たちはそちらに向かったというものです。

目標補足に成功した織田軍は、刀根山で追いつき、朝倉軍と戦闘になりました。

朝倉氏も名門ではありますから、忠義心のある武士も少なからずおり、よく戦いました。

が、やはり逃亡中の部隊であり、多勢に無勢。
敦賀までの間に、織田軍が挙げた首は3,000を超えたといいます。

信長礼讃の『信長公記』だけに、さすがに誇張された数字のような気もしますが、戦果が凄まじいものだったということは十二分に伝わりますね。

信長公記本文では、ここで「織田方が顔を見知っていた者の首」として、個人名が30人ほど載っています。

その中で、最も著名なのが、かつて美濃の主だった斎藤龍興でしょう。

 

道三の孫・龍興は刀根坂の戦いに散る

大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要なポジションとなる龍興(主人公・明智光秀が仕えていた斎藤道三の孫)。
龍興は、元亀元年(1570年)頃に近畿で三好三人衆らとともに反信長軍として動いていましたが、その後は縁戚の朝倉義景を頼り、越前に身を寄せていたのだとか。

そうした理由で、この戦いにも参加していたようです。
龍興についてはいくつか生存説もあるので、このときの首は他人の空似という可能性もあります。

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信長公記には、ここで生け捕りにされた人物の話も載っています。

不破光治の家来・原野賀左衛門という者が、朝倉方の印弥六左衛門を捕らえ、信長の前に連れてきました。
信長が自ら尋問すると、弥六左衛門は捕まる前後の話を事細かに語ったといいます。

その働きぶりや話しぶりが気に入ったようで、信長は
「この信長に忠節を尽くすならば、命を助けても良い」
と告げます。

しかし弥六左衛門はこう答えました。

「確かに朝倉殿には恨みがありますが、味方が多く討ち死にした今、私が生き残ったとして、もしも織田家で功績を上げられなければ、生き恥をさらすことになります。それはあまりにも見苦しいので、今、腹を切らせていただきたい」

そして実際に切腹をした振る舞いには、著者の太田牛一も感じ入ったようで「あっぱれである」と評しています。

 

武功をあげた者に対し自分の足半を与える

織田軍の進軍は凄まじく、この日は朝倉方の城を計10ヶ所も落としました。
そのスピード攻略ぶりを示す、こんなエピソードも信長公記に添えられています。

上記の通り、このときの織田軍の戦果は凄まじいものでした。
守るほうは言うまでもありませんが、攻め手ももちろん必死なわけで、なりふり構ってはいられません。

もちろん人間ですから、動けば汗をかきますし、着衣もどんどん乱れていきます。

返り血の始末をする余裕なんてありません。
映像的なイメージとしては、よく怪談などで出てくる”落ち武者”とほぼ変わらないものだったでしょう。

そうした織田軍の兵士の中に、履物が脱げたまま騎馬武者を山中へ追いかけ、足を血まみれにしながらも首をあげてきた兼松正吉という者がいました。

正吉の姿を見た信長は、その戦果を認めると同時に
「これが役に立つ」
と言い、自らの腰に下げていた”足半(あしなか)”を一足与えたといいます。

足半というのは、文字通り“足の半分”ほどしかない短い草履のことです。
現代ではダイエットや健康促進のために使われるようになり、注目されることもありますね。

信長は日頃から足半を愛用しており、戦の際には腰に予備を下げていたのです。

おそらくこれは、”うつけ”といわれていた少年時代からの習慣でしょう。
7話で述べたように、当時の信長は常に火打ち袋などの小道具を持ち歩いていたと伝わっています。

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婦人たちは着の身着のまま一乗谷を飛び出し

織田軍は、さらに朝倉攻めを続けます。

8月14~16日にかけてまで敦賀に駐屯し、周辺地域から人質をとって安全を確保。
17日には木目峠を超えて越前へ入り、翌18日に竜門寺(越前市)に陣を据えました。

そのころ織田軍に追われる朝倉義景は、一乗谷城から逃げ、大野の山田庄六坊(大野市)へ移っていました。

奥の婦人たちも、さすがにこのときは着の身着のまま、徒歩で退去し、哀れな有様だったとか。
戦国のならいではありますが、なんとも物悲しい気分になりますね。

ここで信長は、
「平泉寺方面へ義景を追撃する。兵は手分けして落ち武者を探せ」
と命じました。

これにより兵の士気が上がり、毎日百人単位で落ち武者や一揆衆を捕らえてきたそうです。

信長は、小姓衆に命じて彼らの首を切らせ続けたので、目も当てられぬ有様だったとか……。
残虐ではありますが、後々の禍根を断つにはこうする他ない、という判断でしょう。

 

井戸に身を投げたのは朝倉家臣の娘だろうか……

さて、このとき捕らえられた者の中に、それなりに身分のありそうな一人の婦人がいました。

素性は最後までわからなかったようで、おそらく着ているものや話しぶりから、処分を後回しにしていたものと思われます。
3~4日はおとなしく捕まっていましたが、あるとき見張りの隙を狙って逃げ出してしまいました。

そして、近くの井戸に身を投げて死んでしまったそうです。

彼女は直前に硯を借りており、懐紙に書き置きをしていました。

そこにはこんな歌が残されていました。

ありをれば よしなき雲も 立ちかかる いざや入りなむ 山のはの月

大まかに訳すと、
このまま生きていたら、月を隠す雲のように嫌なことがやってくるに違いない。それならいっそ、山に沈む月のように、この身も隠してしまおう
というところでしょうか。

古今東西、このような状況で囚われの身になった女性の運命など決まりきっています。

織田軍はその手の規律に厳しかったほうではありますが、この朝倉軍追撃は切羽詰まっていたこともあり、信長や武将たちの目が行き届かなかったのかもしれません。
見張りの兵たちが下卑た話をしていたのを聞いたとか、そういうことがきっかけだったのかもしれませんね……。

彼女はおそらく、身分も教養も誇りも相当高い人だったのでしょう。
朝倉家臣の誰かの娘、というのが妥当なところでしょうか。

朝倉義景は平泉寺の僧侶たちに援軍を要請していましたが、彼らも信長に降伏。
いよいよ追い詰められます。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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