木曽義仲を討ち取って平家を滅ぼしたのに、頼朝を怒らせた義経は奥州で自害に追い込まれ、さらには奥州藤原氏も滅亡させられ――。
そんな【奥州合戦】は源義経が辿る悲劇の末路として語られがちです。
場合によっては、義経という疫病神のせいで奥州藤原氏までが潰されたようにも見えてしまう。
しかし本当にそうでしょうか。
もしも義経が逃げ込んでいなければ、奥州は無事でいられた?
仮に義経が西国に潜伏していたら、そのエリアが頼朝に攻められた?
実際のところ、当時はどんな状況だったのか。一連の流れを振り返ってみましょう。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
貿易で栄え軍事力もある奥州藤原氏
なぜ奥州藤原氏は頼朝に攻められたのか?
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、劇中で頼朝が奥州を討つ理由が示されました。
平家打倒を目指して西へ進軍したいのに、奥州で睨みを効かせる藤原秀衡がいるからそう簡単には動けない。
そのため源頼朝は、怪しげな僧侶・文覚に呪詛を頼んでまで、秀衡の死を望んでいるほどです。

文覚と矜羯羅童子・制多迦童子(歌川国芳画)/wikipediaより引用
これは何もドラマで一から作り上げたフィクションではなく『吾妻鏡』に記されたものであり、現代人からすれば荒唐無稽に見える呪詛も当時はかなり本気でした。
頼朝は、真剣に秀衡の死を願っていたのです。
振り返ってみれば、そもそも奥州の藤原秀衡はなぜ幼い牛若丸を匿ったのか?
実は秀衡は、義経一人を助けたのではなく、使い道のある人材なり物資なりを集めて武力を高めて、朝廷や坂東から見ても侮れぬ力がありました。
だからこそ、義経も頼ることができたのです。
ではなぜ、奥州にそれほどの力があったのか?
答えは砂金です。
金が貴重であることは古今東西変わらず、当時は周辺環境からしても価値は高まっていました。
周辺とは中国です。
1127年、中国大陸において、全土を領有していた北宋が滅び、南宋が成立。
平清盛が注力した「日宋貿易」と定義される取引はこの南宋が相手であり、同国には大きな悩みがありました。
他ならぬ金です。
中国大陸の北半分は、敵である金国(国家としての金)に支配されていました。
貴金属が採掘できる鉱山は金国の領土にあって南宋では入手できず、それゆえ日本からの輸入金属類が重宝された。
なお、宋の後にできた元の時代、マルコ・ポーロは『東方見聞録』で“黄金の国ジパング”と記しています。それは南宋時代の影響を受けてのことだったのでしょう。
奥州ではさほどに金が産出され、頼朝にしたってこれ以上ない魅力的なエリアでした。

えさし藤原の郷で再現された金色堂
しかし、状況はそう容易ではありません。
日本国内でもようやく源平合戦が終わったばかりで、兵や民は疲弊しきっている。それなのにまだまだ戦いを続けるとは何事なのか。
大河ドラマの視聴者ですら、殺伐とした源平合戦の流血に疲れたほどですから、目の前で起きている当時の人々からすれば奥州合戦には困惑や抵抗があったことでしょう。
朝廷に接近する「鎌倉殿」こと頼朝
平家を滅ぼした後、頼朝が君臨する鎌倉側は、朝廷に接近する姿勢を見せています。
わかりやすい政治駆け引きの道具とされたのが、頼朝の長女・大姫です。
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大姫(源頼朝と北条政子の娘)/wikipediaより引用
婚約者とされた木曽義仲の嫡子・義高が殺された後も、大姫は頼朝からすれば貴重な駒。
彼女の入内は頼朝の悲願でした。
しかし、大姫が夭折したことにより、その野心は頓挫してしまいます。
一方で、頼朝が朝廷に食い込むことに拘っていたかというと、そうでもありません。
建久3年(1192年)、後白河法皇が世を去ると、頼朝は同年には征夷大将軍となりました。
私達が現代で学ぶ歴史の授業では、鎌倉・室町・江戸の幕府が最高権力者を「征夷大将軍」としたことから、絶対的な官職と見られがちですが、これは誤解。
頼朝の希望はあくまで「大将軍」であり、「征夷」についてはいくつかの候補から選ばれたものです。
そもそも……。
頼朝が「征夷大将軍」となったから幕府が始まったのか?
それとも東国を実効支配した結果「征夷大将軍」となったのか?
卵が先か?鶏が先か?
そんな混同があるのが鎌倉幕府の成立です。
なんせ日本初の幕府であり、それ以前の手本はないのですから、混乱しても仕方のないことでしょう。
かつては「いいくに(1192)つくろう」と教科書にも書いてあった幕府成立が、「いいはこ(1185)つくろう」になったり、あるいは他の候補も挙げられたりするのはこうした状況があるから。
1185年は平家が滅亡し、頼朝が朝廷から御家人や諸国の守護・地頭任命権を得た年です。
そして1192年は征夷大将軍に任じられた年。
その間――1189年にあった奥州合戦――こちらの経過をみれば、1192と1185で揺れ動いた理由も納得できるかもしれません。
奥州合戦とは、日本に武士政権が誕生する大きな契機とも考えられるからです。
朝廷からの追討宣旨なき出兵
『鎌倉殿の13人』では、朝廷に対して苛立つ源頼朝の姿が見られました。
後白河法皇は何を考えているのか?
平家を討ったと言ったかと思えば、今度は頼朝、そして義経を討てと詔を出す。
鎌倉武士たちは大いに振り回されましたが、そもそもシステムに問題があることにお気づきでしょうか?
兵を挙げる上で、なぜ、いちいち朝廷のお伺いを立てねばならないのか。

