頼朝軍の武士たちを前に、毅然としながら首を落とされる――。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の序盤に登場した大庭景親は、非常に印象的な最期でした。
その景親と比べ、情けなかったのがこの男。
狼狽しながら命乞いをして、運良く助命された山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)です。
ドラマでは頼朝と不思議な出会いをしていたこの人物は、一体どんな存在だったのか?
嘉禄元年(1225年)6月21日に亡くなるまで脅威の長生きを果たした、史実の経俊を追ってみましょう。
山内首藤経俊は頼朝の乳兄弟
頼朝と知り合いだった山内首藤経俊。
なぜ、ドラマではあれほど親しげだったのか?

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
身分を考えると不思議に思う方もいたかもしれませんが、まず始めに人間関係をザッとまとめるとこうなります。
山内首藤経俊:源頼朝の乳母子(めのとご)または乳兄弟(ちきょうだい)
山内尼(やまのうちのあま):源頼朝の乳母をつとめていた経俊の母
源頼朝:母の養君(やしないぎみ)
平安時代から鎌倉時代にかけての乳母(うば/めのと)は、実際に母乳を与えるだけでなく、長期にわたり貴人を育てる役目を負っていました。
流人として伊豆に流された源頼朝には複数の乳母がいます。
経俊の母もその一人で、経俊は頼朝と乳兄弟の関係。
他に例を挙げると『平家物語』に登場する木曾義仲と今井兼平もそうなります。

今井兼平と木曽義仲/wikipediaより引用
ではなぜ山内尼が頼朝の乳母に選ばれたのか。
それは【平治の乱】において、経俊の父である山内俊通や兄の山内俊綱が、頼朝の父である源義朝と共に戦ったことがあげられます。
義朝に付き従い父と兄が討死したため、経俊が家を継いだのでした。
石橋山の戦いでは平家が勝つも
そんな山内首藤経俊、そもそもな話ですが名前が長いとは思いません?
同家の歴史を振り返りますと、藤原秀郷の流れを汲む藤原氏で、代々首藤(守藤)を称してきました。
そして父・俊通の代に鎌倉郡山内荘を本領としたため、山内首藤と称するようになったのです。
山内荘は、現在の神奈川県鎌倉市山ノ内にあった広大なエリアで、北鎌倉駅があることから現在は北鎌倉と呼ばれ、名刹も多い風情ある一帯です。
そこまで源氏と縁が深いのであれば、頼朝が挙兵した際、真っ先に駆けつけそうに思えます。
しかし……。
源氏か? 平家か?
治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵した際、平家方の大庭景親が頼朝討伐の兵を挙げました。
ドラマでも景親に寄り添う姿勢が描かれましたが、このとき経俊は大庭軍に従います。
なぜ源氏につかなかったのか?
というと、そう簡単ではない事情がありました。
頼朝の挙兵に先立ち、兄弟にあたる俊秀が【以仁王の挙兵】に参加し、討死していたのです。

以仁王/wikipediaより引用
圧倒的な平清盛の権力を前にして、もし次に源氏に敗れたら、家ごと潰されるのは必定。
そのため経俊は、頼朝からの使者・安達盛長に対し暴言を吐き、助力を拒みます。
ドラマでも「犬の糞!」と頼朝のことを罵っていましたが、『吾妻鏡』に基づいた発言だったんですね。
ただ、錯綜した状況の中で、これも仕方ないことかもしれません。
なんせ大庭景親は相模でも最大級の武士ですから、逆らえばあとがない。
山内首藤経俊は斬首
かくして迎えた石橋山の戦いで、経俊は矢を放ちます。
源氏は大敗し、散り散りになって逃走。
北条時政の嫡男・北条宗時もこの戦いで討死を遂げていました
しかし、です。
緒戦で頼朝は大敗したというのに、関東における源平の形勢はどんどん源氏有利に流れていきます。
理由としては、京都から出立したはずの追討使が到着に遅れたり、甲斐源氏・武田信義らが蜂起したり。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
平家方が足踏みをする一方、頼朝は上総広常などの周辺戦力を味方に引き入れ、どんどん勢力を伸ばしてゆきました。
そして、ついには経俊も頼りにしていた大庭景親が頼朝に降伏し、自身も捕われてしまうのでした。
山内荘は没収となり、山内首藤経俊は斬首――そう決められた後に、ある女性が頼朝の元を訪れます。
母・山内尼の命乞い
彼女は頼朝の乳母である山内尼でした。
源氏代々に仕え、夫と我が子が【平治の乱】で討死したこと。そうした縁を涙ながらに訴える乳母に対し、頼朝は何も言いません。
唐櫃(からびつ)の中から鎧を出して見せました。
石橋山で受けた矢が刺さったままで、矢にはこう書かれていました。
滝口三郎藤原経俊――。
山内首藤経俊のものです。
こうなるともう母の山内尼は絶句し、顔色を変え、引き下がるしかありません。
乳兄弟でありながら情け無用で逆らう。
助力を求め、頼朝が遣わした安達盛長に対し、暴言を吐く。

