大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で草笛光子さんが演じた比企尼(ひきのあま)。
頼朝と対面したときの満面の笑みや、我が子のように接する包容力で、いかにも優しいおばあちゃんといった印象かもしれません。
果たして史実でもそうだったのでしょうか?
ドラマでご存知のように、殺伐とした鎌倉の権力争いのド真ん中にいて、彼女は単なる優しいおばあちゃんではなく、非常に重要なキーパーソンでした。
それだけに比企尼と一族は幸せな結末には恵まれず、彼女はどんな最期を迎えたかも不明。
源頼朝にとって大恩人とされるこの女性がなぜそうなってしまったのか。
生前は一体どのような存在だったのか?
比企尼の生涯を振り返ってみましょう。
母の縁により貴公子として生きた頼朝
源頼朝の人生は、多くの女性たちによって支えられていました。
生母・由良御前の親族は、崇徳・後白河両天皇の母である待賢門院や、上西門院と近しい関係にあり、少年時代の頼朝は、母の人脈から内裏に近い生活を送っていた。
貴公子としての素養は、こうした幼少期に培われたものです。
そして、父の源義朝が【平治の乱】に敗れ、斬首されたとき、その子である頼朝にも生命の危機が訪れました。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用
このときの頼朝を救ったのも女性。
平清盛の継母である池禅尼が助命嘆願の末、頼朝の伊豆配流が決まりました。
そして生命を永らえた頼朝は、伊豆でも多くの乳母たちに見守られ生きていくことになります。
我が子の助命を願う乳母・山内尼
『鎌倉殿の13人』では山口馬木也さんが演じる山内首藤経俊。
彼の母は山内尼(やまのうちのあま)という女性で、源頼朝の乳母を務めました。
しかし息子は、頼朝と袂を分かちます。
治承4年(1180年)に挙兵した際、山内首藤経俊は平家方の代表的武士・大庭景親についたのです。
石橋山の戦いでは頼朝に向けて矢まで射かけました。

石橋山の戦いで大庭景親に敗れ 追い込まれた源頼朝/国立国会図書館蔵
そして形勢が一転し、頼朝が勝利すると、憎き山内首藤経俊には断罪が決まりました。
山内尼は我が子の命乞いに駆けつけます。
夫が山内首藤俊通は平治の乱で戦死したこと。源氏に代々仕えていたこと。
泣く泣く訴える彼女に、頼朝は黙って唐櫃の中から鎧を出して見せます。
そこには、石橋山で受けた矢が刺さったままの鎧があり、しかも、その矢にはこう書かれていました。
滝口三郎藤原経俊――
我が子の名ではありませんか!
血の気が引くとはこのことでしょう。さすがの山内尼も何も言えずに引き下がるしかありません。
しかし、です。
頼朝は罪を許し、経俊をかえって重用します。
彼は恨みより乳母への恩義を見せることで、器の大きさを示したのです。
頼朝は乳母のネットワークも重用し、人脈を築き上げています。
寒河尼の末子・結城朝光。小林隆さんが演じられた三善康信の伯母も、頼朝の乳母をつとめていました。摩々尼という乳母にも、所領を与えています。
乳母の力
乳母とは、現代社会において忘れられたかのような存在です。
それゆえ、なぜこうも重んじられるのか、わかりにくいかもしれません。
そこで考えてみましょう。
仏教には「乳哺養育(にゅうほよういく)の恩」という言葉があります。
“子に乳を飲ませることは尊いことだ”という意味であり、流人生活中、読経に励んでいた頼朝は、そのことをしみじみと感じていたでしょう。
中国の『世説新語』には、漢武帝と乳母の逸話があります。
こんな話です。
あるとき、武帝の乳母が罪を犯しました。
乳母は知略で知られる政治家・東方朔に頼み込みます。
すると東方朔はこう言いました。
「もう何を言おうと、どうしようもない。助かりたいのであれば、弁明の場を立ち去る際に、帝に向かって振り向きなさい。
ただし、そのとき何も言わないことです。
それが最後の機となります」
乳母はこの助言に従い、武帝の前に立ちます。
武帝の横には東方朔がおり、強い口調で断罪します。
「愚か者めが! 陛下がいまさらお前ごときから乳を飲んだことなぞ、この裁きの際に考慮するわけがなかろう!」
そう言われながら、乳母は武帝の方を悲しげに振り返って去ろうとしました。
その姿を見て、あの武帝でも、心を動かされてしまいます。こうなるともう乳母を裁くことはできず、罪を許したのです。
偉大な英雄であろうと、乳を与えてくれた恩義は忘れられない――。
心あたたまる逸話と言えるでしょうか。
母乳の効能は科学的にも証明されつつあります。
19世紀末に開発された粉ミルクは瞬く間に世界へ広まりましたが、問題も立ち塞がりました。
21世紀になると、母乳の効能がさらに解明されてゆきます。
哺乳類の腸内環境は、母乳によって形成される。
腸内環境を整えることは、精神面での安定にも繋がる。
そうした母乳への恩義と効能を思えば、頼朝はじめ歴史上の偉人が乳母を重んじたことは必然といえましょう。
そこでの比企尼です。
彼女こそ、乳母の力の頂点に立ち、別格の存在感を持っていた一族でした。