源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用
そこで頼朝は、逆に、朝廷に対して揺さぶりをかけるようなことをしています。
文治3年(1187年)、東大寺大仏の再建を名目にして、奥州藤原氏から砂金三万両を献上するよう後白河法皇から院宣を出させたのです。
砂金三万両とは、あまりに莫大な量であり、到底できないと秀衡も断っています。
これを受けて頼朝はこう考えたとか。
「秀衡は院宣を重視していない上に恐れてもいない。引き受けるつもりがないようだ。なんとも奇怪なことではないか」
嫌がらせのような要求をさせておき、いざ秀衡が断ったら状況を分析する。なかなかの策です。
そして翌文治4年(1188年)、源義経の奥州潜伏が発覚します。

源義経/wikipediaより引用
『吾妻鏡』では、以前から義経が奥州にいたような記述もあるのですが、九条兼実の日記等他の史料と照らし合わせると、朝廷まで含めて発覚したのはこの年となります。
朝廷は、頼朝を義経の追討使に任じました。
しかし肝心の頼朝が、亡母供養の五重塔建立と厄年を理由に、朝廷からの命令を断っているのです。
動いたのはその約1年後のこと。
長きにわたる殺生禁止期間を終えると、ようやく奥州出兵のため立ち上がりました。
すでに文治5年(1189年)になっていて、朝廷から追討宣旨は得られません。
そこで幕府において重きを為していた大庭景能は『十八史略』前漢文帝の故事を引きます。
軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。
軍事では将軍の命令を聞くものであり、天子の詔を聞かないとかなんとか言います。
奥州藤原氏は源氏の御家人に過ぎない。将軍が軍中において従わぬ家臣を罰するのだから、許可なぞ必要ない。そう解釈したのです。
この論に従えば、いちいち朝廷の許可を得ずに軍勢を動かすことができる――そんな理論のもと、奥州合戦は進められてゆきます。
いわば源平同士の内乱であり、その最終章と位置付けられたのでした。

毛越寺に所蔵されている奥州藤原氏・三衡(上が藤原清衡、向かって右が藤原基衡、左の法体姿が藤原秀衡)/wikipediaより引用
空前の大動員と忠義の確認
頼朝発【奥州合戦】における鎌倉軍は空前の規模となりました。
西は九州からだけでなく、木曽義仲や源義経に仕えていた者たちまでもが動員され、鎌倉に続々と御家人たちが押し寄せてきたのです。
こうした大軍勢の前で頼朝は陣頭に立ち、下知を下しました。
その数、先陣だけでもなんと2万騎。
『吾妻鏡』によれば28万4千騎に達したとか、さすがに大幅な誇張があるにせよ、空前の大軍勢には違いありません。
規模があまりに大きかったせいか、平泉では秀衡の息子・藤原泰衡が自ら火を放っており、戦いというより残党討伐のような有様と化します。
そして空前の大動員は、武士の在り方まで変えました。
頼朝が陣頭に立つ。朝廷の意向は問わない。西国まで動員されている。
頼朝の命を受け、梶原景時と和田義盛が奉行となって兵士を管理する。

和田義盛/Wikipediaより引用
かつて木曽義仲や源義経に味方をしていた者でも、参陣すれば免除される。
逆に参陣しなかった者は制裁対象。所領没収までありました。
軍事を有する武士という勢力が、朝廷を無視して政治を動かすことができる――卓越した政治家である頼朝はそれを証明したのです。
日本史における武士政権は、かくして成立しました。
日本史の特異性があらわれた契機
武力を持った軍人が、朝廷の意向を無視して勝手に動く――実は中国の歴代王朝でも、そんな事態を恐れてきました。
前述のように『十八史略』を引くことで鎌倉幕府は正統化をしておりますが、あくまで例外的なことであり、中国史ではそうした事態を防ぐべく知恵を練ってきたのです。
唐の最盛期を大きく損ねた【安史の乱】は、日本でもしばしば反面教師として学ばれてきました。
しかしそれにも限界があったのでしょう。
武士が朝廷の手綱をはずれ、大軍勢を動員して政治を担うという、日本の歴史が成立したのです。
中国にはあって日本にはないこと、として【易姓革命】があります。
天命を失った天子は、他の姓を持つ有徳者によってその地位を追われるという思想です。
しかし、日本の天皇制ではこれは適応されず、一方で実質的な政治を担う幕府が入れ替わる構図となったのです。
天皇がいて、将軍がいる――その特異性は、幕末に来日した欧米諸国の人々を混乱させています。

ペリー来航/wikipediaより引用
「日本は将軍が統治者なのか? それとも天皇? どうなっているんだ?」
このような日本史を特徴づける転換点は、この奥州合戦にありました。
『鎌倉殿の13人』では、弟の義経が“天才戦略家”とされました。
それでは兄の頼朝は?
卓越した政治家であり、それこそが彼の本質と言えるのでしょう。
弟・義経の死までも政治的に演出し、悪名をものともせず、歴史を変えた源頼朝。
今回の大河でイメージダウンといった感想もありますが、それはどうでしょうか。
むしろ政治家としての実力を描くという点において、2022年の大河は大きな転換点になりました。
弟を追い詰めた憎い兄としての頼朝でなく、その政治力を存分に発揮したのです。
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【参考文献】
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(→amazon)
関幸彦『東北の争乱と奥州合戦』(→amazon)
五味文彦『源義経』(→amazon)
他





