後三年の役

後三年合戦絵詞/Wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後三年の役とは頼朝の高祖父・義家を武士のシンボルに押し上げた合戦

2024/11/13

寛治元年(1087年)11月14日は【後三年の役】が終結したとされる日です。

日本史では『ややこしい……』として、敬遠されがちな項目でもありますね。

しかし、お待ちください。

この戦い、まるで戦国時代のプロトタイプを見ているようで、非常に興味深いものがあります。

たしかに登場人物を丸暗記するのはシンドイですが、その前に勃発していた【前九年の役(1051~1062年)】のドンパチから見ると因果関係が興味深く、武田信玄のご先祖様が颯爽と登場!という戦国ファン胸アツな展開があったりします。

舞台は東北~関東。

源義家の肖像画

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

肩の力を抜き、武士の武士たる所以(ゆえん)を眺めてみましょう。

 


前九年の役で清原氏にチカラを借りた源氏

前九年の役で謀反を起こした安倍氏(陸奥=宮城・岩手県あたり)。

東北地方の将兵は、古来より馬術・弓術に優れているとされ、鎮圧にやってきた源氏軍だけでは制圧が難しく、そこで大きな役割を果たしたのが同じ東北の清原氏(出羽=山形県)でした。

当時の源氏軍トップである源頼義が、近場で勢力を持っていた清原光頼&清原武則兄弟に協力を頼み、源氏軍の倍以上の兵(記録では1万とも)を調達してもらったのです。

清原氏は、同エリアで一・二を争う有力者だったんですね。

結果、源氏&清原氏が勝利。

報奨として源頼義は伊予守に任ぜられ、息子の源義家も出羽守になると、清原武則も鎮守府将軍となり、奥羽支配を進めました。

鎌倉御家人の宴会

『前九年合戦絵巻』鎮守府将軍の源頼義と息子・源義家/国立国会図書館蔵

そして前九年の役から二十年ほどが経ち、どの家でも世代交代が起きていました。

後三年の役の頃、清原氏の当主は清原武貞(たけさだ)という人でした。

彼は先妻との間に清原真衡(さねひら)という子がおり、その後、安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を後妻にするのですが、この未亡人が経清の息子を引き連れてきます。

武貞はこの義理の息子を正式に養子として認め、「清原清衡(きよひら)」という新しい名前を与えます。

なんだか聞いたことのある名前ですね。

しかし数年後、清衡にとっては異父弟にあたる清原家衡(いえひら)が生まれます。

つまり清原氏の中に「清原氏の嫡流である真衡」と「安倍氏の血を引く清衡」と「真衡の異母弟である家衡」という複雑な兄弟関係ができたのです。

こうなればもうイヤな予感しかしませんでしょう。

 


清衡か家衡のどちらかを跡継ぎにしていれば…

清原武貞が亡くなると、一族内で武力衝突を伴いながら長男の清原真衡(さねひら)が清原氏当主となりました。

国史大辞典では、この跡目争いを後三年の役のキッカケと記しています。

ただ幸いなことに、ここでの争い自体は大事には至りません。

問題はその後です。

真衡は男児に恵まれず、平氏の血を引く家から養子をもらってくるのです。

この養子は成衡と名乗りました。

名前は「なりひら」か「しげひら」か確定していないようですので、お好きなほうで変換してください。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)

ここで真衡が、清衡か家衡のどちらかを養子=跡継ぎにしていれば、おそらく問題はありませんでした。

しかし真衡は、どうしても皇室の流れをくむ人々と縁を強めたかったようで。

平氏の流れをくむ清原成衡を、源氏の血を引く女性(源頼義の落胤とされる女性)と結婚させ、清原氏の次世代を

【平氏&源氏のハイブリッド】

にしようと考えたのです。

『あれ? それでは清原氏の血が終わっちゃうんでは?』と思われるかもしれません。

しかし、当時はより高貴な血筋が好まれる傾向が強く、当初は、清原氏の間で問題になることはありませんでした。

話がこじれるのは、その成衡の結婚式の席で、ちょっとしたトラブルが起きてからです。

現代同様、結婚式となればあっちこっちから親戚がやってきます。

この時も、真衡の叔父に当たる吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)がやってきていました。

秀武は、清原氏の三代に仕えた重鎮で、所領や配下の兵も多い実力者。

このときは大奮発して、大量の砂金で新郎新婦の門出を祝いに来たのです。

 

結婚式のお祝いにやってきた秀武を無視した真衡が逆ギレ!

