正治2年(1200年)4月26日は安達盛長の命日です。
「誰だっけ?」という方は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でせかせかと源頼朝のお世話をしていた年配の武士を思い出してください。
俳優・野添義弘さんの巧妙なお芝居で、ちょっとオッチョコチョイ、されど頼朝が心から信頼を寄せている――そんな人物像が伝わってきて、見ていて妙な安心感がありましたよね。
この人は絶対に裏切らないゾ!みたいな。
だとしたら、それは三谷脚本の狙い通りかもしれません。
史実の安達盛長も、まさにそんなイメージ。
本人のキャラを示す派手なエピソードは少ないですが、常に頼朝の隣に侍っていた側近であり、当時、心から信頼されたであろう数少ない武士でした。
本記事で、その生涯を振り返ってみましょう。

安達盛長法体像(武蔵国糠田村放光寺安置)/wikipediaより引用
安達盛長は藤原氏一族の可能性
安達盛長の出自はよくわかっていません。
室町時代に編纂された系図集『尊卑分脈』では藤原北家魚名流とされていますが、信憑性は怪しく。
魚名流には平将門討伐で有名な武士・藤原秀郷がいるため、その武名にあやかろうとしたのかもしれません。

『藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図』月岡芳年作/wikipediaより引用
ただし、以下の理由から、藤原氏の一員だった可能性は高そうです。
◆兄が藤原遠兼とされており、彼の所領にちなんで「足立」と名乗り始めたらしい
◆頼朝の乳母で藤原氏の流れを汲む比企尼の娘・丹後内侍(たんごのないし)と結婚している
◆比企尼の命により、他の比企氏の縁者と共に流刑中の頼朝を支援していた
比企尼はドラマで草笛光子さんが演じ、その息子の比企能員が佐藤二朗さんでしたね。
そうした縁から早いうちに頼朝を支援していて、他にも「十三人の合議制」に加わる足立遠元と血縁関係があるのでは? という説があります。
いずれにせよ、出自や血縁については不明ながら、史書『吾妻鏡』での登場は早く、治承四年(1180年)6月24日に盛長の名が出てきます。
以仁王の挙兵が失敗に終わり、協力した源頼政が討たれたというタイミングです。
このとき頼朝は急いで挙兵するべきだと考え、源氏と縁のある関東武士たちを味方につけるべく、盛長と中原満家に使者を命じました。
東国では【前九年の役】と【後三年の役】で源氏から恩賞を与えられた武士が多く、心情的には味方となる家が多数あったためです。
その後の【保元の乱】と【平治の乱】では、頼朝の父である源義朝は負け組に回ってしまいましたが、当時も源氏方で参戦していた家は多々ありました。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用
こうした数々の騒乱を経て、上方では平家が全盛を迎えていました。
源氏から平家に乗り換えた武家も数多ありましたが、生きていくためには致し方ないところ。
それを引っくり返そうと立ち上がったのが源義朝の三男・頼朝だったワケです。
山内首藤に暴言を吐かれる盛長
挙兵の誘いに出て一週間後の7月10日、安達盛長が頼朝のもとへ戻ってきました。
「相模には、頼朝様にお味方するという武士がおりました。しかし、波多野義常と山内首藤経俊は従わないばかりか、源氏に対して暴言を吐いている有様です」
暴言とはやぶさかではありませんが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも話題になりましたね。
盛長に向かって
「清盛が虎なら頼朝なんて鼠だ! 犬の糞だ!」
と、吐き捨てられたシーンですが、完全に創作でもなく記録として残っていて、その理由と思しき出来事もありました。
波多野義常の父(義通)が、頼朝の父(義朝)と不仲だったこと。
山内首藤経俊の父と兄が【平治の乱】で討ち死にして、経俊が家督を継いでいたこと。
どちらもよくある話ですが、義常と経俊にとって「源氏に関わると縁起が悪い」と思うには充分でしょう。
特に山内の場合、頼朝と乳兄弟で関係はかなり深かったのですが、実は弟の俊秀も【以仁王の挙兵】に応じて敗死したばかりで、源氏への反発心は一層強かったのではないでしょうか。
※ただし山内首藤経俊は後に命を助けられ鎌倉幕府でも一時は要職に就きます
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頼朝に矢を放つも首は斬られなかった山内首藤経俊|89歳の長寿を全う
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盛長らの働きにより挙兵の段取りがついた頼朝は、具体的な戦術を練り始めました。
まずは士気と団結力を高めるため、かねてから遺恨のあった山木兼隆を討つ――。
兼隆は何らかの罪で伊豆へ流されていて、その後、平時忠に引き立てられ、伊豆の代官を務めていた者です。
『曽我物語』などでは、かつて北条政子が嫁がされそうになった相手として挙げられますが、これは創作だろうという見方が濃厚です。
頼朝と政子の間に生まれた長女・大姫の生年が治承二年(1178年)で、兼隆が伊豆へ流されたのは治承三年(1179年)なので、時系列的に無理があるんですね。
しかし問題がありました。
山木邸へどう攻め込むか?
山木邸へスパイを送り込み情報収集
山木兼隆の邸は険しい地形の中にあり、簡単には攻め込めません。
『鎌倉殿の13人』では祭りの日に乗り込もう!
という段取りでしたが、実際は攻め込む手段に戸惑っていたようです。
そこで頼朝は、右筆の藤原邦通を兼隆邸に送り込み、周囲の図面を描かせました。
藤原邦通もまた出自不明な人ですが、盛長に推挙されて頼朝に召し抱えられた才人で、文筆や和歌、踊り、歌唱など、様々な芸に通じていました。
彼を芸人として宴に潜り込ませ、調査させようというわけです。
いわばスパイですね。
思惑通り、邦通は兼隆の酒宴で流行歌を歌って気に入られ、しばらく滞在していいとの許可を得ました。
その間に周辺の山や川、村里までを描き、頼朝の下へ戻ります。
源頼朝と北条時政はその図を見て当日の戦術や進路を練りました。

