織田信長の功績に欠かせない武将は誰か?
そう問われたら多くの方が柴田勝家や明智光秀、あるいは豊臣秀吉や丹羽長秀など、織田家の重鎮たちが頭に浮かんでくるに違いありません。
しかし、信長を含む彼らの活躍も、全ては誰かが記録していてくれていたからこそ現在にまで伝わっているわけで。
こと信長に関して絶対に欠かせないのが太田牛一でしょう。
『信長公記』という信長の一代記をはじめ数多の著作を執筆。
織田家の活躍が現代でも息づいているのは、牛一がいたからこそと言えます。
むろん『信長公記』に書かれている全てが正しいわけではないですが、ともかくそれほどの記録を残した太田牛一とはどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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最初は柴田勝家に仕える
大永七年(1527年)に生まれたとされる太田牛一。
意外なことに天文三年(1534年)生まれの織田信長より年上だったんですね。
出身地は尾張春日井郡安食で、現在の地名だと名古屋市北区・春日井市南西部・西春日井郡南東部あたりとなります。
元々は織田家に仕える武士ではなく、土豪の家に生まれて僧侶になっていたとされます。
おそらく次男以降の生まれだったのでしょう。
牛一は著作が多い割に自らの生い立ちや親族などについてはほとんど書き残していないため、若い頃のことはほとんどわかっていません。
『信長公記』では天文二十二年(1553年)7月、清洲攻めの際に柴田勝家の足軽衆として参加したことに触れているため、ここまでの間に還俗したと思われます。
ただし、その理由は不明。
牛一のいた城が戦禍に巻き込まれでもしたのか、信長の父・織田信秀に何か感じ入るところでもあったのか、はたまた別の理由なのか、いずれも想像の域を出ません。
ゆえに勝家の家臣になった経緯も理由も不明です。
当時、勝家の領地が尾張国愛知郡下社村(現・名東区~愛知郡日進町)あたりで、牛一の出身地からは現代の道路で10kmほどの距離です。
地域ならではの縁があったのかもしれません。

猛将「鬼柴田」として知られる柴田勝家/Wikipediaより引用
信長の直臣へ
勝家に仕え、その後、信長に直接仕えるようになった太田牛一。
『信長公記』の著者ですから、さぞかし事務仕事に強い文官肌、というイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
実は、若い頃は弓の達人で、信長に技術を認められて抜擢されたと思われます。
信長の若かりし時から言動を記録できる距離にいたことで、後の『信長公記』執筆に繋がったのは間違いないでしょう。
実際に、永禄七年(1564年)堂洞城攻めの時は、牛一が弓で大活躍しています。
先ほど『信長公記』には牛一自身の活躍が記されてないとしましたが、このときだけは例外で、
「堂洞城二の丸入口の高所に牛一が単独で登り、無駄矢もなく射掛け続けたのを信長が見て、三度も使いをよこして褒め称え、知行も増やしてくれた」
という記述を残しています。
その場で褒められた上に領地も増やしてくれたら、そりゃあ信長様に惚れ込んじゃいますよね。

織田信長/wikipediaより引用
素晴らしい主君のことを後世に伝えよう
もしかすると牛一は、このとき初めて
「主君のことを、後世へ事細かに伝えよう!」
と考えたのかもしれません。
一連のお話は、牛一の活躍であると同時に、信長が信賞必罰を迅速に行なったというエピソードにもなっています。
信長といえば【比叡山焼き討ち】や【長島一向一揆の惨劇】あるいは【謀反を起こした荒木村重一族の処刑】など、”罰”に対するエピソードが注目されますが”賞”も頻繁に行っていたんですね。
だからこそ信長に恐れを抱きながらも従う村や人が増えたのでしょう。
元亀元年(1570年)6月の近江からの撤退時には、殿を務めていた佐々成政に協力したこともあったようです。

佐々成政/wikipediaより引用
牛一が信長の馬廻=身辺に仕える立場だったことや状況からすると、黒母衣衆である成政と信長の連絡役をしたのかもしれませんね。
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