寛治元年(1087年)11月14日は【後三年の役】が終結したとされる日です。
日本史では『ややこしい……』として、敬遠されがちな項目でもありますね。
しかし、お待ちください。
この戦い、まるで戦国時代のプロトタイプを見ているようで、非常に興味深いものがあります。
たしかに登場人物を丸暗記するのはシンドイですが、その前に勃発していた【前九年の役(1051~1062年)】のドンパチから見ると因果関係が興味深く、武田信玄のご先祖様が颯爽と登場!という戦国ファン胸アツな展開があったりします。
舞台は東北~関東。
肩の力を抜き、武士の武士たる所以(ゆえん)を眺めてみましょう。
※以下は源義家生涯まとめ記事となります
源義家は如何にして“特別な武士”となっていったか?武家のシンボルの生涯を辿る
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前九年の役で清原氏にチカラを借りた源氏
前九年の役で謀反を起こした安倍氏(陸奥=宮城・岩手県あたり)。
東北地方の将兵は、古来より馬術・弓術に優れているとされ、鎮圧にやってきた源氏軍だけでは制圧が難しく、そこで大きな役割を果たしたのが同じ東北の清原氏(出羽=山形県)でした。
当時の源氏軍トップである源頼義が、近場で勢力を持っていた清原光頼&清原武則兄弟に協力を頼み、源氏軍の倍以上の兵(記録では1万とも)を調達してもらったのです。
清原氏は、同エリアで一・二を争う有力者だったんですね。
結果、源氏&清原氏が勝利。
報奨として源頼義は伊予守に任ぜられ、息子の源義家も出羽守になると、清原武則も鎮守府将軍となり、奥羽支配を進めました。
そして前九年の役から二十年ほどが経ち、どの家でも世代交代が起きていました。
後三年の役の頃、清原氏の当主は清原武貞(たけさだ)という人でした。
彼は先妻との間に清原真衡(さねひら)という子がおり、その後、安倍氏に属していた藤原経清の未亡人を後妻にするのですが、この未亡人が経清の息子を引き連れてきます。
武貞はこの義理の息子を正式に養子として認め、「清原清衡(きよひら)」という新しい名前を与えます。
なんだか聞いたことのある名前ですね。
しかし数年後、清衡にとっては異父弟にあたる清原家衡(いえひら)が生まれます。
つまり清原氏の中に「清原氏の嫡流である真衡」と「安倍氏の血を引く清衡」と「真衡の異母弟である家衡」という複雑な兄弟関係ができたのです。
こうなればもうイヤな予感しかしませんでしょう。
清衡か家衡のどちらかを跡継ぎにしていれば…
清原武貞が亡くなると、一族内で武力衝突を伴いながら長男の清原真衡(さねひら)が清原氏当主となりました。
国史大辞典では、この跡目争いを後三年の役のキッカケと記しています。
ただ幸いなことに、ここでの争い自体は大事には至りません。
問題はその後です。
真衡は男児に恵まれず、平氏の血を引く家から養子をもらってくるのです。
この養子は成衡と名乗りました。
名前は「なりひら」か「しげひら」か確定していないようですので、お好きなほうで変換してください。
ここで真衡が、清衡か家衡のどちらかを養子=跡継ぎにしていれば、おそらく問題はありませんでした。
しかし真衡は、どうしても皇室の流れをくむ人々と縁を強めたかったようで。
平氏の流れをくむ清原成衡を、源氏の血を引く女性(源頼義の落胤とされる女性)と結婚させ、清原氏の次世代を
【平氏&源氏のハイブリッド】
にしようと考えたのです。
『あれ? それでは清原氏の血が終わっちゃうんでは?』と思われるかもしれません。
しかし、当時はより高貴な血筋が好まれる傾向が強く、当初は、清原氏の間で問題になることはありませんでした。
話がこじれるのは、その成衡の結婚式の席で、ちょっとしたトラブルが起きてからです。
現代同様、結婚式となればあっちこっちから親戚がやってきます。
この時も、真衡の叔父に当たる吉彦秀武(きみこ の ひでたけ)がやってきていました。
秀武は、清原氏の三代に仕えた重鎮で、所領や配下の兵も多い実力者。
このときは大奮発して、大量の砂金で新郎新婦の門出を祝いに来たのです。
結婚式のお祝いにやってきた秀武を無視した真衡が逆ギレ!
まずは新郎の父にあいさつを――ということで吉彦秀武は清原真衡のもとを訪れました。
しかし、このときの真衡がどうにもガサツ!
碁に夢中になってしまい、せっかくお祝いに来てくれた秀武を無視し続けてしまうのです。
当然、秀武はブチ切れました。
秀武にも配下がいますし、清原氏の本家の人々も見ているわけですから、これでは「真衡は秀武を冷遇している」と言っているも同然になるからです。
顔に泥を塗られた形になった秀武は、砂金を庭にぶちまけて帰ってしまいました。
「大盤振る舞い(物理)」とか言ってる場合ではありません。
しかも、なぜか、無礼を働いたほうの真衡がブチ切れ、秀武討伐のため兵を挙げます。
いやいや、悪いのアンタでしょってば(´・ω・`)
秀武はこれを知ると、後継者争いに遅れをとった家衡と清衡に使いを送り、「一緒に真衡のアホを滅ぼそうぜ!」(意訳)と話を持ちかけました。
真衡と、家衡&清衡の間が決してうまくいっていないことを、当然、秀武は知っておりました。
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