北条時政/wikipediaより引用
そして三島神社の祭礼が行われる8月17日、頼朝はついに挙兵を決めます。この辺はドラマでも同じ描写でしたね。
『鎌倉殿の13人』では北条家の一団が山木邸へ忍び寄り、頼朝は政子の側にいましたが、一方の安達盛長は神社に捧げものを届ける役目をしており、いつ合流したのか定かではありません。
吾妻鏡には、
「午後8時頃に安達盛長の家臣が、北条邸に来ていた兼隆の雑色を捕えた」
とあり、史実の頼朝たちが出発したのは深夜だったとされていますので、それまでの間に神社から盛長が戻ってきていてもおかしくはありません。
深夜に襲いかかった頼朝軍は明け方までに兼隆を討ち取り、8月20日には伊豆・相模の味方を連れて、土肥郷(現・湯河原町)へ進みます。
このときのメンバーに盛長の名もあります。
しかし、その後の【石橋山の戦い】で頼朝軍が敗れ(8月23日)、伊豆から脱出するとき、彼の動向は記録されていません。
身分の低さゆえに発言を謹んだのか、あるいは記録されなかったのか、それとも頼朝と早い段階で別れ別れになっていたのか……。
盛長の人物像がいまいちハッキリしない理由もこの辺りにあるかもしれません。
後に頼朝には重用されていますので、武辺者というより、交渉などを得意とした折衝役だったのかもしれません。
ドラマでの描写もそんな感じになっていましたね。
房総半島の有力者・常胤を引き入れよ
安達盛長が次に登場するのは、使者を命じられた治承四年(1180年)9月4日のこと。
遡ること約10日前、石橋山の戦いで大庭景親や伊東祐親らの大軍に敗れた頼朝は、舟で安房へ向かいました。
以下の地図のように、神奈川県の真鶴町から千葉県の鋸南町まで逃げたのですね。

