太田牛一

織田家

信長のことを最もよく知る武将・太田牛一『信長公記』著者はどんな人物だった?

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太田牛一
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名護屋への滞陣を命じられ

秀吉に召し抱えられた頃の太田牛一は、淀城付近に住んでいたようです。

同城で天正十七年(1589年)、淀殿が秀吉の子・鶴松を産んでいるので、牛一にも何かしら役目なり何なりがあっても良さそうなものですが、残念ながら記録はありません。

豊臣鶴松/wikipediaより引用

文禄元年(1592年)には、久々に武士としての役目がまわってきました。

弓大将として、【文禄・慶長の役】の前線基地である名護屋への滞陣を命じられたのです。

ただし、既に還暦を過ぎている牛一を渡海させようとは秀吉も思ってはいなかったでしょう。

弓の腕前を滞陣中の慰めにでもするつもりだったのか、名護屋で若者たちに弓の指導でもさせたかったのか、あるいは何かと使い勝手が良いと考えていたのか。

文禄二年(1593年)6月には、和平交渉に訪れた明の使者への饗応に携わっています。

また、慶長三年(1598年)3月に行われた醍醐の花見では、秀吉の側室・三の丸殿の輿に付き従ったようです。

『醍醐花見図屏風』に描かれた豊臣秀吉と北政所/wikipediaより引用

三の丸殿は信長の娘なので、信長旧臣としての繋がりからかもしれませんね。

このように、秀吉時代にもちょくちょく牛一は登場しているのですが、もはや出世欲は無かったように見えます。

「いつかこの時代のことを書き残して後世に伝えたい」と考え、出世は不要と判断した可能性もあるでしょう。

偉くなればなるほどしがらみが増えるのは世の常であり、執筆の自由が狭まるのは今も昔も変わらないはずです。

 


秀吉の死後

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が死去。

その後、太田牛一は豊臣秀頼に仕えていたようですが、いつの頃からか隠居して大坂の玉造に住み、『信長公記』や『大かうさまくんきのうち』などの著述に専念します。

『信長公記』を読むとわかりますが、牛一の文章は主役となる人物をかなり美化して書く傾向が感じられます。

信長の死去から既に16年以上が経過。

おそらく膨大なメモを整理して書いたはずですが、在りし日の主君を思い出してテンション上がっちゃった、みたいな感じでしょうか。

荒木村重の妻子を処刑する悲惨な場面では、被害者側に同情を寄せるような書き方もしていますので、決して主役を盲信しているわけでもありません。

牛一の息子たちについてはあまり記録がなく、父の書いた文章を読んでどう思っているのでしょうか。

隠居の身だったこともあってか、牛一の没年は不明です。

慶長十五年(1610年)に池田輝政へ『信長公記』の写しを渡したこと、その後も著作活動をしていたことがわかっているので、大坂の役前後あたりで亡くなったのではないかと思われます。

仮に家康と同じ元和二年(1616年)没とすると満89歳となりますので、さすがにここまでではないでしょう。


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小久ヒロ

【参考】
谷口 克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本大百科全書
世界大百科事典
日本人名大辞典

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