まずは新郎の父にあいさつを――ということで吉彦秀武は清原真衡のもとを訪れました。

しかし、このときの真衡がどうにもガサツ!

碁に夢中になってしまい、せっかくお祝いに来てくれた秀武を無視し続けてしまうのです。

当然、秀武はブチ切れました。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)

秀武にも配下がいますし、清原氏の本家の人々も見ているわけですから、これでは「真衡は秀武を冷遇している」と言っているも同然になるからです。

顔に泥を塗られた形になった秀武は、砂金を庭にぶちまけて帰ってしまいました。

「大盤振る舞い(物理)」とか言ってる場合ではありません。

しかも、なぜか、無礼を働いたほうの真衡がブチ切れ、秀武討伐のため兵を挙げます。

いやいや、悪いのアンタでしょってば(´・ω・`)

秀武はこれを知ると、後継者争いに遅れをとった家衡と清衡に使いを送り、「一緒に真衡のアホを滅ぼそうぜ!」(意訳)と話を持ちかけました。

真衡と、家衡&清衡の間が決してうまくいっていないことを、当然、秀武は知っておりました。

 


ジャーン!ジャーン!げぇっ、源氏!

家衡と清衡はさっそく秀武への協力を決定。

村を一つ焼き払い、真衡の本拠に迫りました。

真衡は弟たちとすぐ戦おうとしましたが、家衡と清衡のほうが上手で、秀武との合流のため一時兵を退きます。

永保三年(1083年)に起きたこの騒動が、後三年の役の始まりとされますね。

そして、このタイミングで【前九年の役】のときもこの地にやってきていた源義家が新しく陸奥守になり、東北へやってくるのです。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

真衡は、義家おもてなしのため、国府(県庁所在地みたいなもの)だった多賀城(現・宮城県)へ出向き、本拠地出羽を留守にします。

チャーンス!
と思った家衡・清衡は、すかさず真衡の本拠を攻めました。

しかし、さすがに真衡も警戒していて、家臣たちには留守中のことを事前に言いつけており、戦いは真衡サイドの勝利に終わります。

しかも真衡が、源義家と国府の軍を味方につけたため、家衡・清衡は謀反人扱いになるのを恐れて降伏を選びます。

まぁ、こうなれば矛を収めた方が……と思いきや! ここでまたしても話がややこしくなります。

なんと多賀城から出羽へ戻る途中で、当の清原真衡が亡くなってしまったのです。

 

義家、数千騎の軍で出陣!したが……

現代でも、財産分与等が決まっていないうちに被相続人が亡くなると面倒なことになりますよね。

このときも似たようなものでした。

とりあえず国守である源義家が間に入り、真衡個人の所領を半分ずつ清衡と家衡に与えることにします。

これを不服としたのが家衡でした。

「清原氏の嫡流である家衡」ですね。

なんと彼は、義家に訴えるとか、清衡との話し合いも持たず、いきなり攻撃を仕掛けて清衡の妻子をブッコロしてしまいます。

清衡は何とかして逃げ延び、義家に助けを求めました。

そして義家、数千騎の軍で出陣!

『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) /wikipediaより引用

『後三年合戦絵巻』(金沢柵付近 1087年) /wikipediaより引用

歴史に輝く源氏の棟梁・源義家。

その登場により、さしもの東北勢もあっという間にバッサリ――とはなりません。

北国の寒さも影響して、出羽の沼柵を攻めた義家は負けてしまうのです。

 

兄のピンチに弟・義光がやってきた!

古今東西、合戦で勝った方にはあっちこっちから味方がやってくるものです。

このときの家衡には、叔父である清原武衡が話を持ちかけました。

「源氏のヤツらに勝ったのは武門の誉れ! この際、金沢柵に移って、上方勢を完全に撃退しようぜ」(※イメージです)

金沢柵とは?