現代の真鶴町と鋸南町の直線距離が約63km/GoogleMapより
石橋山に間に合わなかった三浦氏などとも安房で合流し、頼朝は体制を立て直すため改めて味方を募ることにします。
盛長を千葉常胤、和田義盛を上総広常のもとへそれぞれ向かわせました。
いずれも当時の房総半島における有力者たちです。
盛長は9月9日に戻り、常胤との交渉の様子を次のように語っています。
事の次第を告げ、頼朝様に味方するよう伝えたところ、常胤は当初発言をしませんでした。
あまりの静寂に、同席していた息子たち(胤正と胤頼)が、常胤に声をかけました。
「頼朝様が平家を討とうと志され、一番に我が家へお声をかけてくださったのに、なぜためらうのですか? 早く承諾のお返事をしなければ」
すると常胤はこう答えました。
「了承することには何の異存もない。源氏の勢力を盛り返そうという頼朝様のお志に感じ入り、言葉が出なかったのだ」
なかなか芝居がかった話のようにも見えますが、常胤には頼朝に味方する理由がありました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
千葉氏は常胤の父・千葉常重の時代に、相馬御厨(現在の茨城県南西部~千葉県北西部にあった伊勢神宮の荘園)を巡って、頼朝の父である源義朝と対立しています。
しかしその後、同じく相馬御厨を巡って対立した平常澄との間に義朝が入り、最善とはいい難いながらも問題を解決。
それが常胤には恩と感じられたのでしょう。
保元の乱では義朝のもとで後白河天皇方の一員として参戦しているのです。
その後程なくして、今度は相馬御厨を巡って佐竹氏と対立した常胤は【平治の乱】には参加できません。
常胤が盛長に話した内容が事実であれば、
「平治の乱でも義朝方につきたいと思っていたものの、それが叶わなかったことを後悔していた」
のかもしれませんね。
それが今度は、義朝の息子である頼朝が協力を求めてきたのですから、感無量という気持ちになったのでしょう。
常胤は頼朝に味方することを約束し、盛長に酒を振る舞って“鎌倉”を勧めます。
「源氏にとって縁の地でもあり、守りやすい土地です。速やかに向かわれると良いでしょう。私も一族を引き連れてお出迎えいたします」
かくして頼朝は、鎌倉入りを目指すのでした。
窮地に陥っていた新田義重を
頼朝一行は治承四年(1180年)10月6日、無事に鎌倉へ到着。
10月23日に初めての論功行賞が行われ、安達盛長も対象者の一人として挙げられています。が、残念ながら具体的に何をもらったのかの記載はありません。
同じころ京都では、平家から【頼朝追討令】が出されていました。
東下してくる平家軍を迎え撃つべく、頼朝は西へ向かいます。
ただし、このあたりから加熱する源平合戦(治承・寿永の乱)で、盛長の名はほとんど出てこなくなります。
次に記録が確かなのは実に9年後、文治五年(1189年)の奥州合戦。
その間、何をしていたのか?
というと、頼朝が外出する際の随行したり、頼朝に疑われた武士の間を執りなしたり……。
一言でいえば地味な役回りですが、孤独な権力者にとっては非常に重要な役どころであります。
そもそも安心できない者を伴にできるワケもなく、頼朝と御家人らがスムーズに交渉するには不可欠だったのでしょう。
一例として治承四年(1180年)12月22日、吾妻鏡に新田義重が出てきます。
義重は源義家の四男・源義国の血を引く、れっきとした河内源氏の一員で、名字からも分かる通り、新田義貞の先祖でもあります。

