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【太田牛一】
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丹羽長秀の家臣?
太田牛一が合戦に登場するのは元亀元年(1570年)まで――その後は文官的な仕事での登場に切り替わります。
大永七年(1527年)生まれである牛一が40代で前線から退くのはやや早めながら、太田家の代替わりを万全にする意味では良いタイミングだったのでしょう。
信長の意向があったかもしれません。
元亀三年(1572年)以降は「年貢を催促する文書」や「土地の境界争いに関する文書」などに牛一の名が登場します。
信長の直臣という立場から丹羽長秀の右筆に移った、あるいは一時的に長秀の与力につけられたようです。

丹羽長秀/wikipediaより引用
また、天正九年(1581年)ごろには近江で奉行として活動しており、この頃に秀吉との接点があった可能性も考えられますね。
本能寺の変後
そうこうしているうちに天正十年(1582年)、ついにその日はやってきます。
6月2日未明、羽柴軍に合流する予定だった明智軍が、突然、信長たちのいる都へ向けて進軍。
信長だけでなく、当主を引き継いでいた織田信忠も討ち取られる大事件【本能寺の変】が勃発します。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
『信長公記』にも当然このときの様子は記されていて、明智軍が襲いかかった本能寺や二条新御所の様子や、その後の安土城の炎上、あるいは堺から逃げる徳川家康と一揆勢に殺される穴山梅雪などのことも説明されています。
では、その後の太田牛一はどうなったのか?
羽柴軍が【山崎の戦い】で明智勢を撃ち破り、天正十一年には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が討死。
牛一がもともと従っていた丹羽長秀も天正十三年(1585年)に亡くなります。
この辺りの牛一の動きはハッキリとしておらず「丹羽長秀の子・丹羽長重に仕えていた説」や「加賀松任で蟄居していた説」などがあります。
丹羽家が秀吉によって大幅に減封されたため、召し放ちされたか、自ら身を引いたということも考えられそうです。
そして天正十七~十八年頃、太田牛一は何らかの理由で秀吉に呼び出され、検地奉行や蔵入地(直轄地)の代官などを務めるようになります。
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