現在の秋田県横手市金沢中野付近にある軍事拠点で、難攻不落の要害として知られておりました。

ここを最初に押さえておけば、後に、清衡・義家軍が大軍でやってきても容易には落とされない。

彼等にはそんな自信がありましたが、一方の源氏も負けておりません。

源義家の弟・源義光(新羅三郎)が、わざわざ中央での官職を辞してまで、兄の救援(金沢柵攻め)にかけつけたのです!

いやぁ、胸アツですね。

系図を貼っておきますのでよろしければチラ見してください。

後に、源義家の子孫から源頼朝・源義経が出て、さらに途中で枝分かれして足利尊氏も出る。

源義光の子孫からは武田信玄を輩出。

源氏一族の武士属性がハンパじゃないことが一目瞭然でしょう。

 

今度は源義家が謀反を起こされかねない状況に

弟・源義光という助力を得た義家たちは、金沢柵を攻めました。

しかも、この頃はポピュラーではない兵糧攻めを実行します。日本史上初ともいわれています。

元々、この時代の時間感覚は現代よりもかなり長いものです。

清原清衡&源義家・義光軍も、長い時間をかけて金沢柵を包囲しました。

兵糧攻めをされた方としてはたまりません。

女子供の中からは降伏を願い出てきた者も多かったようですが、義家は迷った後、攻略を優先しました。

降伏してきた者を皆殺しにしたのです。

画像はイメージです(男衾三郎絵詞/wikipediaより引用)

 

柵内にもその様子は知られ、降伏する者は出なくなり、柵中では食糧が尽きました。

結果、家衡と武衡は自ら柵に火を放って逃げましたが、どちらも程なくして首を取られています。

こうして後三年の役は清衡・義家軍の勝利!

となったのですが、戦後処理は前九年の役ほどうまくいきませんでした。

というのも、前九年の役は「地元の豪族が税を払わないので、中央から軍が向けられた」という戦いでしたが、後三年の役は朝廷からすると「地元の争いに義家が勝手に介入しただけ」というものだったからです。

しかも、後三年の役の間に中央へ収めるべき金などを送らず、勝手に戦費にしていたため、これもお咎めを受けました。

そりゃ、税金を横領して自分のやりたいことに勝手に使っていたわけですから、マズイですよね。

義家はこのため、10年ほどの間、朝廷から冷遇されました。

また、収めるはずだった税や金を朝廷に「払ってね^^」と言われ続けています。

自業自得ともとれますが、ここで義家にとって頭の痛いことがもう一つ。

部下への恩賞です。

この頃の武士は「恩賞をもらって働く」ことを原則にしています。

命がかかっているのですから、それ相応の領地なり特権なり、金品・米をもらわないと割に合わないわけです。そりゃそうだ。

あまりにも支払いが遅れると、今度は義家が謀反を起こされて殺されかねません。

 

自腹で恩賞を払った義家の支持率が急上昇!

そこで義家は、私財から恩賞を出します。

戦後に懐が寒くなるのも厳しいものですが、命が狙われるよりはマシと思ったのでしょう。

しかし、何が幸いするかわかりません。

これが結果的に武士たちへ好印象を与え「義家様は、働いたことにきちんと報いてくれる」と思われるようになったのです。

かくして前九年の役同様、東国武士たちは源氏に好印象を持ちました。

これがやはり後の源頼朝による幕府創建を助けることになります。

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なお、この戦で一番得をしたのは、清原清衡でした。

彼は争う相手がいなくなったことにより、清原氏の所領を全て相続し、実父の姓である藤原を名乗るようになります。

清原清衡から藤原清衡へ/wikipediaより引用

これが奥州藤原氏の始まりです。

つまり、奥州藤原氏は源氏の助けを得て興った家だということになります。

それが選択を誤り、約100年後、源氏の後裔・頼朝に滅ぼされてしまうのですから、皮肉というかなんというか。

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その源氏も三代で絶えてしまいますし、ホントに諸行無常な話です。

奥州藤原氏の詳細について、あるいは前九年の役をおさらいしたいという方も、以下の関連記事をどうぞ。


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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon
後三年の役/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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