新田義重(菊池容斎作)/wikipediaより引用
彼の領地である新田荘が平家方だったこと、頼朝が挙兵したときすぐに応じなかったことから、義重は頼朝に疑われていました。
新田義重の言い分はこうです。
「頼朝様に逆らう気持ちは全くありませんでした。
しかし『既に戦が始まっているから、うかつに城を出るのは危険』と家臣たちに止められていたのです。
時期をうかがっていたところ、お呼び出しを受けたので恐ろしく思っております」
経緯を述べ、許しを請う義重。その際、盛長がフォロー役に回って上記の内容を強調して頼朝に伝え、結果、赦免されたといいます。
状況的に致し方ないとはいえ、頼朝は一度疑うとなかなか解かない傾向がありますので、義重を赦免したのは「盛長が言うならば」という理由も大きかったのではないでしょうか。
重要な行事に出番多し
話を文治五年(1189年)に戻しましょう。
同年◯月、源義経を匿っていた奥州藤原氏を攻めることが決まり、安達盛長も久々に参戦することになりました。

源義経/wikipediaより引用
戦場では、盛長が預かっていた筑前房良心が手柄を立て、過去の罪を許されています。
良心は平家の血を引いていたため、壇ノ浦の後に罪人扱いされていたのでした。
盛長本人の武功は伝わっていませんので、このときも頼朝に近侍しており、前線に出ることはなかったのではないでしょうか。
建久元年(1190年)秋に頼朝が上洛した際も、盛長は大きな役目を任せられるでもなく、お供を務める大勢の御家人の一人といった順番で行列に参加。
後の合議制に加わる人々と比べると、やはり頼朝存命中の立ち位置は高くないようです。
しかし、身分と頼朝の信頼は必ずしも比例しません。
建久二年(1191年)3月に鎌倉で大火事があり、北条義時邸や比企能員邸などの重臣宅を含めた多くの家が燃えたことがありました。
このとき幕府や鶴岡八幡宮の建物も燃えてしまったため、頼朝一家は盛長邸に移り、7月まで仮住まいをしています。

鶴岡八幡宮
また、その直後に鶴岡八幡宮の神様を仮の神殿へ移す際の儀式では、和田義盛や梶原景時と共に盛長が指揮をとりました。
他にも、頼朝の姪の輿入れや、源実朝の儀式など。
重要イベントの多くに役目があり、ときには邸が利用されるなどして、頼朝を支えていて、やはり盛長が別格扱いされている印象はあります。
それは建久四年(1193年)8月、源範頼の追放事件でもうかがえました。
頼家が息子を殺そうとしている!?
源範頼は、頼朝の異母弟です。

源範頼/wikipediaより引用
不用意な発言で謀反を疑われ伊豆に流されてしまうのですが、問題はその妻でした。
安達盛長の娘だったのです。
為政者の世界で何かトラブルが起きる時は、妻の実家(つまり安達盛長)も関わることは多く、鎌倉殿の13人のメンバーも多くが一族まるごと処罰されていたりします。
しかし盛長に累が及ぶことはありませんでした。
この後も頼朝・頼家に仕えていて、疑り深い頼朝にしては、随分と甘い処分のようにも見えます。
建久六年(1195年)の頼朝上洛でも付き従っていますが、行列での順番からすると、やはり一御家人の域を出ていません。
元の身分や所領の少なさから、朝廷が関係するところで目立つ位置に置くわけにはいかなかった……というところでしょうか。
そして正治元年(1199年)1月に頼朝が逝去。
盛長は出家して”蓮西”と名乗り、他の多くの御家人同様、幕府に仕え続けました。
同年4月に十三人の合議制が設置され、盛長もまたメンバーに選ばれますが、これまで記載してきたように、この13人の中で最も素性がわからない人物です。
他のメンバーは
・元から関東に根付いていた武士団の一員
・頼朝以前の時代、源氏についたことがあった家
・朝廷の役人を務めていた公家出身者
なのですが、盛長だけどれにも当てはまりません。
ハッキリしているのは、
「妻の縁で、流刑時代の頼朝を支援し続け、挙兵直後から付き従った」
という点だけです。
逆にいえば、地盤や血筋が他の人より頼りないものであっても、盛長の働きぶりが周囲に認められ、人柄も信頼されていたということになります。
ただ単に頼朝から贔屓されていただけなら、やっかみも買ったでしょうし、そもそも合議制の一員に選ばれなかったでしょう。
正治元年(1199年)8月には、あまり気分の良くない、こんな事件がありました。
盛長の息子・安達景盛の妾を源頼家が気に入り、横取りしようとしたので景盛が激怒している
そんな噂が流れたのです。
頼家が本当に強奪を企てていたのなら、景盛が怒るのも無理ない話。
しかし、それがデマなら、一方的に怒る景盛も問題となります。