絵・小久ヒロ
比企尼 頼朝とともに伊豆へ
前述の通り、父・義朝の敗死後、源頼朝は池禅尼の嘆願により一命を救われ、伊豆へ流されました。
そこで源氏嫡流に忠節を尽くしたのが比企尼と夫の掃部允。
頼朝の跡を追い、二人は伊豆へ向かいます。
そして武蔵国比企郡を請所として、代官となることを選んだのでした。

比企能員の邸跡地に建てられた妙本寺(能員の息子・能本が日蓮に献上して開山)
以降、比企尼は、頼朝を支え続けます。
甥である比企能員を猶子とする一方、流罪から挙兵までの二十年間、比企尼は頼朝を慈しみ、援助を惜しみませんでした。
山内尼の嘆願を受け入れ、自らに矢を放った山内首藤経俊の命すら救った頼朝です。
ずっと助けてきてくれた比企尼の恩義を感じないワケがなく、比企一族はさらに権勢を強めてゆきます。
彼女には三人の娘がいて、非常に重要な姻戚関係を作っておりです。
◆長女の丹後内侍(たんごのないし)
二条天皇に仕え、惟宗広信との間に島津忠久と若狭忠季を産む。
鎌倉に下向した後は、足立盛長と再婚。
安達景盛、安達時長、源範頼の妻となる娘らを産む。
頼朝と親しく「島津忠久は頼朝のご落胤である」という説もあるほどですが、島津氏の祖であることからこじつけたと見られています。
ただし、そう噂されるほど親しかったことは確かだとか。
◆二女の河越尼(かわごえのあま)
河越重頼の妻であり源頼家の乳母でした。
彼女の娘は源義経の正室・郷御前。
つまり源氏の姻戚となりながら、後に義経の凋落に引きずられて河越一族は没落してしまいます。
ただし、後に子の重時は許され、所領を継承しました。
このように、比企尼の血を引く娘たちが、関東の豪族を繋ぎ止める役割を果たしていました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第13回放送では、比企能員の陰謀に載せられ、比企尼の孫という女性と夜を過ごした義経の姿がありましたね。

源義経/wikipediaより引用
義経の正室である綾御前――。
彼女は河越尼の娘でしたが、比企尼の息子である比企能員、その娘たちも源氏と深い関わりがあります。
関東武士の妻となり、一族を団結させたのです。
例えば娘の一人である若狭局は、源頼家との間に一幡を産んでいます。
しかし、そのことが恐るべき結末を……。
サザエ カツオ マスオ
ご覧のように、比企一族は、源頼朝と深い結束がありました。
比企尼の娘二人が頼朝の弟たちに嫁ぐ。
義経と範頼が失脚したことにより結びつきは弱くなったとしても、まだまだ縁は切れておりません。
将来幕府を背負うことになる源頼家は、比企一族の娘二人を乳母としています。

源頼家/wikipediaより引用
しかも一族の若狭局が頼家との間に子を儲けたのですから、権勢は強まるばかり。それだけでなく頼家の近習には比企能員の息子たちが仕えています。
頼家と比企一族は、十三人の合議制に対して対抗意識を抱いていました。
そこに降って湧いた頼朝の急死――。
さらに続く梶原景時とその一族の滅亡――。
危うさが見え始めていた源氏を支えるべく、比企一族は奮闘する一方、それを快く思わなかった一族もいました。
北条氏です。
要するに外戚(女系親族)同士の対立なんですね。
比企尼は生母ではなく乳母ですが、頼家に娘が嫁いでおり、二重三重に関係が結ばれていたと捉えられます。
この複雑に入り組んだ関係については、他ならぬ『鎌倉殿の13人』の脚本家・三谷幸喜氏がうまい喩えをしていました。
◆三谷氏「鎌倉殿」サザエさん解説「サザエとカツオ手を組み、マスオ死後に波平を」タラちゃん悲劇!?(→link)
かなりくだけた表現ですが「家系図がパッとアタマに浮かぶ」という点で秀逸ですよね。
サザエさんの喩えでいくと、マスオの実家が比企一族となります。
しかも彼らの一族からタラちゃんの嫁まで出てきた。
さぁ、サザエ(北条政子)とカツオ(北条義時)はどう出る?

絵・小久ヒロ
と、比企氏と北条氏の争いは、嫁姑バトルが大仰になったうえに、殺人事件の大騒動へ発展します。
嫁一族の北条時政は、姑の比企氏を許せなくなったのか。
行動に出るのです。
外戚と外戚の対立が悲劇を生み……
建仁3年(1203年)――北条時政が将軍職の一部を頼朝二男・源実朝に譲ると決めたことに憤った比企能員。
頼家と共に時政を追い払おうとします。

北条時政/wikipediaより引用
しかし、その陰謀は事前に北条氏に察知され、能員は時政の邸宅で斬られました。
頼家は出家し、比企一族は館で攻め立てられ、滅びてしまう――。
歴史ファンにとってはお馴染み【比企能員の変】です。
こうして日本史上のみならず、世界史でも珍しい、恐るべき嫁姑親族争いは終わりを告げました。
しかし、このことは義時の胸にシコリを残します。
これでは、あまりに血を流しすぎではないか。
政治と権力の前では、乳母への恩義すら消し飛んでしまうのか。
残されたのは、一見、苛烈な歴史です。
しかし後味は悪くとも、比企尼や乳母たちの果たした役割が消えたりはしません。
彼女らの歩んだ軌跡を学ぶことで、ジェンダーから学ぶ日本史が見えてくることでしょう。
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【参考文献】
奥富敬之『源頼朝のすべて』(→amazon)
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon)
他