安達盛長法体像(武蔵国糠田村放光寺安置)/wikipediaより引用
さらには、あろうことか大庭景親に味方するだけでなく、放った矢が頼朝に命中していた!
ここまで酷いことをして、打首も仕方ない……。
と思いきや、結局、頼朝はその罪を許すのです。
後に血を分けた源義経や源範頼らに対して苛烈な処分を行ったのと比べるとあまりに緩い決断。
それどころか、二カ国の守護職まで与えるのだからワケがわかりません。
いったい頼朝に何があったのでしょう?
無能だが、失敗はすれど失脚もしない
母・山内尼の嘆願を憐れんだのか。
あるいは使い所があると判断したのか。
山内首藤経俊に対する処遇を考える時、比較したい人物がいます。
同じ相模の武士であり、鎌倉幕府にとって重要だった梶原景時です。

梶原景時/国立国会図書館蔵
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では中村獅童さんが演じ、13人の合議制メンバーにも入る重要な人物。
知略、政治力、冷静さを備え、頼朝に重用されました。
その景時と比べると、経俊の活躍はそこまで際立っているわけでもありません。
元暦元年(1184年)の志田義広、平家残党の反乱の追討に参戦。
文治元年(1185年)には頼朝が名をあげた無能な者に、経俊も含まれています。
にもかかわらず、その地位が保証され、頼朝の側近扱いをされているのです。
そして頼朝の死後、梶原景時を弾劾した中に、経俊の名も連なっており、景時は一族ごと滅ぼされてしまいました。
経俊は元久元年(1204年)、伊勢・伊賀で発生した三日平氏の乱鎮圧にあたり、失敗。
京都守護職・平賀朝雅の援軍により、なんとか鎮圧しています。
平氏の権威を恐れ、逃亡したとされた経俊は、二カ国の守護(伊勢と伊賀)を解任され、朝雅の手に移りました。
同時代の多くが粛清されていったことを考えると、さすがにこの時点で消えていくだけの運命にも思えます。
しかし運命とは本当にわかりません。
その翌年、平賀朝雅は牧氏事件(牧氏の変)により失脚し、経俊の子・通基に討たれるのです。
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息子の活躍にかこつけるように、経俊は、守護への復帰を願うものの許可はされず。
嘉禄元年(1225年)6月21日、享年89という当時としては驚異的な長寿を記録し、天寿を全うしました。
非業の死を遂げる者が多かった鎌倉政権の中で、際立った経俊の生涯。
山内一族は南北朝以降、主に中国地方の国人領主となったと記録されています。
山内首藤経俊は掴みにくい人物
山内首藤経俊の生涯がわかりにくいせいか。
配役となった山口馬木也さんのコメントを読むと、役作りへの戸惑いを感じます。
公式コメントは以下の通り。
山内首藤経俊の人物像を探ってみると、幼少期をともに過ごした頼朝を裏切るなど、最初は薄情な印象を持ちました。
ところが本人には大義があったわけでもなく、特に策士だということもないようで、結果的にはかなり長生きをしたようです。
収録現場では、大泉さん演じる頼朝や小栗さん演じる義時に影響されながら、場面ごとに身の置きどころを“ひらひらと”軽やかに変えていければと思っています。
もしかすると頼朝が途中で敗れていれば正しい選択だったのかもしれませんし、現代にも通じる点があると思って、探り探り演じていければと思っています。
【引用元】鎌倉殿の13人:山口馬木也が頼朝裏切る“豪族”役「ひらひらと軽やかに」 結果的に「かなり長生き」(→link)
幼少期をともに過ごした源頼朝を裏切ったところに、薄情さを感じてしまった――そう思うのが自然ですよね。
実際、挙兵を決めた頼朝の使者・安達盛長に対し、ドラマの中で山口馬木也さんが大声をあげた暴言っぷりは迫力がありました。
しかもその暴言は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』に残るほどですから相当なものですし、「本人に大義もない」という指摘も的を射た発言でしょう。

吾妻鏡(1626年江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵
そこで少し考えたいのが「薄情さ」や「大義」です。
そもそも当時の山内首藤経俊は、大義を理解していたのか?
鎌倉武士たちは、読み書きすらできない者が多く、賢い人間は嫉妬されることすらありました。
山内首藤経俊が弾劾した梶原景時は、読み書き計算ができ、歌も詠めるインテリ。
この手の人物は、
「なんかアイツよぉ、俺らの理解できねーことしてねえ? ムカつくわー!」
と嫉妬されてしまう悲しい史実があります。
乳母子だから無事だった――という指摘もありますが、そう単純なことでもないように思われます。
同じく頼朝の乳母であった比企尼。
その一族である比企氏は、頼朝の子である源頼家の代にも密接な繋がりがありました。それが逆に北条時政に目をつけられる要因となり、結果、滅ぼされているのです。

北条時政/wikipediaより引用
山内首藤経俊は、さして切れ物でもなかった。
力を持とうとしたわけでもなかった。
ゆえにヒラヒラと無事に生き延びたと言えます。乳母子という出自と、こうした無能さが重なり、彼は長生きしたのでしょう。
★
頼朝の側近として鎌倉幕府の設立時に居場所を確保しながら、今となっては、特に目指したいわけでもない、憧れもしない存在――。
そんな山内首藤経俊が無意味な人物か?というと、そうではないと思えます。
世間が規定する大義とは離れ“ひらひら”と生き延びる人物がいて、後世のドラマで注目されてもよいのではないでしょうか。
人間社会は英雄ばかりではありません。山内首藤経俊がドラマに登場するのも、それはそれで面白い気がするのです。
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【参考文献】
関幸彦『相模武士団』(→amazon)
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon)
他