源頼家/wikipediaより引用
これに対し、頼家は先手を打って景盛を討ち取ってしまおうと考えましたが、母の北条政子に止められ、思いとどまります。
同時に、景盛に対しても言い含めました。
「昨日はなんとか頼家を止められましたが、いつ蒸し返すかわからない。噂が偽りであり、そなたに謀反の意図がないのなら、ここで誓書を書いて頼家に出しなさい」
景盛は政子の言に従って誓約書を差し出し、政子が頼家を諭したことによって、この件は収まります。
盛長は直接関係していませんが、肝が冷えたか、頼家に呆れるか、怒りを感じたかはしたでしょう。
なにせ政子が直接盛長の家に来て話していたのですから。
気性の荒い武士であれば「そもそもは噂で息子を殺害しようとした頼家様が悪いのだろう!」とキレてもおかしくありません。
そうならない辺り、やはり安達盛長は、一歩引いて状況を俯瞰できるタイプだったように思えます。
景時追放事件後に享年66で
記録上で安達盛長が最後に関与したのは、正治元年(1199年)10月から始まった【梶原景時の変】です。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用
吾妻鏡によると、まず阿波局から「景時があなたのことを讒言しようとしている」と告げられた結城朝光が、三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)に相談。
義村は「宿老の力を借りるべき」と考え、和田義盛と安達盛長を呼んだ……とあります。
1160年代生まれで、この時点では比較的若い世代だった朝光や義村から見ると、この二人がまず話すべき相手と見られていたのでしょう。
盛長が広く信頼されていたことが伝わる一件ですね。
盛長と義盛は、景時の排斥に同意し、さらに弾劾に賛同する御家人たちを募りました。
結果、署名は66人にものぼります。
盛長のような生え抜きから、義村のような次世代の人物まで。
立場も世代も様々であり、景時の人望が見え隠れしますが……この一件で景時は鎌倉を離れることになり、翌年1月20日、上洛を試みる途中で討死あるいは自害しています。
そして景時の死から約3ヶ月後の正治2年(1200年)4月26日、盛長もまた世を去りました。
享年66。
死去時の記述や病みついていたという情報が吾妻鏡にないので、おそらく老衰でしょう。
★
その後の安達氏は、浮き沈みの激しい道をたどります。
息子の安達景盛は、息子(盛長から見れば孫)の義景に家督を譲った後、三浦氏と北条氏の争いである【宝治合戦】で後者につき、北条氏と安達氏をガッチリ結びつけました。
しかし義景の子・泰盛は、執権・北条時宗を支えつつも、内管領(北条得宗家の重臣)である平頼綱と対立。
【霜月騒動】で家ごと滅ぼされてしまうことになります。
霜月騒動は、幕府草創期から源氏に仕えてきた御家人と、北条氏の最後の戦でもありました。
当初は最も身分が低かったであろう安達氏が最後まで残っていた……と考えると、武家の生き残りの難しさや、北条氏の強大さがまざまざと浮かび上がるように思います。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
上横手雅敬『鎌倉時代-その光と影』(→amazon)





